第1話

文字数 1,999文字

 あきらめちゃ、ダメ!!
 少女の眼差しが、銃の照準のように、僕をとらえていた。


 風邪で、僕は今日、学校を休んだ。
 両親は仕事で、家には僕ひとりが、ベッドに伏せていた。
 ふとスマホに目をやった。
 15時近く。
 そう思った途端、世界が、突然、烈しく揺れた。
 な、何?
 その瞬間、棚の上の花瓶とか家族みんなが収まった写真盾とかがこぞって、床に堕ちた。
 僕もベッドから、床に、転げ落ちた。
 床の上で、しばらく呆然としていた。それから、どれくらい経ったろう。
 だしぬけに、ゴオ―という轟音が辺りに響いたと思う間もなく、濁流が、僕を家ごとさらっていった。
 な、なんなんだ⁈
 もちろん、初体験。
 人間の想像力は自分の生きている世界に忠実に立脚しているものだ、と誰かが言ってた。
 僕も、当然、その例外ではない。
 パニックに陥った。
 はは……。
 なのに何故か、笑いが洩れた。
 極限状態のなかでは、人は笑うことで、心の均衡を保つ。これも、誰かが。
 まったく、ややこしい存在だ、人間という動物は。

  何がなんだか、さっぱりわからなかった。
 後で、わかる。いつも、すべてが後で。でも、わかった時にはもう、遅すぎる。
 街を、大地震が襲った。
 その余波で、津波が生じた。
 それが、当たり前の日常を不条理のうちに押し流したのだ。
 16歳。春まだ浅い日のことだった。
 
 家ごと押し流された僕は、途中で、川に放り出され、どんどん上流へと流された。
 かなり長く思われたが、恐らくは、数十分程度の事だったろう。流されながら、ふと川辺を見た。
 思わず僕は「あ」と声をあげた。
 少女が駆けていた。長い黒髪をなびかせながら、僕を追いかけるように。
 た、助けて!
 叫んだ。もがきながら。必死に。
 すると、駆けていた少女がふわり宙に舞った。川辺の大きな岩へと。彼女が一瞬、さながら天使のように見えていた。
 大きな岩。あわや、ぶつかりそうになったその次の瞬間、少女のか細い腕が、ぼくの腕をぎゅっとつかんだ。か細いこの腕のどこに、そんな力があるのかと目を瞠るほど、すこぶる強い力で。
 からくも、難を逃れた。
 ふうー。安堵の息が洩れた。
 が、それも束の間。濁流が、僕を、否応なしに押し流そうとする。
 もうダメだ――握っていた、彼女の手を離しかけた時。ぎゅっと、僕の手を、彼女が力強く握り直した。
 あきらめいで!
 真っ直ぐな眼差しが、そう僕を励ましてくれていた。


 あれから、十三年の歳月が流れた。
 その日の朝、僕は、新聞に目を通していた。
 震災の特集が、紙面の多くを割いて、掲載されていた。
 やがて、ある記事に、僕の目が止まる。
『スクープ あの日、地上におりた天使が、危篤状態に』
 そんな文字が踊っていたからだ。
 震災の日の経緯は、後で知った。
 僕を助けてくれた少女は避難所へ、そして、僕は病院へと、それぞれが運ばれたということを――。
 当時、少女は、その美貌も相まって『地上におりた天使』として、一躍、時の人となった。
 方や僕は、世間の耳目を集めることなく、ひっそりと表舞台から消えていた。
 でも、忘れたことはない。一瞬たりとて、彼女のことは――。

 図らずも、その彼女が危篤だという。天を睨んだ。 
 13年の時を経て、あの日と同様のパニックが再び僕を襲っていた。
「す、すいません、13年前に、彼女に救われた者なんですが…」
 慌てて、新聞社に電話をかけた。そこで、彼女の入院先を知った。
 彼女は今、東京にいるらしい。
 すぐさま新幹線に飛び乗り、僕は、宮城から上京。東京駅で、タクシーを拾い、病院を目指した。
 受付で事情を話すと、拍子抜けするほど、病室まであっさりと通してくれた。
 廊下に人垣ができていた。さっきの受付の女性が、関係者らしき人に、なにやら耳打ちした。
 彼は、大きく目を瞠って、僕を見た。そしてうなずき、手招きしてくれた。
 僕もうなずき返し、彼に歩み寄る。 彼女はビニールテントの中にいた。医師と看護師が何人もいて彼女を見守っていた。
 彼がベッドのそばに行くように、僕を促した。仰向けになって目を閉じている彼女の横顔を見た。
 どんなつらいことがあっても明けない夜はない――。
 震災から一年が経った、ある日。彼女の紡いだ言葉が、新聞の片隅に、掲載されていた。
 跪き、僕は、唇と瘦せ干せた腕を交互に眺めた。
 頬を一筋の涙が伝わる。揺れる彼女に向かって、僕は内心囁きかける。
 君のそのか細い腕に助けられ、ぼくは今、こうして生きている。君のその唇からこぼれ落ちた言葉に勇気づけられ、今の僕がある。
 君はあの日、真っ直ぐな眼差しを向けて、僕を励ましてくれたね。
 今度は、僕が、君を励ます番だ。
 君は紡いだ。明けない夜はないと。
 なら、必ず太陽は昇り希望の光を、君に照らしてくれるはずだ。
 だから……だから、あきらめちゃあ、ダメだ!!!
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み