3 最果神聖戦線ユリガイア

文字数 7,169文字

1

 ストリートに集結したパトカーがまた隊列をなして署へ帰還していく中――最後尾を駆けていたフクメンが一瞬だけウィンカーを光らせた後、こっそりと脇道に外れて署への帰路に尻を向け、暗闇の海岸道を流し始めた。
「毎日、ちゃんと眠れてる?」
 口説くような、というか現に口説きにかかりつつハンドルを握っているのは無論真島夙、助手席で膝をぴたりと閉じて背筋を伸ばしているのは新米の女性警官。その制服が纏うおろしたての香りが、鼻血沙汰を経て間もない夙の鼻孔を癒してくれる。
「はい、睡眠は毎日きちんと取らせていただけております」
「徹夜とかするとさ、ほら、肌にすぐ出ちゃうじゃない?」
 と、海岸道からもさらに外れて砂浜に乗り上げていく。タイヤは準備万端のオフロード仕様だ。
「真島さん、あの、署へは戻らないんですか?」
 最初に列を外れた時点で問いかけるべき質問ではあったが、そこは新米警官、何か緊急の用に思い至ってルートを変えたのだろうとひとり納得しておいた。が、砂浜を少し走ったところでおもむろにブレーキが踏まれそのまま完全に停車すると、さすがに身を強張らせずにはいられない。
「周り……何も無い、ですよね? こんなところに何の用事で――」
 夙は答える代わりに、シートベルトを外して身を助手席へ乗り出し顔に顔を寄せた。
 薄く開けたままの窓から漂う潮の匂い、波打ちの音、遠く微かなサイレン。
 夙は新米警官の頬をじっと見つめたまま、何も言わない。
 新米警官は膝を固く閉じたまま、ただ、その首筋に汗だけを刻一刻とつのらせていく。
 やがて、「すみません、本当は昨日も徹夜で――」と彼女が口を割るまでそう長い時を俟たなかった。
「昨日の飛び降りのアレ、最初に現場着いたの、あなただったよね」
「は、はいっ、パトロール中でちょうど最寄りにおりまして……」
「うん。もう慣れた? ああいうの」
「は、い……でも昨日の子は、痣がひときわひどくて……」
「そりゃあ、まぁ、すんなりとは眠れなくなるよね」
 慰めるように言葉を重ねながら慣れた手つきで助手席の側面へと腕を伸ばし、レバーを引いて、シートをそっと倒した。すかさず、彼女の膝に手を這わせ、強張り起き上がろうとするその両脚を宥め黙らせる。
「やっぱりさ、あれ、自殺だと思う?」
「あの痣さえなければ他に不審な点は……ところで、あの、真島さん、さっきからどうしてそんなにっ、んっ……!?
 ストッキングの感触。腿とスカートの上を滑り抜け、ブラウスの内へなめらかに入り込み腹に触れる夙の手のひら。へその窪みに添う小指、脇腹にほんのわずか余っている肉に甘く食い込む爪先。
「お腹にあんな痣つくるようなプレイ、あたしでも見たことないしなぁ……」
 夙は問いかけを無視して呟きつつ、新米警官への愛撫に本腰を入れつつ、ここひと月で立て続けに起こっている不審な連続自殺に思いを巡らせる。
 この件を“連続”自殺事件たらしめているポイントは三つ。
 第一に、死んでいるのは中学生もしくは高校生の少女たちであること。
 第二に、飛び降りや入水などの準備を要しない衝動的死に方であること。
 そして最大の決め手である第三の理由、それが、痣だ。
 昨夜発見された少女の遺体にも、その細い腰回りに、幅広のベルトでぎゅうぎゅうに締め上げられたような痣が残されていた。とりわけ腹部正面への圧迫が強力だったようで、昨日の少女に至っては皮膚の損壊が確認されたほどである。しかし――死因はあくまで自宅マンションからの飛び降りによるものであり、痣は一切関わっていない。それでも、腹部に痣を持つ少女の自死がこうも続くと、そこに何事かを探らずに済ますわけにもいかない。死因には関係なくとも、自殺を選んだその理由に関わっている可能性は大いにありうる。
 ただ、その痣が何によって作られたのかということすら、検死を以てしても今はまださっぱりなのだった。ベルトがとてつもない圧力で腹肉に食い込んだ、ということが何を意味するのか、まるでわからない。
「この街も、やっと静かになったと思ったのにねぇ……」
 夙の愛撫が止むことはなく、新米警官は今やただその指先に身を委ね、悶えるばかり。潮の香りに混じって、汗の湿った匂いが車内に漂い出しつつある。
 ちなみに、夙の直感のもとでは死んだ少女たちの第四の共通点――全員が一見しておそらく百合っ娘であるという見立ても限りなく重要な手掛かりとして考慮しているのだが、裏付けさえ覚束ない今はまだ、あくまで夙個人の直感でしかなかった。


2

 シンメトリーの豪邸に朽ち始めてなお色濃く輝くレンガ壁、茂る緑の中に白木の東屋を佇ませた庭園、そして夜も四季も顧みず満開に咲き乱れる百合の花々。ひと目で良家のお嬢様と知れる上山田邸の外観とは裏腹に、海果の自室は大きくも豪勢でもなく、まるでここだけ庶民の女子高生の部屋を切り取って付け足したかのよう――学校の教室よりひとまわり小さいぐらいの空間にグレーのカーペットが敷かれ、壁一面を書架に縁どられた、少しだけ優等生感漂う落ち着いた眺め。
 海果はベッドの縁に掛け、壁掛けテレビに映る百合アニメのエンドクレジットを真剣に眼差している。
 ローテーブルの傍らに正座するともるも同様にテレビを注視していた。
 そして、あぐらの膝にメガネっ娘アンナの頭の重みを感じつつ、うたた寝に身を委ねていた紅子がベルトの呼び声を感じて息を呑んだ、
 瞬間。
「ただいまトモルー!!
 夜十時過ぎにしては迷惑すぎるテンションの声が割り込んできた、と思うが早いが飛び込んできた明日奈がともるに抱き付き押し倒して頬ずりを迫っている光景が繰り広げられている。
「ねぇ聞いてよ、ミクミーの胸がまた重くなったせいで無駄にガソリン食っちゃってさー」
「なっ、ガス欠はあなたの不注意のせいでしょうっ……! 大体あなたこそ、見かければ授業中だろうと朝礼中だろうと見境なくお菓子なんか齧っているのだから前よりお尻がひとまわり……」
と、続けて部屋に入ってきた深久美も負けじと声を張り上げる、が、海果の姿を見つけるなり口をつぐんで足早にベッドへ進み、床に片膝をついた。
「峠道の入り口で見つけたわ」
 そう言って差し出したのは、路上で拾った生徒手帳。
「さすが深久美、いつも本当に頼りになる」
 海果が労いと共に手帳を受け取り、表紙をめくろうとした、途端、
「えーーーっ、それだけ!!?
 明日奈の絶叫、のみならず明日奈自身までがふたりの間に割り込んだ。
「ミクミーさ、帰り道ずっと、ずーっと『これで海果サマに褒めてもらえるぅ』ってぐふぐふしてたんだよ!? だからほらっ、もっと頭撫でてあげたり胸さわ」
「わっ、私がいつぐふぐふしてたのよっ!? 適当なこと言わなっ……!?
 顔を真っ赤にした深久美が怒鳴り散らして明日奈の胸倉を掴む、と同時に、深久美の頭と胸元へは海果の手がそっと添えられていた。
「深久美。キミさえその気なら、私はいつだってキミを……」
「え、みっ、海果っ、違っ、わた、私はべべ別にそういうつもりじゃ……」
 明日奈へのムカつきとは違う赤の色で再び染め上げられていく頬、耳たぶ、そして目尻を濡らす嬉し涙。このまま海果にすべてを委ねて任せてされるがままになってしまいたい衝動、しかし、明日奈の胸倉を掴んだままの手のひらに不意に甦る、峠道での暴力沙汰の感触。汚いものには触れぬように、そして触れられぬよう細心の注意を払ってはいた、けれど、どんなに身のこなしに自信があろうと、この身そのままで海果に肌を預けるなど、やはりできるはずもない。
「私、シャワー、浴びてくるからっ……!」
 明日奈を放り捨て、立ち上がり、汗にズレた眼鏡を直すと、深久美は黒髪を翻し走り去った。
 一方、乱暴に放られた明日奈は明日奈でともるの胸に受け止められ、「明日奈も一緒に汗流しておいでよ」と微笑みかけられるなり「ミクミーとお風呂っ!」とはしゃいで走り去った。
 再び、もとのメンバーだけが部屋に残る。
 浅く眠りかけていたアンナもこの騒ぎでさすがに目を覚まし、一連の出来事をぽかんと見つめていて、紅子がその疑問符を引き受けて口を開いた。
「……あなたたちって、いつもこんな感じなの?」
「キミの妄想にお任せするよ」
「ねぇ、紅子ちゃんももう一回お風呂行ってきたらどう?? 深久美ちゃんも明日奈も紅子ちゃんのベルトのこと気にしてるだろうし、それに、紅子ちゃんだってあのふたりの、見たい、でしょ?」
 うまくはぐらかされたような気がするが、胸が重くてガソリンがどーのこーののくだりを聞いたばかりな手前、紅子に提案を断るすべはない。
「……アンナさんはどうする? 一緒にお風呂行こっか?」
 そして遠慮がちながら誘ってみれば、紅子以上にこの場の雰囲気に馴染み切れず途方に暮れている様子のメガネっ娘は一同を順に見回してから、こくりと小さく頷いた。 

 海果の部屋を出て、浴場へ向かうふたりきりの道すがら。
「私……どうしてここにいるんでしょうか」
 歩きだして間もないうち、堰をやっとのことで切った様子で先に口を開いたのはアンナだった。
 そう、確かにそうなのだ。
 彼女に対しては、ストリートに現れた不気味な少女たちと怪物の件について訊きたいことが山ほどもあるはずである。しかし海果もともるも、一向に口火を切ろうとしないのはどういうワケなのか。思い返してみれば、ストリートからの帰り道にしてすでに百合アニメのために寄り道する緊張感の無さ、入浴タイムではベルトのことにだけ軽く触れたものの、あとはずっとどうでもよくはないが緊急性は無い話に集中していた。というか、そもそも――そもそも、だ。彼女たちはどこか、慣れている、ように見える。面倒事にも、初対面の少女を連れて帰ることにも。
 となれば、海果やともるは、すでに何事かを把握しているのだろうか。あの奇妙な少女たちや、このベルトと変身について、少なからず知っていることがある、ということなのだろうか。
 そこまで黙って考え込んだところで、紅子は返答を求めて見つめる眼差しに気付き我に返った。浴場も今やすぐそこまで迫っている。
「多分……待ってるんじゃないかな、アンナさんが、話してくれるの」
 浴場入口ののれんをくぐる直前で足を止め、紅子はアンナに向き直った。
 今度は逆にアンナの立場から考えてみれば――彼女とて、自分がこうして保護され連れてこられた理由がわからない年ではない。これまでの沈黙も警戒心ゆえというよりも、どうあっても一筋縄ではなさそうな事情をどうやって打ち明けたらいいものかと途方に暮れていたがための沈黙、だったのだろう。それを察しているからこそ、海果たちも無理に問い質そうとはせずに、アンナが自ら口を開くのを待っている。
「何でも、話しやすいとこからでいいからさ、教えてもらえたら……私も助かるなぁ、なんて思ったり」
 紅子は自分の腰に巻き付いたベルトをばしばし叩き、困り顔で笑って見せた。実際、紅子の立場もアンナとほとんど変わらない。どさくさで同行してしまったものの、これからどうしたものかさっぱりわからないのが正直なところである。学園でもトップクラスの美少女たちと食事・お風呂を共にできているこの状況が美味しすぎることに間違いはないが、腹にやんわり食い込み続けているこのベルトの感覚を無視してはしゃぐことも叶わない。
「……ごめんなさい、こんなことに巻き込んでしまって……」
 のれんをくぐりかけたところでまた立ち止まり、振り向けば、見上げてくる少女の瞳に突然の、涙。
 ブルーのカラコンを着けた紅子の瞳がにわかに動揺しキョドり喉に言葉が、詰まる。
 妹のひとりでも持っていたら、こんな涙を前にしたときにどうしたらいいのかを身を以て知っていたかもしれない。しかし運悪くふたり姉妹の下のほうである紅子にとって、馴染みがあるのはあの夙の存在のみ。幾粒もの他人の涙なら舐めてきていそうな夙であればこんなときの完璧な身ごなしを知っていそうだが、レクチャーを受けたことはなかった。
 心臓ばかりが焦りに高鳴る、と共に、胸の内……ではなく腹の底のほうから『今このタイミングで抱き締めてやらないでどうするんだよ、コーコ』と呼びかける声。そういえば明日奈の乱入で途切れたきりになっていたのだった。
「だっ、抱き締めるったって、あたしなんかじゃ……」
 そういうのは、きっと、海果やともるのような学園トップレベルのカリスマ美少女か、あるいは夙のようなナルシストに片脚を突っ込んだ美貌の御姉様がやるから様にもなるし許されもするのであって、自分がそんな暴挙に出たところで――と迷っている内にもまた、あの時と同じく、身体が勝手に動いた。アンナを胸に抱き寄せ、ブラウスに沁みてくる涙の熱を鼓動で感じていた。
 背後から、「紅子ちゃんっ、ヤるじゃんっ!!」と明日奈に肩を叩かれるまでの、ほんの一瞬の抱擁だった。


3

「あなたが見たことをすべて、あますところなく、すみずみまで……ご報告いただけますか」
 衣擦れ、吐息、鎖の呻きそして、穏やかに問いかける女の声と纏わりつく眼差し。
 逆さユリの紋章に詩神の書物を戴いたエンブレムの巨大旗が吊り下げられた七角形の大伽藍。七方に聳える七枚の石壁、そこに走る亀裂を貫いて差すいく筋もの間接照明が細切れに照らし出すのは、寺院ともチャペルとも監獄ともつかぬ眺めと、総勢七人の少女たちの姿。
「百合咲シーサイドストリートの路地裏にて、裏切り者を追い詰めましたところ――」
 高さ十メートルはゆうに越す天井から垂れ下がる長い長い鎖、その下端の枷に両手首を頭上で捕えられた格好で報告を始めた彼女の名は、アリサ。アイマスクによって目元は覆われているが、レザーのワンピースのその姿は他でもない、紅子の最初の一撃を顔面にくらいノックダウンしたあの少女である。そしてその隣には彼女同様、路地裏で紅子によって倒された少女たちが皆一様に両腕を上げて鎖に繋がれて並び立っている。
「想定外の乱入者が現れまして……」
「ボコられて裏切り者の捕獲にも失敗してシメイザに尻を拭いてもらったんでしょう?」
 半泣きの弁解を遮って問いかける冷たい声、そして、ぱん、と肉を打つ音が轟き、アリサが両脚を震わせ項垂れた。
 南方緋桜はアリサの尻に叩き付けた杖を下ろすと、アリサたちの正面でアンティークソファに身を委ね微笑んでいる者へ――北村譜理絵に向けて変わらぬ調子で問いかける。
「フリエ。こんな報告、聞かなくったって充分。あたしがカタをつけにいくよ?」
「それは、困ります」
「えー、困らないでよぉ」
 銀の狼頭が付いた杖の柄を握り締める白い手の甲に、浮かぶ、青筋。艶黒のロングヘアを波打たせ足音だけを怒らせて譜理絵に歩み寄り、右半分を前髪に隠した顔を顔に寄せて、もう一度問いかけようとしたその唇を、
 奪われる。
 そっと触れ合わせるだけ、互いの吐息を通わせる隙間さえ覚束ないほどの、微かで、密やかな、キス。
 とはいえ不意打ちには違いなく、思わず赤面し後ずさろうとする緋桜、だったが、譜理絵が先手を打った。
「大丈夫、誰も見てなどいないから……ねぇ、シメイザ?」
 譜理絵が問いかけたその先、アイマスクを付けて並び立つ少女たちの向こう――、一同に背を向けてずっと直立不動で事態をやり過ごしていたシメイザが、なおも身じろぎのひとつすらないままに「はーい、見てませーん」とだけ応じる。
「緋桜、あなた、そのコを見つけ出したところでどうするつもり?」
「……十中八九、偶然“コーラ”を手にしただけのハンパでしょ。口説いてお持ち帰り」
「それだから、あなたに行ってもらっては困っ……!?
 今度は譜理絵が声を詰まらせる番だった。
 目の前いっぱいに、焦点が合わなくなるギリギリまで寄せられた緋桜の顔、眉間に思い詰めた皺を寄せて目を細め「なぜ?」と問いかけてくる眼差しに胸を鷲掴みにされる。
「なぜ、って、それは……もし、その子が、あの“コーラ”と解り合えているということなのだとしたら――」
「無理に手なづけようとしたところでまたただの石コロ、ってわけ? だけどっ……」
 なおも食い下がろうとする緋桜の唇に、譜理絵の白い指がそっと触れて舌先を、撫ぜる。
「お願い、緋桜。“試験”も一時中断する。私だって、これ以上の命を無駄に散らしたくないもの」
「…………異論はない。シメイザ!」
「はいはーい」
 立ち尽くすアリサたちの向こう、気の抜けた返事と共に振り向いたシメイザ――その姿は今や、ひと目を引くところなにひとつない普通の少女のものに変わっていた。紺のブレザーとジャンパースカートの制服姿、アップに束ねられた茶髪と丸っこい目があの鳥っぽい面影を残していなくもないが、やはり何の変哲もない少女には違いない。
「裏切り者の確保を最優先。“コーラ”は情報収集のみに止め、戦闘は避けてね」
 緋桜が命じればシメイザはレザーのブレスレットを着けた左腕を掲げ、
「おまかせあれー」
 とくるりと回れ右、そのまま伽藍を飛び出していった。足音は扉を開け放した直後にぷつりと途絶え、翼の羽ばたきに変わって飛び去る。
「来る者拒まず去る者追わず、とはなかなかいかないものね」
 見送りつつそう呟いた譜理絵の溜め息とともに、アリサたちを吊っていた鎖が一斉に解き放たれた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み