第1話

文字数 1,275文字

 ここ山形県庄内には元気な高齢者が多い。
 70歳代は young(若者)、80歳代は普通、90歳代がお年寄りと呼ばれる。
 外来で「最近、足腰が弱ったので、自転車に乗ることにしたら、行動範囲が広がった。」と喜々として話す80歳後半の

ではなく、

には大層驚いた。80歳を超えても元気な高齢の男性は、雪降ろし作業をしに屋根に上る。
 しかし、高齢者の転落事故も多い。

【転落】[名](スル) ころげ落ちること。(goo 辞書から引用)

 転落には辛い思い出がある。
 今から4~5年前、山形県の内陸にある某病院の外来診療に行った時、入院中の患者さんの診察依頼があった。患者さんは以前に当院で心臓の手術を受けた既往があるので、心臓の具合を診察して欲しいとのことだった。
 (誰だろう? 心不全でも起こしたのかな?)
 カルテを開いた。87歳男性で、「庭の植木の剪定中に1階の屋根より高い梯子から転落し、背中から後頭部を強打した。脊髄を損傷し、四肢麻痺(ししまひ)(両上肢と両下肢の麻痺)になった。」の旨の記載があった。そこには当院から心臓の手術記録が転送されていた。
 すぐに思い出した。患者さんは手術当時 82歳で、診断は僧帽弁閉鎖不全症(そうぼうべんへいさふぜんしょう)(心臓の4つある逆流防止の弁のうちの1つの僧帽弁がうまく閉じなくなって血液が逆流する)による心不全だった。手術は傷んだ僧帽弁を人工弁と取り換える僧帽弁置換術(そうぼうべんちかんじゅつ)ではなく、自分の傷んだ弁を修復して逆流を治す僧帽弁形成術(そうぼうべんけいせいじゅつ)を選択した。手術は完璧で、術後の逆流はなくなり、心不全も軽快した。ただ、82歳の高齢で手術の侵襲(しんしゅう)(体への負担)は大きく、退院に向けて2~3週間のリハビリテーションが必要だった。
 手術から5年が経って、患者さんは2階に近い高さの梯子に乗って植木を剪定するほど元気になっていた。
 病室に出向いた。
 「○○さん、元気でしたか?」
 少し間抜けな質問だったが、ほかに何と声を掛けていいのか分からなかった。
 患者さんは褥瘡(じょくそう)防止のため右肩、背中、右の腰の下に枕を入れて左下半側臥位(はんそくがい)を取っていた。両下肢、左上肢は完全麻痺、右上肢だけが僅かに動かせた。そして体の左側にある床頭台(しょうとうだい)のテレビを観ていた。穏やかな表情をしていた。
 「…。」
 「久し振りに胸の診察をさせて下さい。」
 「ああ、お願いします。」
 患者さんは自分で病衣をはだけられない。私は病衣をはだけ、胸を露出した。胸骨正中切開創(きょうこつせいちゅうせっかいそう)があった。僧帽弁領域に聴診器を当てた。
 ドクンドクンドクンドクン
 心雑音はなく、きれいな僧帽弁の開閉音だった。
 この患者さんは 82歳の時に受けた心臓手術も乗り越え、それ以降も充実した晩年を送っていた。
 彼にとって、転落は一瞬の出来事だった。

 さて写真は、東京の浜松町にある世界貿易センタービル40階の展望台から撮影した東京タワーである。2014年1月13日に撮影した。

 私は空間を介して地面と直面する高所は苦手である。高層ビルなどの建物の中は平気だ。
 とか何とか言って、やはり人は地面にしっかりと足で立つのがいいと思う。

 んだんだ。
(2022年11月)
 
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