第六章

文字数 7,442文字

第六章

今日も、富士警察署では、また新たな事件が発生したため、捜査会議が行われていた。今回の事件は、覚醒剤の取引というものであったが、華岡が犯人の顔つきや特徴などを演説していて、いつも通り、朗々と演説していたが、どうもその声に覇気がなかった。

「警視、どうしちゃったんでしょうね。なんか落ち込んでいるみたいですね。」

若い刑事が、こっそり隣にいた老刑事に聞いた。

「うーん、なんだかねえ。一生懸命作ったリヤカーを、親友に酷評されて、落ち込んでいるらしいよ。使い道がないと、馬鹿笑いされて、相当落ち込んだらしい。」

老刑事がそう答えると、若い刑事は、笑いをこらえたくて、一度寝たふりをした。

「はあ。警視らしい話ですね。確かに、リヤカーなんて古いもの作って持っていったら、いくら病気の人であっても、怒りますよ。せめて、ストレッチャーを借りるとか、そういうことをしてあげたほうが、よっぽど喜んでくれたんじゃないですかね。」

「本当だな。」

老刑事も若い刑事も、ぶすっと笑った。

それを黙認して演説を続ける華岡であったが、頭の中では演説をしていても、杉三に言われてしまった、あの一言が頭を回っていた。

製鉄所からの帰り際に、玄関先に置いてあった手作りの寝台車を見て、

「馬鹿だなあお前。桐の板で箱作って、車輪を付けただけじゃないか。これじゃあ、子猫のピッチのイラスト、ちゃんと見てないな。あの寝台車は籐でできていた。でもこれは、桐の板だ。まあ、一言でいえば、棺桶に車輪くっつけたようなだけだぜ。」

と、杉三がでかい声で馬鹿笑いしたので、華岡は大いに落ち込んでしまったのである。



その数日後のことである。

蘭がお客さんを送り出そうと、自宅の玄関先に出たところ、そのお客さんが、屋根を見てこんなことを言った。

「先生、あたしたちの体に一生懸命絵を描いてくれるのはわかるんだけどねえ、自分の家の屋根も少しきれいにしたらどう?ほら、鳥の糞がいっぱいついてて、カッコ悪いよ、あれじゃあ。」

は?と思って、蘭は後ろを振り向くと、確かに玄関屋根が、鳥の糞で白く汚れていた。

「あ、もう、気にしないで。毎年毎年、ムクドリがねぐらとして使っていたようだけどさ。今年になってから、近くの看板屋さんのほうがねぐらにしやすくなったらしくて、一羽もうちに来なくなったわけ。まあ、ピーピー泣かれて、うるさいだろうなと思ってたから、ちょうどいなくなってくれて、良かったとしか思ってなくて、そのまま放置してた。」

蘭は、そんなことをするのを忘れていたとは言えず、そう言い訳をしたが、

「ダメだよ先生。仕事に夢中になって、おうちのこと何も考えないんじゃ。おうちが泣いてるよ。あーあ、汚いなって。」

と、お客さんに言われてしまった。

「あ、すいません。すっかり忘れてた、、、。」

「ほらあ、おうちのことも考えてやって。じゃあ、私、お店に戻るけど、先生も仕事ばっかりしてないでさ、たまには周りのことも目を向けるといいよ。」

にこっと笑って、お客さんは、家を出ていった。とりあえず、今はこうして落ち着いてお店の仕事をしているから、まだいいかと思う。リストカットの常習犯だった彼女に、何とかしてもらえないか、と頼まれて、右腕に花を入れた。まあ、入れ墨というと、やくざの姉さんと勘違いされることもあるかもしれないが、少なくとも、そういわれても彼女は平気らしい。彼女は、現在でも色が薄くなったと言って、よく蘭のもとへやってくるが、傷口よりも花を眺めていたほうが楽しいよ、なんて言って、今は元気に暮らしている。

「確かに、屋根は塗り替えたほうがいいな。これでは確かにカッコ悪い。」

と、一言つぶやいて、蘭は頭をかじった。ちょうどその時。

「おーい蘭。しばらく部屋閉じこもってるとおもったが、久しぶりに出てきたな。今日の相手は、水商売でもしている美人か?」

杉三が、製鉄所からちょうど帰ってきたところで、でかい声でそう言いながら、タクシーを降りてきた。

「水商売なんかしてないよ、彼女は。やたらに偏見つけるもんじゃないよ。ちゃんと、八百屋さんで働かせてもらっている。」

ムキになって蘭は、そういい返したが、

「冗談に決まってるよ。蘭のことだもん、本当に悪い奴には彫らないって、僕、ちゃんと知っているんだからな。」

杉三はからからと笑った。

「はいはい。杉ちゃんらしいね。その言い方は。ま、一部の人しかそういうことは言わないな。」

蘭は大きなため息をついた。

「それよりもさ、ほんとにきったないな、お前の玄関先の屋根。まさしく糞害とはこのことだな。何年掃除しないで放置したんだよ。」

「何年って、勘定してないよ。ムクドリが大量に止まってたけど、今年から、あっちの看板屋さんの屋根のほうがよくなったのかなあ、一羽も来なくなった。」

「だけど、糞を大量に残していったわけだね。」

「まあ、ムクドリが退去したのはいいんだけど、この糞の始末は何とかしなきゃいけないね。じゃあ、近いうちに、電話して、塗り直しにきてもらおうか。」

杉三にまでそういわれてしまったので、蘭は屋根を塗りなおすことを決断した。お客さんにも指摘されてしまったのでは、確かに世間体の問題もある。

「よし、すぐにペンキ屋を呼んで、塗りなおしてもらおうな。どうせなら、評判のいい会社を呼び出さねばならん。最近のペンキ屋は、もう過剰セールスのくせに、塗った色が薄くて、不満続出というペンキ屋ばっかりだからな。インターネットで調べるなんて全く役にたたないよ。」

確かに、塗装会社は悪質なものがとても多いと聞いている。その被害にあって消費者センターまで通うことになった人の話も聞いたことがあった。

「そうだな。じゃあ、やっぱり、昔からある塗装会社にお願いするか。そのほうがやっぱり安心できるよ。」

「善は急げだ、すぐやりな。」

杉三は、スマートフォンを突き出した。

「わかったよ、杉ちゃん。えーと、森塗装会社の番号は、、、。」

蘭は急いでインターネットの画面を開き、森塗装会社と検索した。幸い会社の電話番号はすぐに出た。そこをタップすると、電話がつながるようになっている。便利なシステムができたものだ。

「もしもし、森さん?あ、伊能です。刺青師の。」

意外なことであるが、ペンキ職人さんのような人は、意外に入れ墨に対して抵抗しない人が多いので、そういえてしまうのである。

「あのですね、うちの自宅の屋根ですが、鳥の糞で汚れてしまったので、塗りなおしていただけないでしょうかと思って、電話しました。ええ、お客さんにも、汚いと指摘されてしまいまして、とても恥ずかしいので、できれば早くきていただけないでしょうか。」

「わかりました。できるだけ早くそちらに伺います。えーと、空いている日付をお教えいただけませんかね。」

森塗装会社の社長である、森さんは、この地域では非常に気風のいい人として知られていた。たぶん、電話に出てくれているのは、同一人物である。声の口調から判断してそうだと思うのだが、全然違う人物のような気がする。

「あ、はい。そうですね。明日は今のところ、誰も来ないようですので、ちょっときていただけないでしょうか。」

「はい、わかりました。もちろん雨が降ったら、難しいかもしれませんので、それはすみません、ご了承願えませんか。」

「あ、それは了解です。それはもう仕方ないですから、気にしません。そうなったらまた、連絡しますよ。ええ、よろしくお願いします。じゃあ、お時間は、あ、そうですか。わかりました。じゃあ、お天気次第になってしまいますが、その時間にお願いしますね。はい、よろしくお願いします。」

そういって蘭は電話を切った。

「杉ちゃんありがとう。明日来るって。一時くらいに来るってさ。まあ、これだけ汚かったら、確かにお客さんにも申し訳ないから、すぐに塗ってもらおう。」

「ほんとだよ。もう、恥ずかしいよ。こんなおんぼろの屋根じゃ。」

「しかし、森さんどうしたんだろう。酒でも飲んで二日酔いでもしたのかな。いつも電話すると、すごい大きい声で応答するんだけどな。」

蘭は、ちょっとした疑問を投げかけた。

「え?真昼間から酒なんか飲むかな?酒は、夜になって、仕事が終わってから飲むもんじゃないの?」

杉三が、そう反論すると、

「まあ、僕の勘違いかな?」

と、蘭は、わざとけろりとした顔をするが、

「何かあったかもしれないよ。」

と、杉三は言いだした。

「杉ちゃん、そうやってすぐに他人の話に首を突っ込むのはやめようね。」

蘭は注意したが、杉三がそう言いだすと、止まらなくなるのは知っているので、また面倒な騒動が勃発するぞ!と、いやな予感がしてぞっと寒気がする。

それを無視して、のんきに口笛を吹いている杉三なのであった。



一方、製鉄所では。

恵子さんが、せき込んでいる水穂に、食事を出そうと試みたが、咳のせいで食べるのがなかなか難しいので、難渋していたところである。

「昨日までよかったのに、どうしたの、今日は。最近そういうことばっかりね。よくなったかなと思ったら、翌日はもうこれでしょうが。もう困るでしょう。何とかして、良くなろうとか、そういうこと考えてよ。よくなったら、長続きするように努力して。」

そういいつつ、恵子さんは、彼の背をさすってやったりして、放置しないところは、良かったようなものである。もし、忍耐力の弱い人であれば、怒って部屋を出て行ってしまうことだって十分ありえた。

しばらく背をさすってやると、咳の数は少し減少して、落ち着いてきたようである。

「もうさ、おばさん対応しきれないから、餅は餅屋で、お願いしてもいいかな。だって、何を出しても、こうなったら、何も食べなくなっちゃうでしょ。こないだ、曾我さんに持ってきてもらったパンフレットの会社に電話していい?」

恵子さんは、しびれを切らして、思わず言ってしまったが、口に出した後で、とんでもないことを言ってしまったような、罪悪感に見舞われる。

「すみません。もう、仕方ないですから、そうしてください。」

「ごめんね。おばさん、ひどいこと言っちゃったわ。そこと契約すれば、おばさんもう、ご飯を作ってあげることはできなくなっちゃうわよね。それもなんだか、悲しいわね。」

専門の介護業者を呼ぶのは、周りの人には、うれしいのかもしれない。大体の介護業者はそこを売りにする。そして、それに便乗して、家族はそれをうれしいと思ってしまい、どんどん楽をしたくなって、余計に業者に押し付けることになり、それで業者側が一方的に負担が増え、その挙句に殺人、ということもなくはない。

でも、恵子さんは、そういう気持ちがわいたことはないし、相手に対して、変にねたむということもしなかった。というより、しなかったつもりだった。でも、ああして、言ってしまったのは、もう、自分の中で悪い虫が立ち上がったのかもしれない。それでは、ダメだと思っていたし、絶対やってはいけないと思い続けていたことを、自分がやり始めた、と気が付かされると、なんだかそれまで持っていた優越感が一気に崩れ去っていく気がする。

再びせき込みだした水穂が、恵子さんの表情をじっと見ていたことにも気が付かなかった。

「仕方ありませんよ。恵子さんも、おつらいでしょうから、使えるものは何でも使って下さい。」

「ごめん!今の発言はなかったことにして!あたしが馬鹿だったから、口が滑って思わず言っただけのことにして!そうじゃないと、あたし、このまま怠け者になっちゃう!」

せき込みながら、静かに頷いた。

「もし、また同じ発言したら、怠けるなと怒鳴って頂戴。それでいいから。そのためにも食べて!」

と、恵子さんからご飯の入った匙がぐっと突き出されるが、口には入れられたものの、うまく咀嚼することができず、結局せき込んで吐き出してしまうのだった。

「ダメね。調子が悪いと、こうして何を食べさせても、出てきちゃうんだから。いい時は、喜んで食べてくれるのにね。」

そうなると、簡単に口に入って、しかも栄養価のある、介護弁当に頼りたくなる。あの封筒には、弁当会社「ポカホンタス」の連絡先が入っている。そこに電話して契約すれば、いつでも介護弁当を届けてくれるが、恵子さんは罪悪感のせいで、それはしたくなかった。

「わかった。じゃあ、もうちょっと、食べやすいもの作ってくるから、ここで待ってて。契約しようなんて、絶対に言わないでよ。そうしたら、あたしの役目が全部盗られちゃって、あたしは、お役御免になっちゃうんだからね!」

ムキになってそういうが、実際にはもう料理が思いつかないので、困っていたのであった。



そのころ、応接室では、一人の少年と彼の母親が来訪していて、懍と何か話していた。ブッチャーがお茶を出したり、お菓子を出したりして、接客していた。

「そうですか。確かにお母様のご苦労は認めますが、ちょっとうちでは難しいかもしれませんね。まあ確かに、鬱や発達障害の方はここをよく利用していましたが、はっきりと統合失調症となりますと、ほかの方への理解も難しいでしょうしね。」

懍が、考え込みながらそういうと、母親はすぐにがっかりしたようであった。

「そうですか。やっぱり、お宅でも難しいですか。」

「先生、でも、お母様はかなり苦労されているようですし、俺もいまちょうど暇ですから、頻繁にこっちへ通えますので、預かってやりましょうよ。」

ブッチャーは懍にそう口を挟んだ。

「そうですが、他人に危害を与えたわけでもないですし、症状があっても、心の病気と言いますものは、その前後にはっきりとした事件が起きることが多いですから、急変することは先ずありません。基本的に日常生活が維持できれば大丈夫です。」

確かにこれは、体の病気とはまた違う傾向だった。心の症状というものは、その前後に何か大きな事件があって、そこに起因して現れることが多い。ブッチャーも姉の看病でそれは知っていた。そこさえつかめれば、患者はくるくるとうそのようによくなることが多い。ただ、そこにたどり着くのに、非常に時間がかかるのが問題点であるが。

「まあ、確かに、突き放したほうが、回復が早まるという患者さんは多くおられます。でもですね、彼の場合、家族からはなしてしまうと、よけいに捨てられたという絶望感に見舞われてしまうと思うので、今は切り離すべきではないと思うんですね。たぶんきっと彼は、家族が離れ離れになるのが嫌で、そのような症状を出しているのではないかと思うのです。」

「どうしてそのようなことがお分かりになるのですか、先生は。」

ふてぶてしく言う母に、懍はこう解説した。

「ええ、すぐにわかりましたよ。お二人が自己紹介されたときに、お母様は諸星と現姓を述べられましたが、彼は、森と旧姓を述べられました。それはきっと、お父様を忘れたくない、つまり家族が離れ離れになりたくないのだと思います。」

「だから言ったじゃありませんか。もう離婚して、半年近くたっているんですよ。それなのに、まだ自分の名前は森淳だと言い張って。これは、お医者様に見せたら、妄想のせいで、自分が誰なのかわからなくなっているとはっきり証明されています。それが何だというのですか。」

「症状とは言えないのではないですか?俺の姉ちゃんの口にした妄想とは、ちょっと違うのではないかな?」

少年を見つめながら、ブッチャーはそっとつぶやいた。

「それにですね。彼は、まだ13才であり、ここで住み込みとなりますと、年齢が若すぎるということになります。」

確かに、そうなるとまだ中学校すら卒業しておらず、親の保護がまだまだ必要な年齢である。同時に下手に手を出せば、そちらのほうが訴えられる可能性がある年齢でもあった。

「そんなことは言わないで、どうか預かっていただけないでしょうか。」

再度訴える母親に、

「無理です。今預かってしまっては、彼は余計に口減らしにあったのではないかと思ってしまい、さらに荒れると思います。」

懍はピシャンと言い返した。

「お母さん、いろいろプランはあったかと思いますが、少し我慢してくれませんかね。彼は、ただのモノではありませんよ。わかっていただけないでしょうか。」

ブッチャーは、同じ精神障害のあるものの家族として、母の気持ちもわからないわけではないのだが、あえて、反対の事を言った。

「それならですね。どうしてもというのなら、午前中だけこちらでお預かりしましょうか。明日から、こちらへ来ていただいて、お昼前には迎えに来ていただけますか。ご自宅で仕事をしているのなら、多少、予定を調整することもできるでしょう。」

少年の母は、フリーランスのライターだった。毎日自宅のパソコンに向かって、仕事をしていることが多い。

「わかりました。」

母はがっかりしたように言った。

「じゃあ、明日から宜しくお願いいたします。」

とりあえず、二人が立ち上がり、玄関から出ていく様子を見届けた。又、新しい展開が始まりそうだなと思った。

「須藤さん、すぐに精神科の岸病院に行っていただきまして、明日彼の診察をお願いしたいと申しつけていただけますでしょうか?」

と、懍はブッチャーに行った。ちなみに岸病院と言えば、富士市内でもよく知られている精神科であった。

「はい。でも先生。本当にいいのですか?彼を診察なんて、必要ないのではないかと思うのですが?」

心配になってブッチャーがそういうと、

「ええ、多分ちょっと憂鬱になっているだけだと思いますよ。本当に精神疾患にかかるという人はまれで、周りの人や、薬物がそうされているだけという人が圧倒的に多いです。本当は、そんなものに頼らなくても、家族関係を何とかすれば解決できる人のほうが、ほとんどですよ。その確認をするだけの事です。」

懍は笑顔であっさりと肯定した。

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