世界の歴史の中の人 上
文字数 6,169文字
「遅いデスよ、赤司先輩」
汗水を散らしながら部室へ駆け込んだ私に、この後輩はまず苦情を言い放った。ドアの縦枠に右手を置いて、左手はひざの上に乗せ息を荒げる様を見れば、私が如何に急いで来たか一目瞭然だろうに、労いの言葉は無いらしい。
「連絡してから、もう十五分も経ってますデス」
「たったの十五分でありましょうっ!?」
尚も淡々と文句を重ねる少女に、なんとか息を整えて私は反論する。
十五分、これが遅いか早いか、事情を客観的に鑑みれば、どちらの主張が正しいかは歴然であるはずだ。
私――赤司朱里《あかしあかり》に正義がある。
大いなる自信を持ってそう断言できる。
その根拠として、まずこの状況。
今、部室には私と彼女の二人しかいない。
何故ならば、今日はこの北塔高校電子工学部の活動日ではないからだ。
そうであるから、当然私は、帰りのHRが終わると同時に帰路についた。録画してある朝ドラが、ここ一週間分溜まっていたので、それを全部観てしまおうというつもりであった。
のんびり歩けば三十分はかかる帰り道だ。いつもは自転車で通学しているが、この日は朝に雨が降っていたので徒歩である。
別に急ぐでもない、私はのんびりと帰っていた。
丁度、自宅の門前に辿り着いた折、スマホの着信音が鳴る。
確認すれば、一件のメッセージ。
――至急部室へ。とかく急げ。一秒を惜しめ。一刻の猶予もないものと心得よ。
何事かと思った。驚くし、焦る。
私は踵を返し、全力で駆け出した。
息は上がり、肺が破裂しそうになる。しかし、足の回転は緩めない。
速く、速く、速く、前へ、前へ、前へ――。
すれ違う、ポメラニアンを連れたご老人から声援を貰いつつ、帰宅に三十分かけた道のりを、僅か十五分で疾走し学校へ戻ったのだ。賞賛されて然るべき好タイムであろう。
以上を述べたうえで、私は自身の正当性を主張する。
「家の前まで行ってたデスか、なら自転車で来ればよかったデスよ」
……正論、であった。
私が反論できず押し黙ったのを確認してこの後輩――山波静は、続ける。
「では本題に入らせてもらいますデス。テク開についてなんデスけど」
テク開とはテクノロジー開発の略である。更に言えば、文化祭に向けた対外向けパフォーマンスのためのテクノロジー開発のことを、この部では特にそう呼んでいる。
「それなら私はもう完成させたでありますよ。何か問題でもあったでありますか?」
「完成ってあの『にっこりメソメソ君』がデスか?」
『にっこりメソメソ君』、ポジティブな言葉を入力すれば笑顔の顔文字を表示し、逆にネガティブな言葉を入力すれば泣いている顔文字を表示する、私の開発した傑作AIだ。
「あれ、ネガティブな言葉を入力しても、ずっとにこにこしてるじゃないデスか」
「愛嬌があって良いと思うであります」
「ただの阿保、じゃなきゃドMデス……まあそれはいいデス。用事って言うのは、先輩のポンコツAIじゃなくて、私の作品についてデス」
ポンコツとは聞き捨てならず、発言の撤回を求めたが、そんな私の抗議は聞き捨てられた。
山波は私を部屋の真ん中に置かれた椅子に座らせる。
「これは何でありますか?」
椅子と言ってもそれは学習椅子やパイプ椅子のような最低限椅子の形を成している簡素な造りのものではなく、もっと全身を包み込んでくれるような、強いて言えばマッサージチェアに似た、人造皮革が張られたすべすべふかふかの代物である。少なくとも一昨日、最後に部室へ訪れた時にはこんな物はなかった。
「これが山波の発明なんでありますか?」
私の問いに答えず、何やら後ろで作業をしている山波にもう一度質問を飛ばす。
「それも含めて、デスね。メインはこっちデス」
そう言って彼女は私の頭に何かを被せた。目元までばっちり覆われて、視界が途端に奪われる。今は、真っ暗な空間の奥で『no signal』という白い文字が浮かんでいるのだけが見えている。
VRヘッドギアの類を装着させられたのだとすぐに理解した。
「赤司先輩、世界史苦手デスよね?」
「え、まあ平均点を取れたことはないでありますが」
それがどうしたというのか。
「これは、私が開発した世界史学習システムデス。歴史上のあらゆる時代、あらゆる国をバーチャル世界で再現しました。そこにダイブすることで、実際の体験を通じて世界史を学ぶことができるのデス。教科書で勉強するおよそ十倍の学習効果があるはずデスよ」
「まじでありますか……」
普通にすごすぎる。少なくとも、こんな地方の高校の文化祭でお披露目するような技術ではないだろう。もっとこう、しかるべき発表の舞台があるのではないか。
「あの、一応確認したいのでありますが、これ安全面は大丈夫なんでありますよね? 脳に悪影響が出たりとかはないでありますな?」
高度な技術だが、それ故私にとって未知な部分は多い。当然この手の不安は出てくる。
「安心してください」、その言葉をこの優秀な後輩から聞きたくて問いかけるが、
「それを確かめるために先輩に来てもらったデスよ」
ガシャンと、椅子の仕掛けによって両腕、両足が拘束された。
「うおおおおおおっっ、外せでありますっ! 外せでありますっ!」
「では歴史を巡る旅へ行ってらっしゃいデス、被験者として務めを果たせ」
背後でキーボードを叩く音を最後に聞きながら、視界は真っ白な光に覆われた。
***
『赤司せんぱーい、聞こえてたら返事してほしいデス』
「う、うぅん……」
聞こえてきた、というよりは頭の中に直接響いてきた後輩の声で意識が徐々に覚醒する。
低い視界に自分が座り込んでいると気がついて、ゆっくり、立ち上がった。
辺りを見渡す。正面には大きな硝子窓、それが大きな柱で区切られて、右へ左へ等間隔でどこまでも並んでいる。
そこから差し込む陽光が暖かい。
視線を滑らすように上に向ける、高いアーチ状の天井、そのままゆっくりと体ごと向きを変え、後ろを見る。
間近に何やら立派な石像があって驚いた。この石像もやはり、ちょうど窓の正面に来るように、等間隔に銘々並んでいる。
なるほどここは廊下らしい。それもすごく立派な廊下だ。数本歩けば、ローファーが地面を叩く音が、真っ白の、たぶん大理石でできた壁に反響した。
すごいなあ――。
「……って、ここどこでありますかぁっ!?」
『あ、やっぱり起きてるじゃないデスか。さっさと返事してくださいよ』
頭の中に不満げな山波の声が響く。
『まあいいデス。そこは十八世紀フランスのヴェルサイユ宮殿デスね。流石に世界史の全てを巡るわけにも行きませんから、こちらで適当にピックアップした場所を先輩には紀行してもらいますデス』
「うぇっ、こ、これバーチャル世界なんでありますか!?」
『はいデス』
冗談だろうと耳を疑う。
今目の前に広がる光景は、現実のそれと何ら遜色がない解像度を誇っている。
それに、
『五感も完全にリンクしてますデスから、食事なんかも楽しめるデスよ。まあお腹にはたまりませんが』
「偉業すぎて最早オーパーツの域でありますな……」
今現在の、世界の技術の限界を軽く飛び越えているじゃないか。
『じゃあ適当にうろついて欲しいデス。先輩にはテストプレイヤーとしてさまざ……データ……集め……い……』
「は? へ? なんでありますか?」
突然、頭の中の山波の声が不鮮明に、途切れ途切れになり始めた。
『あ……聞こえ……先ぱ……――――』
「ちょっ、山波っ、おーいっ」
そのまま彼女声は途絶えてしまい、何度呼びかけて見ても応答がない。
「ちょっとお!? ふざけんなでありますよ!」
早速不具合が起こっているではないか。私は憤慨する。先輩を実験台にするような、無礼とかそういう次元を超克した後輩であるが、今この瞬間は唯一の寄す処であったことに違いはない。
お前がいなくなって、一人、十八世紀のフランスに放り出された私は一体どうすれば良いのか。というかこれ、自力で現実に帰れないのか、だとすればそれは致命的な欠陥ではないか。
そんなことを考えて、途方に暮れていると、
「おい貴様、そこで何をしている」
野太い怒鳴り声が響き渡った。
びくりと肩を震わせて振り返ると、二人の男が足早に私の元へ向かって来ている。足のラインがはっきりと分かるぴったりとした半ズボンに、ひざ下まである長い靴下を履いている。
上はベストだかコートだかを着ていて、きゅろっと……だったか何だったか、歴史の授業で習ったがよく覚えていない、とにかく如何にもヨーロッパの貴族然とした出で立ちの男たちであった。
彼らが目の前までやってきて、私は萎縮してしまう。「人」もやはり、何のデフォルメもされていない現実の人間そのものの見た目だ。
「見ない顔の女だな」
「それに妙ななりをしております」
言われて視線を下に落とす。なるほど、この時代の女性がどんな格好をしているかは知らないが、少なくともブレザーの高校制服ではないだろう。
「なんにせよ、王族でも貴族でもないことは確かだな」
「暗殺未遂の一件以来、ただでさえ王は神経質になられています。侵入者が現れたなどと知れば、いっそうお心を煩われますぞ」
「とはいえ、この者がまさにその暗殺者やもしれんのだ。追い出してそれで終わりというわけにもいくまい」
明らかに日本人ではないが、彼らの言葉は日本語として理解できた。親切設計である。などと現実逃避をしている場合ではない。聞くに、会話の雲行きは怪しくなっていっている。完全な偏見ではあるが、この時代の人達は容赦なく死刑とかにしてきそうだ。あるいは死ねば現実に戻れるのかもしれないが、いくらバーチャルとはいえここまでリアルな世界で死を経験するのは精神衛生上よろしくない。それに五感が反映されているなら、なんかちゃんと痛そうだ。痛いのはいやだ。
「やあ、ここにいましたかアカリ殿!」
どう弁明したものか分からず口をぱくぱくしていた折、ふと明るく私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。そちらを向くと、にこにこ笑う、やはり貴族然とした出で立ちの男が一人こちらに歩いて来ていた。
彼を見て、目の前の二人の男は剣吞とした雰囲気を収める。
「ああ、伯爵の連れであったか」
「怖がらせてすまなかったな」
そう言ってさっさと立ち去ってしまった。
残った男は面目なさげに笑いながら、私に話しかける。
「申し訳ありませんアカリ殿、いや結構頑張ったのですが、見つけるのが遅れてしまいました」
先までの二人と比べて幾分若い、それに、私感であるがハンサムだ。
「ええと、あなたは一体誰でありますか?」
私が聞くと、彼は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐにまた笑みを浮かべて答える。
「ああ、なるほど……これは失礼しました。自己紹介がまだでしたな。私、サンジェルマンと申します。あなたのこれより始まる歴史紀行、その案内をするものです。よろしくお願いします」
彼は言って、恭しく頭を下げた。
歴史の学習漫画にいるような、マスコットキャラだったり歴史博士だったりする解説役、このバーチャル世界ではこのサンジェルマンという人物がそれなのだろう。
サンジェルマンというのが実在の人物なのか山波のオリジナルキャラなのか知らないが、先生がいてくれるのは助かる。何より一人じゃないのがありがたい。
「赤司朱里であります。こちらこそ、よろしくお願いするであります」
「存じています。さあ、さっそくこの時代の案内を致しましょう」
言ってサンジェルマンは歩き始め、私もそれについていく。
「今はルイ十五世の治世です。彼は最愛王と呼ばれております。というのも、王は実に恋多きお方で、正妻以外に多くの愛人を囲っておられます。王の業績ですが――」
歩きながら彼がつらつらと何か解説をしてくれるが、私はそれを話半分に聞き流す。私の世界史の成績が悪いのは世界史に興味がないからで。それよりもすれ違う人々の反応が気になった。
皆、一瞬訝しげに私を見るが、傍にサンジェルマンがいるのを確認して、すぐに納得したような顔になり何も言わず行ってしまう。
しばらくの間サンジェルマンの解説を聞きながらヴェルサイユ宮殿を巡り、今は屋外の、広大な庭園に来ていた。
歩き回るうちに、植えられている植物の種類が変化したのに気がつく。先までの、泉水の周囲に植えられていたのは、生垣だったり観賞用の花々だったりであったが、今この場所に植えてある、例えばこの木は少し気色が違う。
これは、
「蜜柑の木、でありますか」
「なぜフランスに蜜柑の木が、と不思議に思われますか。よくぞお気づきになられた!」
別にフランスにだって蜜柑はあってもいいと思うが、何やら感心してくれているので言わないでおく。
「ここはオランジュリーと呼ばれる場所です。蜜柑や檸檬のように、フランスの気候では育成し難い植物を海外から取り寄せ育てている、いわば果樹園ですな。今の時期は外に出していますが、もう少し寒くなれば温室に移動されます」
「王様は柑橘類が好きなんでありますか」
「ははは、いえそれは違いますよアカリ殿。珍しい植物を保有しているというのは権威を示すうえで重要なことなのです」
権威、か。
そんなもの、この豪華絢爛で広大無辺と紛うヴェルサイユ宮殿だけで十分示せていそうなものである。
「フランスはすごい国でありますな。さぞ強国なんでありましょう」
私が言うとサンジェルマンは、浮かべていた笑みを少し儚げなものにして肩をすくめた。
「そうでもありませんよ。ここの所のフランスは大局を見ればずっと下り坂です。近く、国そのものの存続を揺るがすような波乱が起きるでしょうな」
「こんなにすごい宮殿を造った国が、でありますか」
「アカネ殿、ヴェルサイユ宮殿を造ったのは――そして歴史を創るのは、国ではなく人ですよ」
彼は諭すように、柔らかい声色で言った。
しかし私はその言葉の意味を取りかねて、うつむく。
うつむいたから、異常に気が付いた。
足元の私の影が、飴細工のように引き伸ばされながら、時計回りにゆっくりと傾き移動していた。
慌てて後ろを振り返えれば太陽が、タイムラプス再生のように、目に見えて動いていると分かる速さで沈んでいっている。
「こ、これは」
「おや、もう次の時代へ行かねばならないようですね」
「次の時代……これがその合図なんでありますか……」
演出としては洒落ているのかもしれないが、ちょっと不気味だ。
「これより始まる貴方の旅路が、楽しいものでありますように」
そう言うサンジェルマンは、相変わらず笑っていたがしかし、その目からは涙が溢れていた。
「何で、泣いているでありますか?」
「別れというのは悲しいことですからな」
「じゃあ何で笑ってるでありますか……」
「悲しい時こそ笑わなくては!」
そう言うと彼は、最初に会った時のように、恭しく私に頭を下げる。
「ではアカネ殿! また次の時代で、貴方をお待ちしておりますよ!」
そんな彼の声をどこか遠く聞きながら、私の視界はホワイトアウトしていった。
汗水を散らしながら部室へ駆け込んだ私に、この後輩はまず苦情を言い放った。ドアの縦枠に右手を置いて、左手はひざの上に乗せ息を荒げる様を見れば、私が如何に急いで来たか一目瞭然だろうに、労いの言葉は無いらしい。
「連絡してから、もう十五分も経ってますデス」
「たったの十五分でありましょうっ!?」
尚も淡々と文句を重ねる少女に、なんとか息を整えて私は反論する。
十五分、これが遅いか早いか、事情を客観的に鑑みれば、どちらの主張が正しいかは歴然であるはずだ。
私――赤司朱里《あかしあかり》に正義がある。
大いなる自信を持ってそう断言できる。
その根拠として、まずこの状況。
今、部室には私と彼女の二人しかいない。
何故ならば、今日はこの北塔高校電子工学部の活動日ではないからだ。
そうであるから、当然私は、帰りのHRが終わると同時に帰路についた。録画してある朝ドラが、ここ一週間分溜まっていたので、それを全部観てしまおうというつもりであった。
のんびり歩けば三十分はかかる帰り道だ。いつもは自転車で通学しているが、この日は朝に雨が降っていたので徒歩である。
別に急ぐでもない、私はのんびりと帰っていた。
丁度、自宅の門前に辿り着いた折、スマホの着信音が鳴る。
確認すれば、一件のメッセージ。
――至急部室へ。とかく急げ。一秒を惜しめ。一刻の猶予もないものと心得よ。
何事かと思った。驚くし、焦る。
私は踵を返し、全力で駆け出した。
息は上がり、肺が破裂しそうになる。しかし、足の回転は緩めない。
速く、速く、速く、前へ、前へ、前へ――。
すれ違う、ポメラニアンを連れたご老人から声援を貰いつつ、帰宅に三十分かけた道のりを、僅か十五分で疾走し学校へ戻ったのだ。賞賛されて然るべき好タイムであろう。
以上を述べたうえで、私は自身の正当性を主張する。
「家の前まで行ってたデスか、なら自転車で来ればよかったデスよ」
……正論、であった。
私が反論できず押し黙ったのを確認してこの後輩――山波静は、続ける。
「では本題に入らせてもらいますデス。テク開についてなんデスけど」
テク開とはテクノロジー開発の略である。更に言えば、文化祭に向けた対外向けパフォーマンスのためのテクノロジー開発のことを、この部では特にそう呼んでいる。
「それなら私はもう完成させたでありますよ。何か問題でもあったでありますか?」
「完成ってあの『にっこりメソメソ君』がデスか?」
『にっこりメソメソ君』、ポジティブな言葉を入力すれば笑顔の顔文字を表示し、逆にネガティブな言葉を入力すれば泣いている顔文字を表示する、私の開発した傑作AIだ。
「あれ、ネガティブな言葉を入力しても、ずっとにこにこしてるじゃないデスか」
「愛嬌があって良いと思うであります」
「ただの阿保、じゃなきゃドMデス……まあそれはいいデス。用事って言うのは、先輩のポンコツAIじゃなくて、私の作品についてデス」
ポンコツとは聞き捨てならず、発言の撤回を求めたが、そんな私の抗議は聞き捨てられた。
山波は私を部屋の真ん中に置かれた椅子に座らせる。
「これは何でありますか?」
椅子と言ってもそれは学習椅子やパイプ椅子のような最低限椅子の形を成している簡素な造りのものではなく、もっと全身を包み込んでくれるような、強いて言えばマッサージチェアに似た、人造皮革が張られたすべすべふかふかの代物である。少なくとも一昨日、最後に部室へ訪れた時にはこんな物はなかった。
「これが山波の発明なんでありますか?」
私の問いに答えず、何やら後ろで作業をしている山波にもう一度質問を飛ばす。
「それも含めて、デスね。メインはこっちデス」
そう言って彼女は私の頭に何かを被せた。目元までばっちり覆われて、視界が途端に奪われる。今は、真っ暗な空間の奥で『no signal』という白い文字が浮かんでいるのだけが見えている。
VRヘッドギアの類を装着させられたのだとすぐに理解した。
「赤司先輩、世界史苦手デスよね?」
「え、まあ平均点を取れたことはないでありますが」
それがどうしたというのか。
「これは、私が開発した世界史学習システムデス。歴史上のあらゆる時代、あらゆる国をバーチャル世界で再現しました。そこにダイブすることで、実際の体験を通じて世界史を学ぶことができるのデス。教科書で勉強するおよそ十倍の学習効果があるはずデスよ」
「まじでありますか……」
普通にすごすぎる。少なくとも、こんな地方の高校の文化祭でお披露目するような技術ではないだろう。もっとこう、しかるべき発表の舞台があるのではないか。
「あの、一応確認したいのでありますが、これ安全面は大丈夫なんでありますよね? 脳に悪影響が出たりとかはないでありますな?」
高度な技術だが、それ故私にとって未知な部分は多い。当然この手の不安は出てくる。
「安心してください」、その言葉をこの優秀な後輩から聞きたくて問いかけるが、
「それを確かめるために先輩に来てもらったデスよ」
ガシャンと、椅子の仕掛けによって両腕、両足が拘束された。
「うおおおおおおっっ、外せでありますっ! 外せでありますっ!」
「では歴史を巡る旅へ行ってらっしゃいデス、被験者として務めを果たせ」
背後でキーボードを叩く音を最後に聞きながら、視界は真っ白な光に覆われた。
***
『赤司せんぱーい、聞こえてたら返事してほしいデス』
「う、うぅん……」
聞こえてきた、というよりは頭の中に直接響いてきた後輩の声で意識が徐々に覚醒する。
低い視界に自分が座り込んでいると気がついて、ゆっくり、立ち上がった。
辺りを見渡す。正面には大きな硝子窓、それが大きな柱で区切られて、右へ左へ等間隔でどこまでも並んでいる。
そこから差し込む陽光が暖かい。
視線を滑らすように上に向ける、高いアーチ状の天井、そのままゆっくりと体ごと向きを変え、後ろを見る。
間近に何やら立派な石像があって驚いた。この石像もやはり、ちょうど窓の正面に来るように、等間隔に銘々並んでいる。
なるほどここは廊下らしい。それもすごく立派な廊下だ。数本歩けば、ローファーが地面を叩く音が、真っ白の、たぶん大理石でできた壁に反響した。
すごいなあ――。
「……って、ここどこでありますかぁっ!?」
『あ、やっぱり起きてるじゃないデスか。さっさと返事してくださいよ』
頭の中に不満げな山波の声が響く。
『まあいいデス。そこは十八世紀フランスのヴェルサイユ宮殿デスね。流石に世界史の全てを巡るわけにも行きませんから、こちらで適当にピックアップした場所を先輩には紀行してもらいますデス』
「うぇっ、こ、これバーチャル世界なんでありますか!?」
『はいデス』
冗談だろうと耳を疑う。
今目の前に広がる光景は、現実のそれと何ら遜色がない解像度を誇っている。
それに、
『五感も完全にリンクしてますデスから、食事なんかも楽しめるデスよ。まあお腹にはたまりませんが』
「偉業すぎて最早オーパーツの域でありますな……」
今現在の、世界の技術の限界を軽く飛び越えているじゃないか。
『じゃあ適当にうろついて欲しいデス。先輩にはテストプレイヤーとしてさまざ……データ……集め……い……』
「は? へ? なんでありますか?」
突然、頭の中の山波の声が不鮮明に、途切れ途切れになり始めた。
『あ……聞こえ……先ぱ……――――』
「ちょっ、山波っ、おーいっ」
そのまま彼女声は途絶えてしまい、何度呼びかけて見ても応答がない。
「ちょっとお!? ふざけんなでありますよ!」
早速不具合が起こっているではないか。私は憤慨する。先輩を実験台にするような、無礼とかそういう次元を超克した後輩であるが、今この瞬間は唯一の寄す処であったことに違いはない。
お前がいなくなって、一人、十八世紀のフランスに放り出された私は一体どうすれば良いのか。というかこれ、自力で現実に帰れないのか、だとすればそれは致命的な欠陥ではないか。
そんなことを考えて、途方に暮れていると、
「おい貴様、そこで何をしている」
野太い怒鳴り声が響き渡った。
びくりと肩を震わせて振り返ると、二人の男が足早に私の元へ向かって来ている。足のラインがはっきりと分かるぴったりとした半ズボンに、ひざ下まである長い靴下を履いている。
上はベストだかコートだかを着ていて、きゅろっと……だったか何だったか、歴史の授業で習ったがよく覚えていない、とにかく如何にもヨーロッパの貴族然とした出で立ちの男たちであった。
彼らが目の前までやってきて、私は萎縮してしまう。「人」もやはり、何のデフォルメもされていない現実の人間そのものの見た目だ。
「見ない顔の女だな」
「それに妙ななりをしております」
言われて視線を下に落とす。なるほど、この時代の女性がどんな格好をしているかは知らないが、少なくともブレザーの高校制服ではないだろう。
「なんにせよ、王族でも貴族でもないことは確かだな」
「暗殺未遂の一件以来、ただでさえ王は神経質になられています。侵入者が現れたなどと知れば、いっそうお心を煩われますぞ」
「とはいえ、この者がまさにその暗殺者やもしれんのだ。追い出してそれで終わりというわけにもいくまい」
明らかに日本人ではないが、彼らの言葉は日本語として理解できた。親切設計である。などと現実逃避をしている場合ではない。聞くに、会話の雲行きは怪しくなっていっている。完全な偏見ではあるが、この時代の人達は容赦なく死刑とかにしてきそうだ。あるいは死ねば現実に戻れるのかもしれないが、いくらバーチャルとはいえここまでリアルな世界で死を経験するのは精神衛生上よろしくない。それに五感が反映されているなら、なんかちゃんと痛そうだ。痛いのはいやだ。
「やあ、ここにいましたかアカリ殿!」
どう弁明したものか分からず口をぱくぱくしていた折、ふと明るく私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。そちらを向くと、にこにこ笑う、やはり貴族然とした出で立ちの男が一人こちらに歩いて来ていた。
彼を見て、目の前の二人の男は剣吞とした雰囲気を収める。
「ああ、伯爵の連れであったか」
「怖がらせてすまなかったな」
そう言ってさっさと立ち去ってしまった。
残った男は面目なさげに笑いながら、私に話しかける。
「申し訳ありませんアカリ殿、いや結構頑張ったのですが、見つけるのが遅れてしまいました」
先までの二人と比べて幾分若い、それに、私感であるがハンサムだ。
「ええと、あなたは一体誰でありますか?」
私が聞くと、彼は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐにまた笑みを浮かべて答える。
「ああ、なるほど……これは失礼しました。自己紹介がまだでしたな。私、サンジェルマンと申します。あなたのこれより始まる歴史紀行、その案内をするものです。よろしくお願いします」
彼は言って、恭しく頭を下げた。
歴史の学習漫画にいるような、マスコットキャラだったり歴史博士だったりする解説役、このバーチャル世界ではこのサンジェルマンという人物がそれなのだろう。
サンジェルマンというのが実在の人物なのか山波のオリジナルキャラなのか知らないが、先生がいてくれるのは助かる。何より一人じゃないのがありがたい。
「赤司朱里であります。こちらこそ、よろしくお願いするであります」
「存じています。さあ、さっそくこの時代の案内を致しましょう」
言ってサンジェルマンは歩き始め、私もそれについていく。
「今はルイ十五世の治世です。彼は最愛王と呼ばれております。というのも、王は実に恋多きお方で、正妻以外に多くの愛人を囲っておられます。王の業績ですが――」
歩きながら彼がつらつらと何か解説をしてくれるが、私はそれを話半分に聞き流す。私の世界史の成績が悪いのは世界史に興味がないからで。それよりもすれ違う人々の反応が気になった。
皆、一瞬訝しげに私を見るが、傍にサンジェルマンがいるのを確認して、すぐに納得したような顔になり何も言わず行ってしまう。
しばらくの間サンジェルマンの解説を聞きながらヴェルサイユ宮殿を巡り、今は屋外の、広大な庭園に来ていた。
歩き回るうちに、植えられている植物の種類が変化したのに気がつく。先までの、泉水の周囲に植えられていたのは、生垣だったり観賞用の花々だったりであったが、今この場所に植えてある、例えばこの木は少し気色が違う。
これは、
「蜜柑の木、でありますか」
「なぜフランスに蜜柑の木が、と不思議に思われますか。よくぞお気づきになられた!」
別にフランスにだって蜜柑はあってもいいと思うが、何やら感心してくれているので言わないでおく。
「ここはオランジュリーと呼ばれる場所です。蜜柑や檸檬のように、フランスの気候では育成し難い植物を海外から取り寄せ育てている、いわば果樹園ですな。今の時期は外に出していますが、もう少し寒くなれば温室に移動されます」
「王様は柑橘類が好きなんでありますか」
「ははは、いえそれは違いますよアカリ殿。珍しい植物を保有しているというのは権威を示すうえで重要なことなのです」
権威、か。
そんなもの、この豪華絢爛で広大無辺と紛うヴェルサイユ宮殿だけで十分示せていそうなものである。
「フランスはすごい国でありますな。さぞ強国なんでありましょう」
私が言うとサンジェルマンは、浮かべていた笑みを少し儚げなものにして肩をすくめた。
「そうでもありませんよ。ここの所のフランスは大局を見ればずっと下り坂です。近く、国そのものの存続を揺るがすような波乱が起きるでしょうな」
「こんなにすごい宮殿を造った国が、でありますか」
「アカネ殿、ヴェルサイユ宮殿を造ったのは――そして歴史を創るのは、国ではなく人ですよ」
彼は諭すように、柔らかい声色で言った。
しかし私はその言葉の意味を取りかねて、うつむく。
うつむいたから、異常に気が付いた。
足元の私の影が、飴細工のように引き伸ばされながら、時計回りにゆっくりと傾き移動していた。
慌てて後ろを振り返えれば太陽が、タイムラプス再生のように、目に見えて動いていると分かる速さで沈んでいっている。
「こ、これは」
「おや、もう次の時代へ行かねばならないようですね」
「次の時代……これがその合図なんでありますか……」
演出としては洒落ているのかもしれないが、ちょっと不気味だ。
「これより始まる貴方の旅路が、楽しいものでありますように」
そう言うサンジェルマンは、相変わらず笑っていたがしかし、その目からは涙が溢れていた。
「何で、泣いているでありますか?」
「別れというのは悲しいことですからな」
「じゃあ何で笑ってるでありますか……」
「悲しい時こそ笑わなくては!」
そう言うと彼は、最初に会った時のように、恭しく私に頭を下げる。
「ではアカネ殿! また次の時代で、貴方をお待ちしておりますよ!」
そんな彼の声をどこか遠く聞きながら、私の視界はホワイトアウトしていった。