第三十二話 新たなる邂逅

文字数 3,565文字

魔女は我が目を疑った。無理もない。自身が持つ”力”に勝る程に、何かが目の前で爆ぜたのだから。
その奇襲の対象とされた象骨は、叫声を上げながら大きく仰け反った。
爆ぜる直前、後方で何かが破裂するような音を魔女は聞いた。迷わずその"元"を振り返る。視線の先には、地吹雪に霞む、馬に跨る何者かの姿があった。
(……な、何奴ぞ!?)
羽織が風に靡かれ、大きく揺れている。その者を乗せる馬は、淡々とこちらへと歩を進めてくる。
――カシャン。
強風が成す、吹きすさぶ轟音の中に、微かに何かが混じっている。一つは、雪を踏みしめ闊歩する馬の足音。もう一つは、金属同士を擦り合わせたような、やや耳に触る擦音。
手元が一瞬光を帯びた。間もなく、背後で爆音が鳴り、再び象骨が嘶いた。
「走れ!」
次に届いたのは呼号。こちらを促すものであった。
悩める数秒。魔女のその迷いを断ったのは、大きな地響きであった。衝撃を受けた象骨が、すぐ様大勢を立て直し、宙にあった前足を振り下ろし、地を揺らしたのであった。
(……暇はない、か)
この地を囲む木々が薄いお陰か、雪は風に踊らされ、足元にさほど降り積もってはいない。この状況下、魔女の脳内にはなんと、他の選択肢があったのだが、やはり損失の可能性は低い方が良い。グリンデは痛む右肩を抑え、霞む雪景色の中、その者へと駆ける方を得た。
今一度、背後で象骨が爆ぜた。擦音が聞こえ辛かったのは、自身の行く先に反し、向かい風であり、より叩きつける豪雪にそれが叶わなかったからである。
雪塊が脇目に飛んでくる。いかにガルネウスが暴れ狂っているのかが、容易く想像できる。しかし、振り返る余裕など持ち合わせてはいない。
背後で鳴る爆音も、間隔が短くなってきた。耳に届く擦音も、徐々に鋭く尖る。
(……雪原を駆けることになるとはの)
グリンデは、マリーを思い出さざるを得なかった。この感覚、よもや再び味わう事になろうとは……。
眼前で靡く影が、徐々に濃くなる。
(……まだ掛かるか)
魔女は急いていた。しかし、平静を失ってはいない。
馬は大きいものであるらしい。一般的なそれの想像する姿、大きさは捉えているのだが、未だに微かに靄が隔たっている。あと少しの所なのだが、予想に反して、その者らの姿はやや遠くにあるようである。
今度は鮮明に届いた。
「四ダズ……斜め右へ迂回しろ!十歩駆けたら、そのまま伏せるんだ!」
鬼気迫るその呼応に、魔女は素直に従った。足先を右へ。十を数えて雪原に雪崩れ込む。肩が強く痛むが、それも惜しまなかった。おそらく、ガルネウスの動きを封じる、何かが飛んでくる。それに巻き込まれるわけにはいかない。そう踏んだのである。
その予想は当たった。
黒衣の者が放った爆発物は、象骨の足元へと落とされ、地が大きく鳴り響いた。降り積もっていた雪が宙に舞い、より視界は閉ざされる。
象骨の叫声が響いた。魔女は雪に塗れながら、ようやくその姿を振り向く余裕が出来た。
飛び込んできたガルネウスの姿は、まるで綱を渡っているかのようであった。前脚を大きく上げ、体勢を取るのがやっとの様である。
擦音が鳴る。すかさず何かが飛んできた。相も変わらず、例の爆発物である。それは、降りあがった前脚を除け、不安定に大きなガルネウスの図体を支える、右後ろ脚へと命中したようだ。
――クォオォオオン!!
空から岩石が落ちてきたかのようであった。到頭、象骨は平衡を失い、その巨体は雪原へと雪崩れた。
「立て!こっちだ!」
声はすぐ背後にあった。やはりその者の馬は大きく、立ち上がる魔女を見下ろす眼は正に、野生に生きる者の如く、鋭く、かつ冷静にこちらを見定めている。
(……なんと、隻眼の者とな)
まるで荒野を駆ける狼を想わせる。雪除けの頭巾の隙間から覗く眼帯。その隣には白昼の太陽があった。
(こやつ……何者ぞ)
骨と成っているとは言え、生身の人間が、巨象から逃げ切れること自体が奇跡である。その要因として、この者が優れた武器を持ち合わせている事が挙げられるが、そもそもその武器を使いこなせていないと成し得ないものである。
それだけではない。先ほどの、手に取る様な戦術。知識がなければ、まずガルネウスの転倒は引き起こせなかった。これまでの戦いぶりを見る限り、どれ一つとして計算のないものはない。
それに加え、思わず口走った”ダズ”という言葉。これは、グリンデが産まれる遥か以前より使われている、角度を意味する軍人用語である。こちらへ指示を出す立場が、ふいに何かの記憶を呼び戻したのかもしれない。
この隻眼の者は、兵士であったことが伺えるが、明らかに並みの者ではない。
「いいから早くするんだ!」
隻眼の者は、こちらへ手を差し伸べている。魔女の背後でのたうつ象骨は、その動きの間隔を緩めている。起き上がるのも時間の問題であろう。
迷っている時間はない。魔女は隻眼の孤狼の手をつかみ、馬へと足をかけた。
(……やはり、まずは、こやつを鎮めることが先決だわい)
何をするにも、まずは落ち着いた空間を得なければ。話をするにも聞くにも、このままでは埒が明かない。
そう。”力”を持つ者は、この者だけではないのだ。強者とあらば、自身も同じなのである。”疑い”ならば相手こそ同じであろう。
(……もしこの者が帝国の者であれば、迷わず息の根を止めるしかない。次はないぞよ)
歴史はいつも語っている。油断や慢心こそ、最大の敵であるという事を。もう二度目は来てはならない。救われた身でありながらも、魔女の瞳には、ある種の”覚悟”が芽生えていた。
象骨は既に、片足を雪原にかけている。魔女と隻眼の孤狼を乗せた黒馬は、反転し、再び雪原を駆け始めた。


泥濘を踏む、二つの馬の跫音が、硬いものへと変わる。
(良かった!報はまだ街に届いていない!)
魔女が再び馬の背を跨いだ頃、栗毛髪の青年リアムと少女オリビアは、ようやくオルドの町へと辿り着いた。聖堂院の騒々しさも、ここではまだ無縁のようであった。
(今のうちに早く、耐魔の槍を……!)
二人の様は、深夜の静寂にまるで似合わない。言葉を交わす際も、もはや目線を合わす余裕すらない。
「オリビアさん!早く屋敷へ!私に構わず向かってください!」
「は、はい!」
平行に並んでいた二頭の馬のうち一頭が速度を落とし、街道の脇に逸れた。深く頭巾を被された、白馬に跨る少女は、後ろ耳で青年の言葉を受け取り、振り返ることなく馬をより加速させてゆく。
ここまでの道中、全力で駆け、先頭を維持していた青年の馬も、道のりの六割を超えたあたりで白馬が隣に並んだ。そこからの馬はもう、果てる瀬戸際で尻を叩かれていた。
「……休ませてからというのは甘かったな」
文字通り、息も辛辛とはこの事。リアムの馬は膝を折り、地に腹を着けてしまっている。口元からは、大きな涎が垂れ、不規則で荒い呼吸が空気を白く濁している。もはや、回復するまで待つとなると、一体いつになるのであろうか。
「仕方がない。とにかく新しい馬を!」
青年は石畳を駆け始めた。
この場にかの少女が居なくて良かった。リアムは、民家の馬屋を見つけ、適当な馬を一頭見つけると、仕切りを外し、跨った。
本来、人様の物を拝借するなど、避けるべき事象であろう。再びこの地に訪れた際に、良い未来が訪れるとは考えにくい。危機は避けたいものである。
だが、彼はもはや確信していたのであった。暫くこの街に立ち寄ることは出来なくなると。”聖堂院に得体の知れない化け物が現れた……”それだけであらゆる不利な事象が頭に浮かぶ。
彼には、今まで積み上げた信頼や功績がこの街にあった。グリンデの馬を得ることが出来たのも、外れの屋敷を借りることが出来たのも、この街の町長から積み上げたそれが存在したから成し得た事であった。出来れば、この先もその恩恵に預かりたいものではあるが、現実的ではないであろう。
(……惜しいが、もたついている時間はない!)
人知を超えた存在は、何も聖堂院にいるものだけではない。あの驚異的な身体能力を誇る白馬であれば、馬の装備を変え終える前に、こちらへ辿りついてしまうかもしれない。時は待ってはくれないのである。
リアムは、馬屋を出ると、足早に自身の馬の下へと向かった。

少女の瞳の両端に、煉瓦造りの家屋が青白く映し出され、消えてゆく。何度かそれを繰り返した時、ふと中心が開け、深藍色の闇が辺りを包んだ。
「シルキーちゃん!もっと行けるよね?」
まさか、石畳との相性が悪かったのか。主の声を受けた白馬は、より速度を増した。
少女の額は風に晒され、頭巾の紐は首元を絞めつけている。だがもはや、神経は寒さで麻痺しており、痛みなど感じてはいない。
(グリンデさん、もう少しだけ耐えてて……!)
手綱を握る少女の拳が、より強張りを見せた。
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