1・稲藁小僧

文字数 7,096文字

「すまねぇなぁ、こったら納屋で」
「いや……これ以上迷惑はかけらんねぇ……お前さんもなるべく俺に近付かない方が良いぜ、感染るかもしれねぇからな」
「だけんども……」
「いや、どのみち畳の上で死ねるような人生は送ってきちゃいねぇんだ、藁の上で死ねるだけでもめっけもんってことよ」
「そ……そうけぇ? 食いモンってもこったらモンしかやれねぇけどよ、稗の粥だ、せめてこれでも食ってあったまってくんろ」
「ありがたく頂くぜ……さ、早くここから離れた方が良いぜ……」

 地の百姓、常造が納屋を離れて行くと、新吉は起こしていた身を再び藁の上に横たえた。
 風邪をこじらせて胸が痛み、もはや息も苦しい、この病は感染るとわかっているのだから自分が触れたものには触らない方が良いし、なるべく近くにもいない方が良いのだ。

『藁の上で死ねるだけでもめっけもん』……それは実感だ。
 泥にまみれるような生涯を送って来た新吉だ、悪事もさんざん働いて来た。
 事実、常造が見つけてくれなければ文字通り泥の中で死んでいたことだろう。

 新吉は常造が持ってきてくれた粥を口にした。
 滋養豊富なものではないが、体が温まるだけでもありがたい。
 食欲はあまりなかったが、冷めてしまわない内にと思って箸を手にとった。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 新吉は、元は稲葉家に仕える下級武士の息子だった。
 『文武両道』の『文』の方はからきしだったが、『武』の方ならば誰にも負けない自信があった。
 剣術に秀でていただけではない、走る、跳ぶといった身体能力にも秀でていたのだ。
 武士は戦闘集団であると共に政治集団でもある、学問は苦手で一本気の新吉は政治の方にはまるで向かないが、戦闘の方ではいっぱしの者になれる……はずだった。
 その歯車が狂ってしまったのは、新吉二十歳の時のこと。
 新吉は窃盗の疑いをかけられた。
 実際には上級武士の息子が遊び半分にやったこと、それが発覚して言い逃れに新吉の名前を出しただけの事だったのだが、体面を重んじ、階級制度の厳しい武家社会の事、真犯人の父は新吉の父を叱責し、新吉の父は新吉の言い分を聞こうともせず新吉を勘当した。
 全ては『お家』を守るため、武士の体面を守るため、新吉はその犠牲となることを強いられたのだ。

 腰の物も取り上げられ、剣術以外には何も学ばないままに、着のみ着のまま放り出された新吉。
 だが江戸では身一つで出来る商売には事欠かない、新吉は『搗き屋』として日銭を稼いだ。
 搗き屋とは、長屋の女将さん連中に『搗き屋さん、ちょいと搗いておくれ』と呼び止められて注文どおりに玄米を搗いて精米し、駄賃を貰う商売、それには頑強な体が大いに物を言った。
 体を使う事は苦にならない新吉のこと、長屋暮らしにもすぐに慣れ、気楽な暮らしも良いものだと思い始めた、しかし、それと自分を理不尽に放り出した武家社会への反感、恨みは別の話、(いつか目に物見せてやる)新吉はそう思いながら日々を過ごしていた。
 転機は直にやって来た。
 きつい目つきで歩く新吉のこと、街のちんぴら二人組に『ガンをつけた』とばかりに絡まれたのだが、反対に易々とその場でのしてしまった、たまたまそれを見ていたの盗賊団の幹部が『こいつは使えそうだ』とばかりに誘ったのだ。
 元々は一本気で正義感も人一倍の新吉だったが、武家社会に一矢報いることが出来るならばと、その誘いに応じた。
 もっとも、誘いに応じなかったならば命を狙われるだろうこともわかってはいたが……。
 
 盗賊団の頭もまた元武士、上級武士の尻拭いをさせられて浪人を余儀なくされたと言う点では新吉と似た経歴を持つ。
 盗賊団は大名の江戸屋敷を専門に狙った。
 それには、自分を理不尽にはじき出した武家社会への復讐と言う一面は確かにある。
 しかしそこには実利的な一面もあった。
 大名屋敷は広さのわりに軽微が手薄であり、それぞれの保身からか、定められた役割以上のことはしようとはしない、たとえ賊に侵入されようとも自分の持ち場からでなければ何の責も負わされないのだ。
 その上、金品を奪われたとしても、表沙汰にすることもまずない、武士が警護している筈の大名屋敷が賊の侵入を許したとあれば体面が保てないからだ。
 加えて、頭がその経歴を利して大名屋敷の内部情報を得る事も容易だったのだ。

 盗賊団は存分に荒稼ぎをしたが、組織と言うものはどこかにほころびが出てしまうものでもある。
 とある大名屋敷の武士が、下っ端の不用意な会話をたまたま耳にして盗賊団の計画を知り、兵を隠しておいたところにノコノコと侵入したものだから堪らない、盗賊団は一網打尽にされてしまった。
 しかし、そこでも新吉の剣術と身体能力は物を言った。
 先頭を切って侵入した新吉だったが、待ち伏せされていた事を知ると三ピンから奪った刀で応戦し、塀を飛び越えて逃亡したのだ。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 その後、しばらくは元の搗き屋として地道に暮らしていたが、盗賊団の一員で荒稼ぎをしていた頃覚えた博打好きは直らない、武家社会への恨みも消えていない。
 新吉は単身で泥棒稼業を再開した。
 手口はすっかり身についている、一人で持ち出せるお宝の量は限られるが、ドジな仲間に脚を引っ張られる恐れもない、搗き屋稼業で腕力は更に強くなっているし、生来の身のこなし、足の速さも健在だ。
 大胆に盗み出した後、武士団に追われながらも風のように疾走り、屋根から屋根へと軽々と飛び移りながら逃げおおせる新吉の姿は江戸市中のところどころで目撃されて評判となった。
 江戸市民にとっても、普段居丈高に振舞う武士が右往左往させられる姿には溜飲が下がる思いだったのだ。
 そして、新吉は盗みに入った後、必ず結んだ稲藁を一本残して来た。
 元は稲葉家の家来、それを暗示していたのだが、いつしか人は新吉を『稲藁小僧』と呼び、英雄視するようになって行った。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 江戸の街を颯爽と駆け抜ける稲藁小僧だったが、物事に絶対はありえない。
 新吉にもまたお縄になる時がやって来た。

 小雨の降る夜、屋根伝いに逃げようとして、濡れた瓦に足を滑らせたのだ。
 捕縛された新吉に下された裁きは「市中引き回しの上獄門」。
 見せしめの意図を孕んだ「市中引き回し」だったが、実際に新吉を裸馬に乗せて歩き始めた途端、役人達はその目論見が見当違いだった事を思い知らされた。
 新吉はまるで英雄、江戸市民は新吉の姿を見ると熱狂し、口々に賞賛を浴びせる……見せしめどころか、いずれ新吉を見倣うおうとする者が出てくるのではないか
と危惧するほどだ。
 馬上の新吉も歓声に笑顔で応える余裕すら見せる。

 そして、不忍池に差し掛かった時のことだ。
「すまねぇな、用を足したいんだが」
「ならぬ」
「そうかい、それなら馬の上で垂れ流すことになるが、構わねぇよな」
「う……」
 引き回していた役人はたじろいだ。
 縄をかけられて引き回されてさえ、やんやの喝采を浴びる新吉のこと、この上そのように無様な姿を晒されると非難を浴びかねない。
 目論見とは逆効果になってしまっている市中引き回し、何事も無くさっさと済ませてしまいたいのはやまやまだ。
「……わかった、だが、縄は解かんぞ」
「いや、手は解いてもらわねぇとふんどしも解けねぇよ」
「……むむ……では、腰縄だけにしておいてやるから、さっさと済ませるのだぞ」
「この世で最後のクソくらい、ゆっくり心置きなくさせてくれよ」
「ならぬ、さっさと済ませぃ」
「へぃへい、わかりやしたよ」

 腰縄を掴んでいる雑色(罪人を取り囲んで馬を引いた非人)だけでなく、検分役の武士まで着いて来たが、検分役は厠を見るなり眉をひそめた。
 長屋の厠ならば戸は上半分のみ、逃げられる筈もない、しかし、屋外にあるとは言え料理屋の厠、戸はぴったりと上まで閉まる上、不忍池に面して小窓までついている。
「戸を閉めること、あいならん」
「それじゃ出るものも出ねぇや」
 引き回し中には罪人の願いは聞き届けてやるのが通例、厠にも満足に行かせなかったとなれば余りに狭量だと言われかねない。
「むむ……おい、雑色、縄がたるまぬ様しっかりと掴んでおれ」
「へへ、悪いね」
 新吉は褌を解くふりをして、その実腰縄を解きながら厠の中へ。
 戸を閉めながら、戸と床の隙間から通された縄を掴んで素早く金隠しに縛り付けた。
「どうした、まだ終わらぬのか……おい、おい! あっ! しまった!」
 役人が声をかけた時、既に新吉は不忍池を泳いで渡っている最中だった。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 まんまと逃げおおせた新吉だったが、寒空の下、着ているものは罪人の薄っぺらな着物一枚、それもびっしょりと濡れている。
 それでも江戸を離れ、武藏国の農村まで逃げ伸びたところで力尽きてしまった。
 風邪をこじらせて肺炎を併発していたのだ。
 なんとか体力の回復を待とうと里山に潜んだが病状は悪化するばかり、このままでは死んでしまうと考えた新吉は、なにか食べる物なり盗み出そうと、いちかばちか里に出ようとしたのだが、里に下りる山路で力尽きて倒れてしまった。
 その新吉を見つけたのが常造だったのだ。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 その後数日にわたって、常造は粥を運んできてくれた。
 すると体力が回復してきたのか、新吉の熱も下がり始め、何とか動けるようになってきた。
 そうなれば長居は無用だ。
 自分の為ばかりではない、新吉が稲藁小僧と知ってしたのではないこととは言え、それが顕われれば常造にも大きな迷惑をかけてしまうことになる。
 常造はいわば命の恩人、その恩人に対して何の礼もしないまま去るのは心苦しかったが、新吉はそっと納屋を抜け出した……。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 人相書きが出回っている以上、ひとところに長居は出来ない。
 着のみ着のまま常造の納屋から抜け出した新吉だったが、路銀を調達する位はわけのないこと。
 大名屋敷ではない所から盗むのは信条に反するが、今はそうも言っていられない。
 闇に紛れて大きな商家から少々まとまった金を盗み出すと、新吉は旅を続けながら江戸を目指した。
 江戸に戻る事が危険な事は承知している、しかし、一度は戻らなければならない理由があったのだ。
 盗み出した金子はあらかた使ってしまった、しかし江戸で売り捌くには危険が伴う宝飾品などは油紙に厳重に包んで地中に隠しておいたのだ。
 今こそそれが必要だった。
 この先、商家などに忍び込まずに旅を続けるために、そして常造の恩に報いるために。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 新吉が常造の家に舞い戻ったのは、匿ってもらってから一年余り過ぎてからだった、江戸で盗んだ品を売り捌くには旅を続ける必要があった、怪しまれないように品物を金に替えるには、一時にまとめて売り捌くわけには行かなかったのだ。
 常造も、既にあの時世話した行き倒れが実は稲藁小僧だったと言う事には気付いていることだろう、おおっぴらに訪ねるわけには行かないが、こっそり忍び込んで、いつもとは逆に金を置いて逃げるつもりだった。
 しかし、壁に貼り付いて中の様子を伺うと、なにやら様子がおかしい。
 顔を合わせた事はなかったが、母と娘が手を取り合って泣いているようなのだ。
 そっと覗いてみると、確かにそうだった。
 どうやら娘は身売りされるらしい……一体これは……。
 少し考えればわかることだった。
 常造の姿がないのはおそらく死んだのだろう、丈夫そうに見えた常造のことだ、あの時、自分が病を感染してしまった可能性が高い。
 働き手を失った一家、女房や娘も懸命に働いたには違いないだろうが、所詮女子供、少しづつ重ねた借財……財産などありそうにない百姓家だ、貸すのは高利貸し、そしてそんな輩が担保になりうると考えるのは唯一つ、娘しかない。
 しばらく別れを惜しみ、悲しむ母娘の会話に耳をそばだてていた新吉。
 どうやら娘が連れて行かれるのは今夜これからすぐのことらしい。
 新吉は心の中で常造に詫びると共に、今日、この時に間に合った事を、柄にも無く神仏に感謝し、辺りを見回した。
 この百姓家に続く道はただ一本、ならば娘を連れ去りに来る女衒は必ずその道を通る筈だ……。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

「なんだ? 手前ぇは」
 女衒が道をふさいだ新吉に凄んで見せる、隣にいるのは高利貸だろう、ならば好都合、その方が話が早いと言うものだ。
「あんたたち、常造の家へ行こうとしているんだろう?」
「だったらどうだって言うんだ、お前ぇに何の関わりがある?」
「どっこい、大有りなんだなぁ、これが」
「何だと?」
「娘を連れて行くのはよしにして貰いてぇんだが……借財はいくらなんだい?」
「利子も入れるとかれこれ十両になるかな」
 傍らの高利貸が厭らしい笑みを浮かべる、娘の身売り代の相場など知らないが、十両盗めば首が飛ぶと言う位だ、おそらくは実際よりだいぶ高く言っているのだろう。
「そいつを俺が肩代わりしたら、娘は見逃してもらえるかい?」
 高利貸はにんまりとした。
 実際は何両だか知らないが、十両を受け取れれば大儲けなのだろう。
 しかし、女衒はそれでは引き下がらなかった。
「そういうわけにもいかねぇな、先様との約束もあるんだ、常造の娘は中々の上玉だからな、俺としちゃ一番のお得意に良い品を届けなくちゃならねぇんだよ、それにお前ぇ、たいした身なりでもねぇくせに十両なんて大金を持ってるのかい?」
「まあな」
「ほほう……俺としちゃ十両で娘をお前ぇに売ってやるより良い商売があるんだがな……」
「そいつは商売と言えるかどうかな……」
「野郎っ!」
 新吉がそうと踏んだ通り、女衒は懐から匕首を出して切りつけて来たが、無論、田舎のやくざ者の手にかかるような新吉ではない、ひょいと体をかわすと背中をドンと突いて女衒を這い蹲らせた。
「舐めんな!」
 立ち上がった女衒は逆上して再び切りつけて来るが、新吉にとって逆上した相手をあしらうことなど容易い、女衒を投げ飛ばして這い蹲らせると、その背に馬乗りになって腕をねじり上げて匕首を奪う。
「まだやるかい?」
「こ……殺さねぇでくれ……」
 奪われた匕首を喉元に押し付けられた女衒は首を振るわけにも行かず、呻くようにそう言った。
「俺ぁな、さんざん悪事を重ねちゃ来たが人を殺めたこたぁ一度だってねぇんだ、勘弁してやるから娘からは手を引くと約束しちゃくれねぇか?」
「わ……わかった…………野郎!」
 喉元から匕首が離れると、女衒は匕首を取り返そうと新吉に飛び掛る、しかし、それも新吉の読みの範囲内だった。
「大人しくしてくれてれば痛ぇ目に遭わせずにも済んだのによ」
「ぐえっ! ぎゃっ!」
 新吉は身をかがめて女衒の拳をやり過ごすとると、振り向きざまに女衒の両のふくらはぎを匕首でなぎ払った、二度と立ち上がって来れないように腱を切断したのだ、そしてあまりの痛みに地面を転がりまわる女衒の姿に怖れをなして、腰を抜かせてへたり込んでいる高利貸しに向き直った。
「お前ぇもいい加減あくどい商売をしてきてるんだろうが、法外な高利だろうと商売には違ぇねぇや、十両ってのが吹っかけてきているんだろうってことも承知だがよ、言い値の十両を払おうじゃねぇか……ほら、こいつはくれてやらぁ、書付をこっちへ寄こしな」
 高利貸しが慌てて差し出した書付を改めると、新吉はそれを提灯の灯にかざして焼き捨てた。
「これでよしと……金輪際あの一家に手出しするんじゃねぇぜ」
 そう釘を刺して股の間の地面に匕首を突き立てると、高利貸しは小便を漏らしならがら泡を吹いた。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 チャリン。
 常造の家ではまだ母娘が抱き合って泣いていたが、土間に響く金の音におそるおそる障子を開けると、この先母娘が暮らして行くのに充分な額の小判が……。
「おっかさん、こんなものが」
 土間に降りた娘が拾い上げたのは結ばれた稲藁……。
 はっと気付いた母親が急いで引き戸を開けて外を見回したが、そこにはもう誰の姿もない……。
 闇に向かって手を合わせる母、そしてその意味もわからないままに母に倣って手を合わせる娘……二人の黒髪に今年初めての雪がふわりと舞い落ちた……。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 大泥棒、稲藁小僧・新吉。
 彼はそれっきり人の目に止まる事はなく、おそらくは縄抜けの際にどこかの山の中で狼にでも食われたのだろうと、いつしか人相書きも貼り出される事はなくなった。
 彼がどこでどうしているのか、それとも既にこの世のものではないのか、それは誰も知らない。



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