第1話

文字数 1,755文字

 ワンルームのアパートのドアを開けると、漏れ出てきた明りのまぶしさに一瞬顔をしかめる。
「ただいま」
 ぼそぼそっと家の中に向かって言うと、乱雑に靴を脱ぎ捨てて家へと上がる。
 しーんとして人の気配すら感じないが、視線をゆっくりめぐらすと、窓際の隅っこで体操座りで本を黙々と読む少年がひとり。
「ただいま」
 もう一度声をかけると、少年はかろうじて顔だけちらっと俺の方に向けてぺこっと頭を下げ、再び本へと視線を落とす。
「遅くなって悪かったな。今、夕飯の支度するから」
 俺は今、この少年――祐介とふたり暮らしをしている。

***

「うちは無理よ。今受験生抱えているし、もうひとり面倒見られるほど暮らしに余裕だってないもの」
「オレだってこんなお荷物引き取るのは御免だよ」
 ――交通事故だった。
 葬儀後、俺の姉夫婦の忘れ形見の押し付け合いで、親戚連中の言い争う声が離れたこちらまで聞こえてくる。
 シングルマザーだった俺たちの母親も早くに亡くなり、俺にとっての母親代わりだった姉との早すぎる別れを、俺はどうしても現実のこととして受け入れることができず、終始ぼーっとしていた。
 部屋の隅っこで抱えた両膝に顔をうずめる8歳になる甥っ子の姿が、母親を亡くしたときの自分の姿と重なる。
 あのときは十歳離れた姉さんがいてくれたから、俺は路頭に迷わずに済んだ。
 だけど、こいつは……?
 気付いたら俺は、祐介の目の前に膝をついていた。
「――俺んとこ来るか?」
 突然の声にびくっとして、祐介が小さく顔を上げる。俺は、涙に濡れた祐介の瞳をじっと見つめた。
 初めてこんなに間近で見たけれど――姉さん、そっくりだ。

***

「焼きそばでいいか?」
 本を読み耽る祐介の方を振り向きながら声をかける。
 本から顔を上げてこちらを向いた顔が縦に振られる。
 この家に来てから、俺はまだ祐介の声を聞いていない。新しい学校でもだんまりを通しているらしい。
 俺の携帯に担任の先生から毎日のように電話がかかってくるが、子どもなんか育てたことのない俺に、一体どうしろっていうんだ。
「おまえらの方がよっぽど子育てに詳しいんじゃないのかよ」と言い返したくなるが、ぐっと我慢して最後まで話を聞く。
「はい……がんばってみます」
 向こうも、どうしようもないと思いつつかけてきているのであろうことは、俺だってわかってはいる。
 だけど、毎度こんな返答しかできない自分自身がどうにも情けなくて、「親代わりとして失格だ」と先生に烙印を押されたような気持ちにさえなってくる。
 俺なんかが、祐介のこと、ちゃんと幸せにしてやれるのだろうか。
 なんだか疲れたな……。
 無理やり焼きそばを腹の中に収めると、その場にゴロンと横になって、左腕で目元を覆う。
 祐介がまだ焼きそばをすすっている音だけが、室内に響いている。
 ああ、疲れた……。
 もう、どうしたらいいのかわからない。
 姉さん……。なんで死んじゃったんだよ……。
 人の気配が近付いてくる。
 気付いたら、焼きそばをすする音は聞こえなくなっていた。
 じっと俺のことを見下ろす視線を感じる。
 なんだよ。そんな近くで、こんなみじめな俺のことを見下ろすな。
 だんだんと腹立たしくなってきて、飛び起きようとしたそのとき。

 予想外の感触に、一瞬びくっとする。
 俺の頭のてっぺんに置かれた、小さな手。
 その手が、俺の頭をゆっくりとなでた。
 母さんが死んで、塞ぎ込んでいた俺の頭をゆっくりとなでてくれた姉さんの手を思い出す。
 つつーっと、ひと筋の涙がこめかみの方へと流れる。
 姉さんが死んでから、初めて流した涙。
「……泣きたいときは、思いっきり泣けばいいんだって」
 かすれた声が耳元で聞こえる。小さな手が、俺の頭をゆっくりとなで続けている。
「おかーさんが言ってた」
 そっか。俺、今ひとりじゃないんだ。
 それって……それだけで幸せだよな。
 祐介のことを幸せにしてやれるか、だなんて考えていたけど。
 俺の方が祐介からいろいろもらっているじゃないか。
 俺は、腕でぐいっと乱暴に涙を拭うと上半身を起こした。
「なんだよ、祐介。おまえ、ちゃんとしゃべれるじゃないか」
 俺はとびっきりの笑顔で、祐介の頭をがしがしとなでた。
 恥ずかしそうな笑みを浮かべる祐介の中に、姉さんの面影を見た。
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