リヨン~営業二日目

文字数 7,129文字

 午後二時、瑞樹は夜勤の後風呂に入ってから幸せな気分に浸りながら眠っていた。
「ん?あっ、そうか!」
 少し寝ぼけた様子で昼夜(ちゅうや)逆転(ぎゃくてん)した生活に変わった事を認識するのに時間をかけながら瑞樹は目を覚ました。
「あら、もう起きたの?」
 料理研究家の母親が、幾分早く起きてきた瑞樹を見てそう言った。
「うん、仕込みとか計算とかしなきゃと思って」
 瑞樹は、少し気怠(けだる)い体をストレッチで解しながら食卓の上に用意されていた瑞樹の為の遅い昼食に目を配って
「母さんの手料理、何十年ぶりだろう?」
「ずっと、瑞樹が作ってくれていたからねぇ。食べなさい」
 母親は、笑いながらそう言って冷たい麦茶をコップに注いで瑞樹に差し出した。
「ありがとう。口がカラカラだよ!」
 瑞樹は、美味しそうに麦茶をがぶがぶと一気に飲み干した。
「お店には、何時に出かけるの?」
 母親は、もう一杯麦茶をコップに注ぎながら瑞樹に尋ねた。
「十時くらいかな?」
 瑞樹は、久し振りに食べる母の作ったチャーハンと餃子と鶏の唐揚げの三点セットを興味津々に見つめて
「いただきま~す!」
 と元気よく声を張り上げて食べ始めた。
「ゆっくり食べなさいよ、瑞樹!」
 母親は、嬉しそうに微笑みながら美味しそうに食べている瑞樹を見てまだ瑞樹が幼かった頃に今日と同じ様な光景があった事を思い出して思わず吹き出してしまった。
「何ねぇ~母さん?」
 瑞樹もそう言いながら自然に笑い出してしまった。
 まるで、親子共に数十年前にタイムスリップしたかのような光景が、ようやく実現した瑞樹の夢を祝福しているような感覚に包まれて少し夏日に近い西日が差し込む陽気がやけに眩し気な午後のひと時を演出していた。

  夜の十時。瑞樹は開店二日目の出勤準備を整えて両親に元気よく、
「行ってきます!」
 と言って自転車に乗って自分の店に向かった。
 十時二十分、店に到着した瑞樹は早速開店準備を始めた。
「今日は、いい魚が沢山入ったな」
 瑞樹はそう呟いて夕方に仕入れていた新鮮な魚介類を丁寧かつ確実に下ごしらえする作業に没頭した。キスやアナゴ、車海老など主に天ぷら用の魚介類とインドマグロの中トロや赤身、カレイの縁側(えんがわ)、オーロラサーモンなどの寿司や刺身に向いた魚介をそれぞれ別々に手順良く鼻歌(はなうた)を歌いながら楽しそうに下ごしらえしていった。
 一通りの下準備が整ったのは、午後十一時半だった。
 瑞樹は、キリマンジャロのコーヒー豆をミルで挽(ひ)いてからドリップしてミルクをたっぷりと入れて開店までのわずかな時間を楽しみに出来上がった自家(じか)焙煎(ばいせん)のコーヒーをゆっくりと飲みながら気持ちを落ち着かせて開店の時間を待った。
 開店して直ぐの午前零時過ぎ、この日最初のお客さんが現れた。
 中年の夫婦だろうか?見た限りそんな印象を瑞樹は抱いた。
「いらっしゃいませ!」
 中年の男女がカウンター席に座ると瑞樹は、オーダーを取りに厨房を出てカウンター席に向かった。
「ビール二本ください」
 男性の方がそう言ってスーツの上着を脱いで白いシャツの袖をまくった。
「あと、今日のおすすめは?」
「はい、今日は魚介の天ぷらと寿司、刺身がおすすめです!」
 瑞樹は、元気よく今日のおすすめを言って手早くビールとお通しのつぶ貝とぬたのからしみそ和えを二人の元へ運んだ。
「じゃあ、おまかせするので適当に美味しいものを下さい」
「かしこまりました」
 瑞樹は、少し嬉しそうに厨房に戻りいきなりアナゴの天ぷらを揚げ始めた。この日のアナゴは、江戸前の一級品でとにかく先ずこれをお客さんに食べてもらいたかった。
 揚げ油は、ごま油でもサラダ油でもなく意外にもオリーブオイルだった。瑞樹は、長年の経験で天ぷらにもオリーブオイルが一番美味しく揚がる事を知っていたので自信を持って最初のアナゴの天ぷらを程よい加減で揚げて包丁は入れずにそのままカウンター越しに抹茶塩を軽く盛ったお皿にアナゴの天ぷらを乗せてお客さんに差し出した。
「本日一押しの江戸前アナゴの天ぷらです!」
 中年夫婦とみられる男女二人は、目を輝かせながら見事なアナゴの天ぷらをしばらく見つめていた。
「すごいねぇ~、ではいただきます」
 中年の男女二人は、そのアナゴの天ぷらの真ん中に箸(はし)を入れた。サクッという音が気持ちよくお店の中で二度鳴り響いて箸を入れられた衣の中のアナゴの身は真っ白でフワフワだった。抹茶塩(まっちゃじお)を軽く振って二人がアナゴを食べると再びサクッという音が店に響いて次の瞬間お客さん二人は満面の笑みでお互いの顔を見合わせて二人とも大きく頷いた。
「絶品!美味すぎるよ!」
 男性客から絶賛の声が瑞樹に向かって飛んできた。
「ありがとうございます!」
「本当に美味しい!あなた天才なの?」
 女性客は、入店後初めて瑞樹に話しかけてこちらも絶賛の嵐だった。
「最高の素材を、そのまま活かしただけです。御(お)褒(ほ)めの言葉ありがとうございます」
 瑞樹は、そう喋りながら次の料理に取り掛かっていた。
 お客がアナゴの天ぷらを食べ終えかけたタイミングを見計らって瑞樹は、インドマグロの中トロと赤身の握り寿司を二貫(かん)ずつ計四貫、新生姜(しんしょうが)で作った自家製のガリを添えて差し出した。
「お~、マグロの寿司ですか~!」
「なんか、このお店食堂というより料亭みたいね!」
 中年の男女二人が瑞樹の作る料理にいささか、いい意味での裏切りというか想像を超えたレベルの料理たちに驚いているようだった。
「いいマグロが入りまして。ガリも自家製ですのでよろしければ箸休めにどうぞ」
 瑞樹は、満面の笑みを浮かべてそう言った後また次の料理に取り掛かった。
  三品目は、エンガワのあぶり寿司を二貫ずつ握って上に上品にわけぎともみじおろしを乗せてその横に少しシャレた細工をほどこした。生醤油(きじょうゆ)のムースを作って寿司の横に添えたのだ。最初は、そのまま出すつもりだったけど途中で瑞樹の頭にアイデアが浮かんで完成させたお洒落な一品となった。
「う~ん、センス有るねぇ~!」
 またしても絶賛するお客さんに瑞樹は愛想よく微笑んだ後、車海老を丁寧に下ごしらえして天ぷらを揚げ始めた。このあたりから瑞樹は、仕事を忘れて今の時間を楽しむかのように生き生きと料理を作り続けた。この日の食材に負けないくらいの活きの良さが瑞樹にも生まれていた。
「お待たせしました。車海老の天ぷらです」
 瑞樹が差し出した四品目の車海老の天ぷらは黄金色に輝いていて二人のお客さんは、目を見開いてまた二人で顔を見合わせて笑っていた。
「サクッサクッ」と心地良い衣の音がまたしても店内に軽く響いてこの空間にいる三人は、それぞれがそれぞれの最高の笑顔を浮かべているようだった。
「いや、本当に素晴らしい。では、そろそろデザートで〆てもらえますか?」
 瑞樹の極上の料理を堪能(たんのう)した中年夫婦は、最後にデザートを頼んできた。
「そう思いまして、デザートを用意しておりました」
 瑞樹は、笑顔でそう言って二人に冷たく冷やしたわらび餅(もち)を差し出した。
 午前一時半頃、この日最初のお客さんが充分すぎるほど満足して帰り支度を始めたので瑞樹は、いまだ一度も活躍していないレジスターに少し足早に向かって、
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「いくらですか?」
 男性客がお会計にレジスターまで財布を出しながら歩み寄って来た。
「お二人合わせて五千円になります」
「ほお、随分安いねぇ。じゃあちょうどこれで」
「はい、五千円ちょうどお預かりします」
 瑞樹は、レジスターを打ち込んで出てきたレシートを男性客に手渡した。
「ごちそうさま!とても美味しかった!」
 中年の夫婦と見られる二人は、とても満足そうにお店を後にした。
 ひょっとしたら、夫婦ではない関係かも知れないけど瑞樹はお客さんのプライベートに関する事は考えすぎないように自らに言い聞かせていた。

 手早く後片付けと洗い物を済ませた瑞樹は、この日二杯目の自家製コーヒーを今度はブラックで飲みながら次のお客さんを待っていた。家を出る前に思いついたシャレたジャズの音楽をポータブルのオーディオで耳障りにならないくらいのボリュームで流しながら瑞樹は静かに微笑んでいた。
  午前二時半、この日二番目のお客さんが来店した。若いカップルだった。
「ようこそ、いらっしゃいませ!」
  瑞樹は、飲み終わりかけてたぬるくなったコーヒーを一気に飲み干して気持ちを入れ直した。カップルは、奥のテーブル席に座って仲良く喋り合いながら向かい合って席についた。見た感じ学生カップルにも見てとれたが、瑞樹はまたしてもお客さんのプライベートまでは関心を持たぬように自分に言い聞かせてオーダーを取りに席に向かった。
「ビールとウーロン茶ください」
 男性の方から飲み物の注文を受けた瑞樹は、ニコニコと笑いながら、
「はい、かしこまりました」
 と言っていつものようにそそくさと厨房に戻っていった。
 ビールとウーロン茶をカップルの席まで運んだ瑞樹は、最初の食べ物の注文を受けるまで黙って微笑みながら静かに待っていた。
「すみません!」
 女の子の方が大きな声で瑞樹にそう呼びかけてきたので瑞樹は、早足でカップルの席にオーダーを取りに向かった。
「実は、僕たちまだ大学生で……」
 男性客が少し不安そうにさっきの女の子とは対照的に小さな声で瑞樹の顔色を伺ってきたので瑞樹は、ニッコリと笑いながら、
「大丈夫ですよ。うちは、ボッタクリ店ではありませんので」
「お二人で、ご予算に応じてお任せでお作りしますが?」
 瑞樹が、とても優しい笑顔でそう話したことでカップルの二人はお互いに顔を見合わせて瑞樹と同じ様な優しい笑顔を浮かべて、
「二人で、二千円くらいでお腹いっぱいになるものをお願いします」
 と言ってきたので瑞樹は、ゆっくりと頷いて、
「かしこまりました。しばらくお待ちくださいませ」
 そう言って瑞樹は、そそくさと厨房に戻っていった。
 瑞樹は、厨房に入るとしばらく考えてから調理に取り掛かった。約十五分後瑞樹は、出来上がった料理を二人の元へ運んだ。
「お待たせしました。海鮮丼(かいせんどん)とミニ冷やし讃岐(さぬき)うどんのセットです!」
 瑞樹が、運んできた料理にカップルの男女の学生二人は満面の笑みで大きな声で、
「うわぁ~美味そう!」
「すご~い、美味しそう~!」
 二人とも喜んでくれたのを瑞樹は、素直に嬉しくなって二人に深く頭を下げた。
 海鮮丼の中身は、車海老と帆立(ほたて)の貝柱(かいばしら)、インドマグロの中トロと赤身、そうめんイカとカレイのエンガワ、卵焼きにさっき作った生醤油のムースと生おろしわさびとシソの葉を細かく刻んで盛り付けてボリューム満点だった。冷やし讃岐うどんは、瑞樹の手打ちのうどんだったし、つゆも羅臼(らうす)昆布(こんぶ)と鰹節(かつおぶし)から出汁(だし)をたっぷりと取って生醤油とみりんで作った極上のものだった。
「あの~、こんなに豪華でお金は……」
 幾分、度胸がありそうな女の子に対して男性の方はいわゆる草食系の様な気の弱さが話しぶりから見てとれた。
「大丈夫です!これでちょうど二千円ですよ!」
 瑞樹は、カップル二人に向かって右手でOKサインを出して見せた。
「ありがとうございます!いただきます!」
「ごゆっくり!」
 瑞樹は、再びそそくさと厨房に戻って微笑ましいこの学生のカップルに自家製のキリマンジャロのアイスコーヒーをサービスするために豆をコーヒーミルで挽き始めた。


 三十分後、学生のカップルは満足そうな笑みを浮かべながら二人そろって、
「ごちそうさまでした!」
 店中に響き渡る大きな声を男性からこの日初めて聞いた瑞樹は、思わず吹き出しそうになったが、
「サービスのアイスコーヒー飲んでいってください!」
 と負けじと大きな声と笑顔でもう一度二人を席に座らせた。
「はい、どうぞ!」
 瑞樹が、二人の席までアイスコーヒーを持っていくと三人とも満面の笑みでしばらくアイスコーヒーを瑞樹も一緒に飲みながら、談笑(だんしょう)している風景が店の中を包んでいた。
「本当にありがとうございました!すごく美味しかったです!」
「アイスコーヒーまで、サービスしてくれてごちそうさまでした!」
 初々しい学生カップルは、幸せそうな笑顔を浮かべて瑞樹に何度もお礼をしてきた。
「また、いらしてください。お待ちしております」
 瑞樹は、二人に深々と頭を下げて店の外まで二人を見送った。
 店に戻った瑞樹は、後片付けにさっきまでカップルが座っていたテーブル席に向かうと割り箸の袋で器用に折られた折り鶴が二つ置いてあることに気付いた。
 瑞樹は、その折り鶴をしばらく微笑みながら眺めてお店のカウンターの上に二つ並べてから後片付けと洗い物を手際よく済ませた。時刻は、午前三時四十五分。この日の営業もあと一時間弱となっていた。

  お店の中を心地良いジャズのスイングがポータブルオーディオから流れる中、瑞樹は気分が良くなったのか?誰も見ていないのをいいことに軽く体を揺らしてダンスの様な動きを続けながら料理の仕込みを続けていた。おそらく、今日はもうお客さんは来ないかも知れないと思いながら明日の為の準備をソツなくこなしていた。時刻は午前四時半。瑞樹は、あと十五分経ったらお店の閉店準備をしようと決めて作業を進めた。

 午前四時四十五分、瑞樹は予定通り閉店の準備をするために仕込み作業を止めてお店の外の看板を外しに店の入り口までセンスの悪いダンスを踊りながら歩いて行った。
「あれ?」
 瑞樹は、店の外にこの日最後になるお客さんを見つけた。
「ニャ~~!」
 ちょっと、アメリカンショートヘアー風の可愛らしい子猫が店の入り口近くにチョコンと座っていた。
「お前、お腹すいてるのか?」
 瑞樹は、この日最後の珍客を受け入れて店の中に案内した。
「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席に!」
 この日の瑞樹は、ジャズの効果か?リラックスしていてユーモラスだった。子猫は、ニャ~ニャ~と可愛らしい声で鳴きながらお店の中を散策し始めた。瑞樹は、厨房に入って特濃のジャージー牛乳を小皿に少しだけ注いで子猫の元へ運んでいった。
「はい、どうぞ!」
 瑞樹は、にこやかに笑いながら再び厨房に戻っていった。今度は、この日余った海鮮の食材の中からインドマグロの中トロとオーロラサーモンを包丁で細かく叩いて少し醤油を垂らして作ったスペシャルメニューを可愛らしいお客さんの元へ届けに向かった。子猫は鼻をクンクンさせながら瑞樹の元へ走って近づいてきた。鳴き声も本日MAXのおねだり声で人間様でも滅多に食べられない高級食材で作ったスペシャルメニューを美味しそうにウニャウニャ言いながらペロリと完食した。
「お腹いっぱいになったか?」
 瑞樹は、子猫の頭を優しく撫(な)でながら満足そうな顔をしている珍客に話しかけていた。
「贅沢だなぁ~、お前は」
 瑞樹が、そう言うと子猫は体を摺り寄せてきてしばらく瑞樹の傍(そば)を離れようとしなかった。
 閉店作業が終わって自転車に乗って自宅に帰ろうとしている瑞樹のリュックサックの中には、リヨンと名付けられた子猫が心地よさそうに眠っていた。この後、リヨンは瑞樹のお店の名物猫として大活躍をする事になるが、そんなことを思いもしない瑞樹は、振動でリヨンが起きないようにゆっくりと静かに自転車を漕いで早朝の千葉市中央区の街中を走り抜けていった。

  リヨンは、瑞樹の両親にも温かく迎え入れられた。最初こそいきなりリュックサックの中から現れた小さな命を見て父も母も面食らった様子だったが、その愛くるしい姿を見て両親特に動物好きの瑞樹の母は、
「野良猫とは思えないくらい可愛いねぇ~!」
 新しく家族に加わる事となったこの子猫にメロメロな様子の母を見て、瑞樹も父も顔を見合わせて声を上げて笑ってしまうほどだったが考えてみれば瑞樹や両親がこんなに朝から幸せそうな笑顔を浮かべる事自体、瑞樹がまだ幼かった頃以来数十年ぶりだったろう。 
 リヨンは、何度も抱き上げて顔を摺り寄せてくる母に少しうんざりしているようにも見えてきて、それがまた瑞樹と父を大声で笑わせる材料になった。

 リヨンの名前の由来は、瑞樹が好きなフランスの伝統的な名門サッカークラブの名前から引用したものだった。瑞樹は、リヨンを自宅の中だけで飼うつもりだった。両親もそれで納得してくれていた。瑞樹が眠っている昼間の数時間のうちに母は、リヨンのエサやトイレ、トイレ用の猫砂、爪とぎ、首輪などをしこたま買い込んできていた。母は、リヨンが起きている間は常にリヨンと猫じゃらしやネズミのおもちゃなどを使って遊んであげていた。どちらかと言えばリヨンが母を遊ばせているようにも見てとれたが父が仕事に行っている間、最近は料理研究家としての仕事をセーブして家庭の中に納まって時間を持て余していた母にとってリヨンの存在は、瑞樹のそれと同じかそれ以上に大きなものとなっていった。
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