両親~忘れ得ぬ味

文字数 5,129文字

 この日、瑞樹は夕方の四時頃に目を覚まして寝癖(ねぐせ)の付いた髪と少し伸びた髭を鏡で見てから母が沸かしておいてくれたお風呂にいつもより長めに入った。一時間後、身体も気持ちもサッパリして上機嫌でお風呂から上がってきた瑞樹は、母が作っておいてくれたおにぎりと出汁巻き玉子と味噌汁に漬物という最強の組み合わせの軽食をキンキンに冷えたノンアルコールビールと一緒に堪能した。
「母さん、今日の味噌汁は鰹節と煮干しで出汁取ってその出汁を玉子焼きにも入れたん?」
 瑞樹が口をもごつかせながら、大きめの声で居間でリヨンと遊んでいる母にそう聞いたところ母よりも先にリヨンがニャ~と返事をしながら瑞樹の元へ小走りでやって来た。
「うん、そうよ。本当はアジの干物も焼いたんだけどリヨンに食べられてしまいました。半分残ってるけど食べる?」
「何ねぇ~、リヨン。俺のおかず食べたなぁ~!」
 瑞樹は、リヨンを抱き上げて顔を摺り寄せながら笑ってそう言った。
「瑞樹。昼夜逆転してしまっているから体調気を付けなさいよ!」
「うん、分かっとる。今日頼んでおいた赤玉の卵と鶏のもも肉買ってきてくれたんやね。さっき冷蔵庫の中に入っとった。ありがとう!」
「今日は、それで親子丼を一押しメニューにするの?」
 母は、リヨンの残したアジの干物を持ってきて瑞樹に何となくそう尋ねた。
「そうやね。鶏の皮は外して一口大に切ってからフライパンでこんがりと焼いて鶏(とり)皮(かわ)せんべい作ろうと思ってる。ビールに合うでぇ~!なあ、リヨン!」
 リヨンは、母が持ってきた残りのアジの干物に若干反応して顔を近づけたが、お腹がいっぱいの様子で直ぐに顔を背(そむ)けた。瑞樹は、リヨンの残した干物を箸でほぐして食べ始めた。
「母さん、リヨンの事なんだけど。お店に連れて行っちゃダメかな?」
「う~ん、それはちょっとねぇ~。飲食店だし、衛生面(えいせいめん)でもねぇ……」
 母は、リヨンをお店の看板猫にしようと思っていた瑞樹の提案をやんわりと否定した。
「なんか今、猫カフェとか流行ってるじゃん?衛生面はしっかり考えるよ!」
 食べ終わった料理の皿を片して洗い物を始めた瑞樹が、本気の表情を浮かべてそう言ったので、母は少しだけ面食らってしばらく考え込んだ後、
「お客さんに粗相の無い様に。衛生面を考えてお店もあなたもリヨンも清潔に。リヨンのトイレとお水とエサはお店の奥のあなたのスペースに。本当は、良くない事なのよ。飲食店で動物を飼うなんて。お父さんが聞いたらきっと激怒するわよ」
 母は、引き締まった表情で洗い物を終えてくつろいでいる瑞樹にそう言って、取り込んだままだった洗濯物を畳み始めた。
「あなたは、まだまだ世間知らずなの。世の中は甘い考えや自分勝手な妄想では生きていけないのよ。まずは、お父さんにしっかりその事を報告してみなさい。リヨンだって毎日あなたのリュックサックの中に入れられてお店に行くのはしんどいでしょう?」
 黙って母の話を聞いていた瑞樹は、リヨンの頭を撫でながら小さな溜息をついてから、
「そうだね。ちょっと父さんにも聞いてみる。確かにメリット無いかもね……」
 瑞樹は、窓を開けて庭のきれいな緑を見ながら思いっきり深呼吸して気持ちを整えた。
 
中華料理店の店主の父は、ほぼ毎日出勤して帰ってくるのは夜の十時くらいだった。瑞樹は、取り敢えずこの日はリヨンを店に連れて行くのを止めて、一人で夜の九時四十五分頃に自転車を走らせて自分の店「味覚亭」に向かった。
 千葉市中央区は、特に千葉駅東口からモノレールの葭(よし)川(がわ)公園駅辺りまでは飲食店が乱立していてチェーン店の牛丼屋や中華料理屋、居酒屋に焼肉屋、立ち飲みスタイルのお洒落なタコ焼き屋などなど、選り取り見取りの繁華街だ。瑞樹は、出勤途中に千葉市中央区の駅から離れた裏通りにある業務スーパーに立ち寄った。店内に入ると業務用の大きな袋などに入った食材や調味料、お酒類などがひしめき合っていて、これはこれで瑞樹にとって楽しい時間だった。ある程度の材料を買い込んだ瑞樹は、自転車の籠(かご)に買い物袋に入った材料類を収めて、やや不安定ながらも慎重に自転車を漕いだ。店に着いたのは、午後十時二十分くらいだった。
開店の為の準備を黙々とこなしていた瑞樹の店「味覚亭」に、いきなり父と母が現れたのは午後十一時を少し回った頃だった。母は、リヨンを抱きかかえて。父は、やや険しい表情でお互い無言のままお店の中を見渡して厨房の中の瑞樹の正面に位置するカウンター席に座った。母はリヨンをそっと床に置いて、少しの沈黙の後、ようやくいつもの優しい笑顔を見せた。
「狭いけど、割ときれいにしているじゃない!清潔感は大事よ。仕事から帰ってきたお父さんとリヨンの事とか話してたら二人で来てみたくなったの。ごめんね。突然に……」
 瑞樹は無言のままだったが、笑顔を浮かべながらこの日のオリジナルブレンドのモカのアイスコーヒーを作って二人に丁寧に差し出した。
「眠れなくなっちゃうかな?二人とも確かブラックだったよね?」
 瑞樹はそう言ってから、今度はリヨンの為に冷蔵庫から特濃の牛乳を一本取り出した
瑞樹は小皿に少しだけ牛乳を注いだ後、厨房を出てリヨンの元に向かった。リヨンは、興味津々な様子でお店の中を散策していた。瑞樹が近づくと、可愛い声で鳴きながら走って近づいてきた。
「親父。この子の事なんだけど……」
 来店してからずっと黙っていた父だったが、モカのアイスコーヒーを堪能している様子は、瑞樹の目から見ても何となく認識できた。
父は少し間をおいた後、瑞樹の居る方へ振り向いて穏やかな表情を浮かべながらゆっくりと語り始めた。
「……いいんじゃないかな、猫カフェならぬ猫食堂?っていうのも。今の飲食業界はチェーン店だけでなく、個性的な特徴を其々打ち出さないと他店との競争には勝てないのが現実だ。この店は、瑞樹。お前の店だ。お前が自分で考えてやりたいようにやればいい。何故深夜営業を選んだか?分からんようで分かる部分もある。なんせ長い期間ずっと家に居たからな。昼間の営業は自信が無かったんじゃないのか?それならそれでいい。体調管理だけはしっかりとして、昼夜逆転の生活も体力的にキツイだろうけど、お前自身が決めた事だから。俺も母さんも、やっとお前がこうして社会に出て働き始めた事を心から喜んでいる。技術的には、俺から言わせればまだまだだし、接客のマナーとかお金の計算とか経験が無い分心配していたけど……」
 父は、そう言って残ったアイスコーヒーを飲み干した。

「開店前だけど、俺と母さんに何か作ってくれるか?」
 瑞樹は父の話を感慨深げに聞いていたが、突然の注文が入った事でお店をオープンして間もない今、最強のお客さん二人と対峙する事になってしまった為か?やや緊張の面持ちを浮かべていたが、僅かな間をおいてから平静を取り戻し、優しい笑顔で二人に向かって穏やかに語りかけた。
「かしこまりました。お任せでよろしいですか?」
「うん、いい対応だ!なぁ、母さん?」
 肝心の母はというと、席を外してリヨンと遊んでいた。
「えっ!何か言った?お父さん!」
 瑞樹は思わず吹き出しそうになったが、必死に堪えて静かに深呼吸してから調理に取り掛かった。
「ビールを一本頂こうかな?」
 またしても父の不意打ちだったが、瑞樹は冷静に反応して瓶ビールをキンキンに冷やしたグラスと共に素早く用意して、お通し代わりにもやしキムチを添えて父の元へ差し出した。
「はい、どうぞ!」
 瑞樹は、父の緩んだ表情を見て少し嫌な予感がしたが、大体こういう時は予感が的中するものだ。
「少しだけ、お前も付き合え!」
 父は、手酌でカウンター越しにビールを傾けてきた。瑞樹は、自分用のグラスを急いで用意して、半分くらいビールが注がれた所で、
「はい、ストップストップ!」
 と言って静かに父と乾杯を交わしてからビールを一気に飲み干した。
「お前とこうして酒を飲みかわす日をずっと夢見てたよ……」
 父は、嬉しそうな笑顔を浮かべながら感慨深げにビールを飲んでいた。
「じゃあ、料理を作りますので。しばしお待ちを!」
 瑞樹は、父の言葉に深く感じ入る余韻に浸りながら料理を作り始めた。この日は、母に頼んでいた新鮮な赤玉の卵と国産の鶏のもも肉があったので、例によって瑞樹の頭の中のレシピのデータベースから様々な料理を抽出してフィルターにかける作業を数秒で片付けてから調理に素早く取り掛かった。
 
時間にして約二十分後。常に背後からの父の視線をビシビシ感じながら瑞樹は、二人の為に作った料理をカウンター越しに差し出した。
「おう、出来たか!」
 父は、興味津々にその料理を見つめて料理から漂う美味しそうな湯気を吸いこんで鼻をクンクンさせていたので隣の席に戻っていた母は、
「お父さん、犬みたいね!」
 母は、瑞樹の作った料理をしっかりと確認してから少し微笑んで瑞樹の顔を見つめた。
 
瑞樹の作った両親への料理は、チキンライスにふんわりオムレツを乗せてオムレツの中心にナイフを縦に入れて広げた後特製のタンシチューをたっぷりとかけて最後に生クリームを少しだけ回しかけた特製オムライスとその横にサラダを添えて手作りのドレッシングをかけた洋食屋さんのような一品となった。
 両親は、瑞樹の作った料理を黙々と時々舌の上で味覚を研ぎ澄ますかのように時間をかけてじっくりとしっかりと食べ続けた。瑞樹はその様子を見つつも、いくらかリラックスした状態で特に気にすることも無く再び開店準備を丁寧にこなしていった。

「中のチキンライスは、タンシチューをかけることを前提に鶏肉を控えめに細かく刻んで入れてあるな。だから肉のくどさを感じる事無く自然に食べられる。オムレツもちょうどいい半熟状に仕上げてあるし。多分、卵に牛乳と少しだけマヨネーズを入れて乳化(にゅうか)作用を狙った感じかな?ねぇ、母さん」
「うんうん、お父さんの言う通り。美味しいよ、瑞樹!」
 瑞樹は、かなり細かいところまで父に自分の料理を分析されてそれが完全に的中していたので少しお手上げの様な仕草と表情を浮かべてお道化てみせた。
「横に添えてあるサラダも量がちょうどいいな。ドレッシングはお前の手作りか?にんにくと玉ねぎのすりおろしに醤油ベースの和風ドレッシングなのは分かるが……隠し味に何か入れてあるな?はて、何だろう……?」
 父は、滅多に瑞樹の料理を褒めないタイプだが、このメニューはお気に召したようだった。但し、ドレッシングの隠し味に関しては料理人の大先輩として見抜けないまま帰りたくない様子だった。母もかなり大きめのお皿に盛ったオムライスとサラダを完食して紙ナプキンで口の周りを丁寧に拭いていた。母の余裕のある表情とさり気ない目配せを確認した瑞樹は、母にはこの手作りのドレッシングの隠し味が全てお見通しだと直ぐに気付いた。何故ならば、このドレッシングは瑞樹がまだ幼い頃に母から最初に教えてもらった「おふくろの味」だったからだ。瑞樹のさり気ない母への恩返しでもあり、粋な計らいでもあった。
「お父さん……瑞樹に一本やられたわね!フフッ!」
 母は、悩んでいる父の様子を見て思わずヒントを与えてしまった。
「えっ!?あっ!もしかして……」
 父は、ようやくその隠し味に気付いたようだった。
「牡蠣(かき)だし醤油……そうか……昔、母さんが作っていた……」
 暫くの間、味覚亭の店内はリヨンを除いて数十年前の穏やかで楽しかった瑞樹一家の日常へとタイムスリップしたような不思議な空気感に包み込まれていた。

「さて、母さん。リヨンを連れて帰ろうか?車の運転頼むよ!」
「はいはい。じゃあ瑞樹、頑張りなさいね!」
 両親共に席を立って、母は店内を散策していたリヨンを抱っこして帰り支度を始めた。
「料金は?いくらだ?」
「お二人合わせて二千万円になります」
「二千万か……母さん、コンビニ行って一千万下ろしてきてくれ、って瑞樹!」
「親父もノリ突っ込みやるんかい!」
「お父さんも瑞樹も……バカ言ってないで帰りますよ!」
「じゃあな、瑞樹。頑張れよ!」
 父は、何だかとても嬉しそうな笑顔を浮かべて千円札二枚を瑞樹に差し出してリヨンの頭を軽く撫でてから母と一緒に店を後にした。時刻は、午前0時ちょっと前。もう「味覚亭」の開店の時間が迫っていた。
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