世界の歴史の中の人 下

文字数 4,894文字

 次、目を覚ましたのは路傍であった。石垣にもたれかかる形で、私は座り込んでいた。そんな私を奇異な目で見ながら行きかう人々のなりを見れば、ここがフランスではないことはすぐに分かった。

 着物のような、しかし少し違う彼らの服装。それと顔立ち。日本ではないがアジアのどこかであろう。
 さて、

「サンジェルマーンっ! どこでありますかあ!」

 大声で名前を呼べば、それに驚く民衆をかき分けて、一人の男が私の前にやってきた。服装はやはり周囲と同様の、けれどちょっとだけ上等に見える出で立ち。しかし顔はそれと不釣り合いに西洋風な、

「はいはい、サンジェルマン、参りました。お待たせしてしまいましたかな、アカリ殿」
「おお、呼んだらちゃんと来てくれたでありますね。でも、今度からは私が目を覚ましたなら、もうその時には傍にいて欲しいでありますよ。一瞬心細くなるであります」
「ははは、努力致します」

 そう言って笑いながら彼は手を差し出す。その手を取って立ち上がる。

「それでここはどこで、いつの時代なんでありますか」
「ここは明の済南、万歴帝の治世です。元が滅ぼされ、明が建ち二百余年が経っています。唐代以来の長命の王朝ですな」

 明といえば中国の王朝の名前である。それくらいは知っている。元の次が明だったか、順番までは覚えていない。

「それだけ長持ちしてるってことは、明は強い国なんでありますなあ」
「最盛期、永楽帝の時代はそうでありましたな」

 例によって歩きながら高説を垂れ流すサンジェルマンの後を、例によって聞き流しながら私はついていく。
 間もなくして、どこかの屋敷の前に辿り着いた。立派な門をくぐってその中に立ち入る。そこには、サンジェルマンと似たような格好の人たちが居て、皆忙しなく歩き回っていた。

「ここは?」
「府政使の庁舎ですな。私はここの、まあ一応役人ですので」
「サンジェルマンのような外国人が、明の役人になれたのでありますか」
「私は漢民族ではありませんし、まあ普通はあり得ませんな。なんというか、特例のようなものです」
「特例、でありますか」

 サンジェルマンについて庁舎の中を回るが、そんな私たちを見る役人たちの反応といえば、ヴェルサイユ宮殿の人たちと同じであった。
 皆、サンジェルマンを見て、私への警戒を解く。

「……あなたは何者なんでありますか。何か皆、サンジェルマンを特別扱いしてる気がするでありますよ」

 案内役キャラの特権と言われればそれまでだが。

「何者でもありません、ただのアカリ殿の旅のお供です。まあ、あれですな、笑顔でいれば皆それなりに仲良くしてくれるものなのですよ」

 前を歩くサンジェルマンは横目に視線だけこちらに投げて、笑ってそう答えた。
 随分な時間をかけて屋敷の各所を案内され、移動中は明の支配体制や行政機構について色々教えてもらったが、まあほとんど頭に入らなかった。教材が優れていても、当人の意欲がなければ仕方ないらしい。

「さて、ここまでざっくりお話しましたが、ご理解いただけましたかな」
「え、あ、ははは、ばっちりでありますよお」
「それはよかった」

 嬉しそうに笑う彼に、罪悪感が疼く。

「ふう、本当はもっと沢山お話ししていたいのですが……」

 サンジェルマンは言うが、途端急速に辺りが暗くなり始めた。

「残念、陽が沈み始めましたね、ここでの紀行はもう終わりらしい」
「フランスでもそうでありましたが、急でありますなあ」
「なに、貴方の旅はまだまだ先が長いのですから、いつまでも同じ所にいてはいけません。ではひとまず、さよならです。また次の時代でお待ちしていますよ」

 ひらひらと手を振ってサンジェルマンは私を見送る。この時、彼の眼に私はどう映っているのだろう、薄れて消えていってるのだろうか。三回目にしていい加減慣れ始めた感覚の中で、私はぼんやりそんなことを考えた。

 世界史全てを網羅はしていないと山波は言っていたが、それでもできるだけ満遍なく地域を設定していたらしい。ちょっとした世界一周旅行の気分を味わいながら、私は様々な時代を渡り歩く。そして、必ずその先にはガイド役のサンジェルマンがいてくれた。

 サンジェルマン――彼と何度か交流していくうちに、違和感というか、もしかしたらという疑念が芽生え始める。

 そしてそれは、次の時代でようやく確信に変わった。


     ***


 目を覚まし、立ち上がる。周囲を確認して一瞬足が竦んだ。
 空が近く大地が遠い。私は遥か高くそびえ建つ城壁の上に立っていた。
 これまでと少し違うのは、陽が既に落ちているという点である。けれど、月明りのおかげで視界は良好だ。

「アカネ殿―っ」

 声がする方を向く。遥か先まで続く城壁の上を、サンジェルマンが駆けていた。

「いつもいつも、よくもまあ私が現れる場所が分かるものでありますな」
「私の役目がそうだからなのでしょうな。自然と貴方の元へ導かれるものなのです、世界中のどこにいたとしてもね」
「……大変でありましょう、言語も文化も違う場所を転々とするのは」
「ははは、心配していただきどうも。まあ何度か危ない目にも会いましたが、私には時間と経験がありますからな、努力次第でどうとでもなるのですよ」

 彼は飄々と笑いながら、何でもないようにそう答えた。済南でのように「笑顔でいれば――」とは言わなかった。
「それで、ここはいつのどこなんでありますか?」
「コンスタンティノス十一世統治下のビザンツ帝国――つまり東ローマ帝国ですな、その首都コンスタンティノープルです。そして、二千年以上存続した偉大なるローマ帝国滅亡の前夜でもあります」

 サンジェルマンの視線を追って、地上を見下ろす。そこには、一万やそこらではきかないであろう大軍勢が、コンスタンティノープルの城壁を包囲している光景が広がっていた。

「メフメト二世率いるオスマン帝国の軍勢です。ビザンツの三倍近い兵力ですな、ひと月以上の間よく粘ったものですがそれもここまで、明日には陥落するでしょう。西ローマ帝国に遅れること千年、思えば随分と生きながらえたものです」
「陥落、でありますか。確かにすごい軍勢ではありますが、でもこれだけ巨大で頑強そうな城壁が突破されるなんて、ちょっと想像できないでありますよ」
「そう思ってしまうのでしょうな、誰も彼もが。アカネ殿、国とはまさに壁のようなものなのですよ」
「それはどういう意味でありますか?」

 私が小首を傾げて聞けば、彼は笑って続けた。

「壁を築く時、つまり外敵から身を守り安寧を得ようとする時、人は懸命になります。一切の油断なく一心不乱に、より強靭な壁とすべく努力します。しかし、一度壁が出来上がってしまえば、それが巨大で頑強であるほど、人は慢心してしまうのです。――けれど、『完璧』などありはしない、いかに堅牢な壁であっても人の過ぎた安心と怠慢がそれを脆弱にし、ふとした瞬間に崩れ去る。歴史の中の興亡なんて、いつだってそうでした」

 サンジェルマンが語る、その中で、ふとフランスでのあの言葉がストンと腑に落ちた気がした。

「歴史を創るのは国ではなく人、でありますか……」
「ほう、至言ですな」

 彼は感心したように言って、私に笑みを向けた。
 地平線から光が溢れ始める。
 翻る無数のオスマン軍旗がその眩耀を弾いて辺りに散らす。
 先まで私たちを煌々と照らしていた月は白んで薄くなって、反対側、水平線の向こうへ逃げ去っていた。

「……ねえ、サンジェルマン。貴方もしかして――」

 すっと彼の人差し指が私の口元に添えられる。

「それは言わないでおきましょう、でないと悲しくなってしまいますから」

 言いながらサンジェルマンは寂し気に微笑む。
 陽光が瞳を差して、視界を白くした。


     ***


 コンスタンティノープルを後にして、ヘンリ三世下のプランタジネット朝、ウラディミル一世下のキエフ公国、それからアッバース朝、隋、ローマ帝国のいつか、そしてエジプトへと時代を下って行った。
 
 その果てに、
 
 私は今、砂浜に立っている。

 晴天の下、さざ波を立てる穏やかな海。右を見ても左を見ても、文明の気配が一切ない、そんな浜辺。
 穏やかに打ち付ける波の中から、魚に足が生えた様な、両生類の成りかけとでもいうべき見た目の生き物が這い出てきた。
 陸上生物の誕生、神のいたずら――これは世界史の範疇を超えているだろうと小さく笑う。

 ふと正面に向き直ればそこには、足首までを海水に浸した、ずぶ濡れのサンジェルマンが立っていた。一糸纏わぬ姿だったが、不思議と恥かしさは感じない。
 困惑した様子で私を見つめる彼に笑顔はない、代わりに私が笑って彼の元へ歩み寄る。

「こんにちはであります、サンジェルマン」
「サン、ジェルマン……」
「貴方の名前でありますよ、そして私は赤司朱里です。アカリと呼んで欲しいでありますよ、これからよろしくお願いしますね」

 私の言葉に、不思議そうに耳を傾ける彼の顔に、両手を添える。

「まずは、笑うであります」

 そして、口角をぐいと持ち上げた。

「これが、笑うということなのですか?」

 私が手を放しても、一応その表情をキープしていたが、それは笑ってしまうほどぎこちない作られ笑いである。

「そうであります、楽しい時、嬉しい時、いやそうでなくても、とにかく笑っておけでありますよ」
「楽しい……嬉しい……ですか」
「ふふっ、いずれ言っている意味が分かるであります」

 きょとんとする彼が可笑しくて、吹き出してしまう。
 すっと空気が冷え始めた。水平線を目指して太陽が下り始める。
 ああ、もうお別れなのか――早いなあ。

「どう、しましたか?」

 そう言って、今度はサンジェルマンが私の顔に手を伸ばす。たどたどしい手つきで、目元を拭った。
 そうか、私は、

「泣いちゃってたでありますか」
「泣く……ですか」
「悲しい時、人は泣くものであります――でも、悲しい時ほど笑うでありますよ」

 かつての未来で彼がそうしたように、私は泣いて笑ってみせる。
 ぼやける視界から色が消えていき、徐々に白に塗り潰されていく。その最中、私はありったけの声で叫ぶ。

「サンジェルマンっ、これから始まる長い旅路の先々で! 私は貴方を待っているでありますよっ!」

 彼の旅はこれより始まる――そして、私の旅は終わりを迎えた。


     ***


「赤司先輩、大丈夫デスか」

 目覚めれば見慣れた部室が視界に広がっていた。
 山波は少し心配そうな様子で、私の顔を覗き込む。

「ダイブ中の先輩と通信できなくなったので、慌てて中止したデスが……あれ、先輩泣いてます?」
「え、ああ、何でもないでありますよ」

 慌てて涙を拭う。
 通信が途絶えてすぐに中止したというが、私の感覚ではそれ以降、随分と長い時間を掛けて各時代を巡っている。そのことを伝えると、山波は唸った。

「うーん、まだまだ改善の余地があるデスね……」
「そんなあぶねえものの実験に先輩を使うなでありますよ」

 私がじっとりと睨みつけるも気に留めず、山波はぽりぽりと頭を書きながらパソコンをいじる。そして、「あれ?」と声をあげた。

「なんで、私の世界史学習システムに、先輩の『にっこりメソメソ君』がインストールされてるんデスか……先輩、何かいじりマシた?」
「……いや、何も」
「デスよね。先輩ごときに私のセキュリティを突破できるワケないデスよね」

「先輩ごとき」なんて失礼な言い回しも、今この瞬間は気にならなかった。
 それよりも、山波のこぼした言葉が――――『にっこりメソメソ君』という単語が頭の中を駆け巡る。

『悲しい時こそ笑わなくては!』

 彼の言葉が、ふと思い出された。
 途端、ストンと腑に落ちる感覚があった。

 むうと唸っている山波の方を向く。「テストプレイ一回じゃ心もとないデス……」と呻く彼女に声をかける。

「実験台が欲しかったら、また何度でも付き合ってやるでありますよ」
「うぇっ!?

 山波は目を丸くして、私の方を見る。

「ただ次は、十八世紀よりも後の時代に送ってほしいであります」

 私はニッコリ笑って、そう注文をつけた。
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