第2話

文字数 2,121文字

恋はいつも突然やってくる。

もう自分は恋をしないと思ってから何年経っただろうか。昔は身を焦がすような恋をたくさんした。大恋愛の末に信じられないくらいひどい終わり方をしたもの、必死に頑張ったけど実らなかったもの、最後まで言葉にもできなかったもの。どれも今となっては過去で、たまにふと思い出すと甘くもあり、ちょっとだけ痛いものだった。でも結婚をして、子供が産まれて、あくせく働いている内に、いつの間にか恋は遠くのものとなっていた。

結婚後にも恋らしきものはあったけれど、昔のように身を焦がすような恋ではなく、相手のことを素敵だなと思ったり、少し邪な気持ちが芽生えるくらいで、もう自分の恋の季節は通り過ぎてしまったんだと思っていた。

今の妻は決して大恋愛から結ばれたわけではなかったけれど、結婚後15年経っても気楽だし、たまに行く近所の蕎麦屋が湯呑で出してくるワインの濃さがちょうどいいよね、みたいな話をする。これまでにそれなりの危機もあったけども、そういうのも含めて今の関係が1番いいんじゃ無いか、このまま続いていくんだろうな、そう思っていた。

本当にそう思っていた、彼女に出会うまでは。
その恋は世界の隅っこで静かに僕を待っていた。

彼女に最初に出会ったのはいつだっただろう。
うっすらと寒くなり始めた季節に彼女は僕のいるフロアに異動してきた。彼女は総務部で、いわゆる部門の経理とか事務をやってくれる部署に派遣社員の一人として配属されていた。ただ隣の部門の担当だったので異動しても普段接する機会はなく、たまに近くの席を通り過ぎる時に見かける程度だった。

一目見た時に俺の好きなタイプの子だなと思った。特別美人なわけでもないし、明るく振る舞ってみんなの中心にいるわけでもない。オフィスの中で静かに息をしている、悪く言えば地味、奈々はそんな子だった。
けれど妙に惹かれる感覚があった。でもそれはたまにある話で、素敵だなと思ったけど、特にその子と特別接することもなく日々は過ぎていった。

過ぎて行くと思っていた。

けれどその子の席を通って横目でその子を見るたびに、「気になる」がどんどん膨れ上がっていく。なぜだかわからないまま勝手に風船がどんどん膨らんで、気づいた時には無意識にその子のことを目で追うようになっていた。恋なんていう自覚は全くなかった。

「気になる」の正体を掴むためにはとにかく話してみるしかない、と思い立っては見たもののそこからがなかなか大変だった。その子は社内の限られたメンバーとしか接してないし、休憩時間には漫画アプリらしきものを読んだり動画を見たりたまにお昼寝をし、いつも定時になるとすぐにいなくなってしまう。周りの子にそれとなく「どんな子なの?」と聞くくらいはできるけど、分かるのは名前が高橋奈々、年齢は30歳くらいで僕より一回り以上下の年齢ということだけで、それ以上のことはあまり分からない。急に「話してみたい、飲んでみたい」というような誘い方をできるわけもなく、「気になる」けどどうにもできない、ただ目で追うだけの状況が続いていた。

そんな日々がしばらく続いたあと、機会は突然やってきた。

高橋「遠谷さん、●●商事の坂井さんという方からお電話ありました。また掛けるとのことです」

なんと、社内チャットツールに彼女から連絡が入ったのだ。
コロナ以降会社の固定電話はほとんど鳴らず、フロアで数台、しかも複数部門で共有になっていた。そもそも固定電話には不特定多数に掛けているセールスの電話が多く、この電話も例にも漏れずその類の電話だった。

(坂井ナイス!よく俺に営業電話を掛けてきた!!)

多分この先二度と話すことのない坂井さんに心から感謝をし、社内チャットに向き合う。

遠谷「ありがとう。高橋さんだっけ?話すの初めてだよね?」
(怪しくないよな?慎重に、慎重に)
心の中で何度も読み直し、チャットの送信ボタンを押す。

しばらくすると、
高橋「いえいえ。そうですね。初めましてですね。高橋といいます。よろしくお願いします。」
丁寧なチャットが返ってきた。

遠谷「よろしくね。そういえばたまに漫画アプリ?で何か読んでるよね?何読んでるの?」
高橋「あ、ばれてましたかwただの少女漫画ですよ」
遠谷「え、そうなんだ。俺漫画は何でも読むから、作品名教えて欲しいな」
高橋「最近のお気に入りは××と▲▲ですかね。キュンキュンするのが好きですw」
可愛い顔文字入りで返信が届く。
遠谷「そうなんだ。読んでみよ!キュンキュン系だったら■■って作品が面白いよ?読んだことある?」
高橋「無いです。今度読んでみますね!」
遠谷「うん読んでみて!漫画好きなの?」
高橋「はい、そうですね。結構読みます。漫画アプリで無料の奴だけですけど」
遠谷「俺も大好きでよく読むから面白いの見つけたら教えてよ」
高橋「はい。分かりました!」

こうして僕と彼女の初コンタクトは終了した。しつこくならないように適度に切り上げる。
たった5分くらいの短いやり取り。それは永遠のようで胸はどうしようもなく高鳴っていた。
余韻で心臓がバクバクしている。
その長らく忘れていた胸の鼓動に、
「あー、これはまずいことになる。」
そんな予感を強く感じていた。
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