最終話 分岐点

文字数 5,414文字

「澤田君は、お仕事は順調なの?」
「まあ、普通にこなしているよ」
「澤田君は何でも出来そうだからな、何処でも生きて行けるよ」
「そうかな。でも俺も辛いときだってあるよ」
「そうなんだ。澤田君、優しいから今の職場でも人気あるんでしょ?」
「そんなことないよ。今の職場でも、って、前の職場でも特に人気は無かったけどな」
 昔と変わらず、あなたは自分の優しさに気付いていないのね。あなたは知らないかもしれないけど、同期の女子の間では、その優しい性格は評判が良かった。そしてその優しさが私にとって罪な時もあったのよ。
「ふーん。本当にそう思ってる?」
「そう思ってるよ」
「それが、澤田君の良いところなのかもね」
「えー、何か気になるな」
「何でもない、何でもない。飲も、飲も」
 それにしても素敵なワイングラス。女将さんの着物姿と曇り一つない透き通ったワイングラス。なんかレトロな感じがする。澤田君、本当はビールが飲みたかったんじゃない? 私に合わせてくれたのかな。
「どう? 美味しい?」
「ああ、ワインの事は詳しくないけど、こういうのも悪くないね」
「そうでしょ」
 彼女はそう言ってはにかむと、ゆっくりとワイングラスを唇にあてた。和食とワインと言う組み合わせは初めてだ。家ではいつも、妻が当然のようにビールを出してくれる。なんだか今日はよそのお宅にお邪魔したような気分だ。
「ところで、渡辺さんも元気にやっているの?」
「相変わらず忙しくしているかな。いまは仕事だけに集中するわけにはいかないから、定時に帰らせてもらっているけど。昔みたいに夜遅くまで残業することは、無くなったかな」
「そうなんだ。昔はよく深夜まで残業してたよね」
「まあ、あの頃は意地を張ってやっていた部分も有ったけどね」
 あっさりとそう言える彼女が、やけに大人に感じた。俺も十分いい大人だが、なんだか自分が子供っぽく感じる。
「仕事以外も大変なの?」
 渡辺さんの家庭の事は知らないから、無意識に遠回しな聞き方になっていた。
 彼女はワイングラスをゆっくりと回しながら少し考えると、
「大変といえば、大変かな。思えば自分の時間は無いかもね」
 そう言って笑った表情が、諦めに似たような微笑みに感じた。お子さんも小学生だから、まだまだ手がかかることは容易に想像がつく。正直、旦那さんの協力は得られているのか、気になるが、そこまでは突っ込んでは聞けない。ただ彼女が旦那さんに不満を持っていて、心の拠り所を求めているのではないかと、勝手な想像をしてしまった。
「でも少しは息抜きが出来る時間も大切だよ」
 我ながら気休めな言葉だな。
「そうね。息抜きが出来るといいけど」
 ワイングラスを置き、軽く笑みを浮かべる彼女の様子からして、俺の言葉は的を射ていないようだ。
「渡辺さんは昔からお洒落だから、ショッピングとか」
 自分で言いながらも、これも的を射ていないことはわかる。平日は仕事をしていて、家に帰ると小学生のお子さんがいる。ショッピングで気晴らしをしている余裕など無いことは分かっているのに、もう少し気の利いた言葉は出てこないのか……。
「お洒落か……」
 昔は身なりには気を使っていた。ルージュと同じ色のピアスを着けていた時、あなたは「その色、似合っているよね」って、言ってくれた事があったな。誰も何も言ってくれなかったのに、廊下で私を一目見てそう褒めてくれたわね。
「もう若いときみたいにお洒落は出来ないかな」
「そんな事ないよ。渡辺さんは今でも素敵だから」
 おいおい、俺はなにストレートに言っているんだ。「素敵」なんて言葉をためらいもなく女性に言えるようになったとは、俺もオジサンになった証拠だな。
「ありがとう」
 思えば「素敵」なんて言葉、ショップの店員さんにしか言われたことないかも。若い頃に「素敵」だなんていわれたら、その気になって目がキラキラしてしまうところだけど、私もオバサンになった証拠かな、サラッと受け流せてしまう。それにしても澤田君も気軽に「素敵」ってセリフを言うとは、若い子を口説いているオジサンみたいだぞ。
 もしかして、私を口説こうとしているとか……。まさかね、久しぶりに会った同期を飲みに誘ってくれただけよね。
「澤田君こそ息抜きは出来ているの?」
「俺? そうだな、昔のように没頭できる趣味も無いしね。こうして気兼ねなく話をすることが、何よりの息抜きになるかな」
「いまの職場には親しく話が出来る人はいないの?」
「いるけど、当然ながら同期はいない。やっぱり同期って特別な存在だから。こういう雰囲気で話せる相手はいないよ」
「へー、そう言うもんなんだね」
 転職をした経験が無い私にとっては、同期のありがたさを身に染みて感じる機会はなかった。
「だから今日は渡辺さんと久しぶりに会えて良かったよ」
「そうなんだ……」
 ついつい曖昧な返事になってしまった。「私も会えてよかったよ」と言おうとしたが、何故かためらいがあった。会えて良かった、なんて返事をしたら、違う方向に話が行ってしまいそうな気がしたから……。
「渡辺さん、社内では同期とあまり会わないの?」
「そうね。転職してしまった人も多いし。私も他の皆も管理職になってしまったせいか、なかなか同期で会う時間が取れないかな」
「そうか。今の仕事は大変なのか?」
「んー、大変と言えば、大変かな。若い時みたいに文句を言う立場から文句を言われる立場になっちゃったからね、板挟みになることも多いかも」
「それは辛そうだ……。大丈夫?」
「まあ、何とかね」
 ワイングラスのベースに手を置き、軽くテーブルの中ほどに移動させながらそう呟いた彼女の表情が、疲れているように見えた。楽しいだけで仕事をやっている人なんて、きっとほとんどいないだろう。俺もそうだ。忙しくてプレッシャーに追われる毎日を「充実している」という表現にすり替えて、こなしている。彼女も色々な問題を抱えながら、日々を何とか乗り越えているのだろう。
「俺で良ければ何でも話してよ。せっかく再会できたんだし、これからは何かあれば俺が話し相手になるよ」
 今の職場と何のしがらみもなく、それでいて同期の澤田君が話し相手になってくれたらどんなにいいだろうか。一瞬、そんな事を思った。
 そういえば、昔もこんな感じだったな。突然優しい言葉をかけてくれる。天然の優しさなのか、特別な優しさなのか、いつも惑わされた。
「澤田君、今日はやけに優しいな~」
「そうかな。今日だけじゃなく、昔からずっとそうしていたつもりだけどな」
「えっ? 昔から……」
 澤田君、そう言うことなの……。急に心臓の鼓動が早くなった。しかし、あなたはきっと昔の思い出の中にいて、日常を見失っているだけ。でも私は今の日常を放棄できない。だから困っている。だから、だから、どうしよう……。
「そうそう、うちの主人も、和食の時によく白ワインを飲んでいるのよ」
「……、グルメな旦那さんなんだね……」
 正直、今は旦那さんの話題には興味がわかない、というより旦那さんの話は聞きたくない。どうしてジェラシーのような感情が出てきているのだろうか。彼女の幸せな家庭の話を、微笑ましく思って聞いていればいいのに……。なんてね、自分に嘘をついてもしょうがないか。もういいオジサンなんだから自分の本心ぐらい嫌と言うほど良くわかる。俺には完全に下心があるな。
 若い時に同期で行った焼き肉店で優しく霞んだ眼差を意識した時から、ときどき彼女に意味深な素振りをしてしまっていた。今もその時と同じだ。でもいつも彼女は俺のそんな素振りに気づかず、にこやかに去っていく。
「どうしたの?」
 あっ、ついつい無言になってしまった。しかし、その一言で俺の心を見透かされていると悟った。
「い、いや。ちょっと吉田さんの事を思い出してしまって……」
 主人の話をしたのが、お気に召さなかったのかな?
 あなたも意外と可愛いところがあるのね。そんなことを言うとますます怒らしちゃうかしら。昔「俺は可愛いと言われるのは好きじゃない」って言っていたから。
 あなたは時々、私だけに優しくしてくれることがあった。綺麗な女性を奥さんにした面食いのあなたが私に興味を持つはずが無い、と言い聞かせ、勘違いしそうな自分を笑顔で抑えていたけど、いつも切ない気持ちでいた。
 でも今夜なんとなくわかった。それは私の勘違いじゃなかったって事が。そして今でも私を意識してくれているって事が。なんだか、素直に嬉しい。
 この嬉しさを純粋なままにしておきたいから……、ごめんね、主人の話をしたのよ。
「奥さんはお元気? 確か綺麗な人だったよね」
 妻の話か……。「ここから先は止めておきましょう」と言う彼女のメッセージ。そうだな、同期のままでいよう。
「ああ、元気だよ。いつも子供たちに吠えてるよ」
「あー、酷いこと言うな~。私もいつも吠えてるけど」
「吠えている渡辺さんは、想像つかないな」
「想像つかなくてもいいよ」
 同期で集まった時も彼女とこんな感じで話していた。久々に現実から離れることが出来たような気がする。彼女も楽しそうだ。これでいい。
 本当はまだまだこうして話をしていたいが、最後は自分から未練を断ち切ろう。
「そろそろ帰ろうか?」
 彼女も、安心したような笑みを浮かべた。
「そうね」
 
 店を出た後は口数少なく歩いた。ただでさえ狭い路地なのに、タクシーが頻繁に行き来していて、二人で横に並んで歩くスペースは無い。彼女は静かに俺の後ろを歩いている。時折、香典返しの紙袋が店の立て看板や自転車に当たる音がした。
 改札口で切符を買うと、
「じゃあ、またね」
 昔のように、彼女はそう言った。
「じゃあな」
 また明日会うかのような軽い挨拶をかわし、彼女はホームの階段に向かって歩いて行く。そんな後姿を無意識に見ていると、少し振り返った彼女が優しく霞んだ眼差しで、小さく手を振った。俺も軽く手を振り、反対方向の階段に向かった。彼女はもう一度振り返っているだろうか? いや、きっと振り返らずに階段を上って行ったに違いない。
 もう帰宅時間のピークをとっくに過ぎているからか、ホームに入ってきた電車の車内は人がまばらで、空席もある。ドアが開き、疲れた様子の中年男性が数人下車した後、静かな車内に入り一番端のシートに腰を掛けた。ドアが閉まると離れた所に座っているカップルの話し声が聞こえてきた。なんてことはない、いつも乗っている通勤列車だな。そう思うと現実の時間が再び動きだしたような気がする。
 おもむろに取り出したスマホに、妻からメールが届いていた。
(ご飯はどうするの?)
(同期と少し食べちゃったよ。)
 妻はその同期が女性で、二人きりで飲んでいたなんて思っていないだろう。ましてや俺がその女性に惹かれていたとは……。でも結果的には何事もなく家に帰れる。
 今夜、確かに俺は分岐点にいた。もし彼女が旦那さんの話をしなかったら、妻の話題を出さなかったら、そして少しでも俺を意識する素振りを見せたら、俺は後戻りすることは出来なかった。そして誰も幸せにならない魅惑の道に吸い込まれていったに違いない。
 そんな危険な分岐点を確かに通過した。しかし、ちょっと後悔にも似た溜息を一つ残し、無難に危険な分岐点を通過することが出来た。これも彼女のおかげか。
 こんど彼女に会うのはいつか。冗談抜きで、きっと誰かの葬儀の時だろう……。

 澤田君か……。今夜あなたの気持ちに気付いた時、嬉しかったけど、なんだか怖かった。あなたが本気になってしまうんじゃないかって。あなたが本気になっていたら、私はあなたを突き放すことが出来ただろうか。
 もし十三年前にあなたの気持ちに気付いていたら、きっと溺れていた。あなたの家族の不幸を顧みず、あなたの腕の中に飛び込んでいたかもしれない。
 あーあ、しばらくはこの感情を引きずりそうだな。澤田君の誘いを断って、帰れば良かったな。
 でも何かを期待した私は、断れなかった……。
 やっぱり、しばらく引きずりそうだ。早く子供の顔が見たい。

 駅から家に向かう帰り道、渡辺さんの事を想った。「いつか会ったら、今までの感情を言葉にして伝えてみよう。」それは告白と言うより、思い出話として。何故か心の秘め事として終わらせるのではなく、彼女に惹かれたという事実をハッキリと伝えて残しておきたいと言うような気持ちが、急に湧いてきた。
「よし、そうしよう」
 そうすれば自分の気持ちにも、けりをつけることが出来そうだ。

 スーパーまだやっているかな。明日の朝食のパンを買って行かないと。買い物かごを取り、人気の少ない夜のスーパーの売り場を歩いていると、何色かは分からないが、ぼんやりとした色の視界が徐々に透き通っていく。その色は上手くは例えられなけど、懐かしいころの夢を見た時の、ほんの少し怖い感じのするあまり居心地の良くない色に似ていた。
 ようやく普段の日常が少しずつ戻ってくるのがわかる。自然と気持ちも軽やかになってきた。これがいま私のいるべき日常。
 澤田君、あなたの事が嫌いなわけじゃない。私もあなたに惹かれていた。でも、あなたとはもう会わないほうがいい気がする……。


 今度はいつ、渡辺さんに会えるだろう……。


 素敵と言ってくれて、ありがとう。嬉しかった。

 でも、さようなら……。澤田君……。

      【完】
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