第九章

文字数 7,610文字

第九章

「吸い飲みが戻ってきて、よかったですね。鑑識のひとたちに、華岡さんが厳重注意なんて言ってくれたから、まったく割れないで戻ってきてくれました。あーあ、良かったよかった。」

ブッチャーは、いつも通りに薬を飲んでくれた水穂に、大きなため息をついた。

「やっぱり、こっちのほうが楽ですよねえ。使い慣れているほうが、やっぱり使いやすいですね。飲んだあと、せき込むこともないし。よかったですよ。」

「ま、それでも、凶器である毒の成分がはっきり分かったのはよかったな。問題はその毒をいまだに処方している病院があるってことと、それを信じ込んでしまう患者がいることと、殺せるって情報が、蔓延っていることだなあ。まったく、日本というのは、役に立たない薬が、へーきで販売されている、おかしな国だねえ。」

「杉ちゃん、本人の前で、そういうことは言わないでやってくれ。いくら何でも被害者の前で、凶器の話なんかしないだろ、自分が殺されそうになった道具の話なんかされて、いい気持ちすると思う?」

ブッチャーは、杉三に注意したが、注意が届いているかは不詳。つまり無視である。

「無視か。」

またブッチャーはため息をつく。

「おはようございます。」

ふすまが開いて、赤城医師がやってきた。

「あ、どうも。坊ちゃん。おかげさまで凶器である毒物が特定されだぞ。あー全く、ひどいもんだねえ、日本の病院ってのは。心の病気の人が、眠るためにのむ薬として出されているそうだが、こんなに重大な作用をするんならさあ、何の役にも立たないんじゃないのか?これ、処方して、なんかいいことあるのかな?もう、しっかり考え直してもらえんだろうか。」

「そうですねえ。精神科の専門医でないと、判断はできませんよ。医者は医者でも、それぞれ専門分野っていうものがありますから。」

「いいわけすんな。ピンサロが警察の取り締まりから逃れるときに、工事中というそうだが、それと大して変わらないほど、レベルの低い言い訳だ。そんな馬鹿ないいわけ、通じるなんて思うなよ!」

「杉ちゃん、もうやめろ。こんなところで、ピンサロの話なんかしても、しょうがないでしょうが。」

ブッチャーは、我慢できなくなって、杉三に言った。それを水穂がじっと、せき込まずに見つめていた。

「今日は、せき込まなくなりましたね。じゃあ、ちょっと新しいことをやってみましょうか。」

「なんだ、また新しい薬でも入れるのか?それだったらお断り。薬なんて、もうこりごりだ。これ以上弱らせちゃ、勘弁しないぞ。」

また揚げ足をとる杉三である。

「そうじゃありませんよ。水穂さん。今日は座る練習です。いつまでも布団に寝ていては、余計に体が弱ります。高齢者に至っては、それが床ずれの原因になることもあります。」

「だから、高齢者でもないの!」

「わかっていますよ。そうならないように練習をするんですよ。とりあえず、五分間、布団に座ってみることから始めてみましょうね。ブッチャーさん、頭を強打するといけないので、ちょっと肩に手をかけてやってくれませんかね。」

「こうですか?」

赤城医師がそう指示をしたため、ブッチャーは、水穂の骨っぽい肩に両手をかけた。

「そうですそうです。じゃあ、起きてみてください。そうしたら、タイマーで五分測りますから、頑張って五分間は座っているようにしてください。」

「わ、わかりました。」

水穂は、そういって、起きてみようと試みたが、40キロにも満たないと言われていた、自分の体を持ち上げるだけなのに、それは分銅を持ち上げるような作業だった。

「あ、ああ、もう。大丈夫ですか。もう、途中で倒れこむのだけはやめてくださいよ。」

頷いてなんとか布団に座るまで成功したが、自分の体はこんなに重たいものだっただろうか?と思ってしまうほど大変な作業だった。そのまま赤城医師が、スマートフォンのタイマー機能を立ち上げて、五分間測定を開始したが、冗談じゃない!こんなつらい五分なんてありえない!と言いたいほどつらい作業だった。ブッチャーが、支えていてくれなかったら、すぐに倒れこんでしまいそうなくらいだった。

「もう、我慢しろ、我慢!久しぶりに起きて、つらいのかもしれないけど、頑張って耐えろ!」

杉三の半ば脅迫に近い励ましで、何とか五分間座っていることには成功した。タイマーが五分たったことを知らせるアラームを鳴らしてくれると、それは天の鐘のような音のように見えた。

「はい、いいですよ。横になってください。」

本当は、力尽きて直ちに倒れそうだったが、ブッチャーが、彼の肩をつかんで、静かに布団で寝かせてくれた。

「終了終了。よくできました!せき込まなかったら、百点満点。試験合格。よかったねえ。」

「点数嫌いの杉ちゃんがそんなこと言うとは。」

咳の代わりに、そういう言葉がでた。すると、赤城医師がにっこり笑って、

「いい傾向じゃありませんか。起きても、せき込まないでいられるようになりましたね。じゃあ、取り合えず、五分はクリアしたことにしましょう。次は十分で試してみましょうね。これを積み重ねて、できるだけ、長く起きていられるようにしましょうね。」

と、記録ノートに書き込みながら、そんなことを言った。

「慎重にやりますよ。五分単位で、少しづつ延長していきましょうね。いきなり長時間試したら、また悪化してしまう可能性もありますからね。」

「ははあ。そうなると、坊ちゃんも信頼できるなあ、いきなり次は30分とか、無茶なこと言わないもんな。あんまりにも結果を急ぎすぎて、いきなり時間を延長して、それ故にころり、なんてことはやめてくれよ。」

「はいはい、杉ちゃん。そのようなことはしませんよ。患者さんに負担をかけてしまったら、こちらも悲しいですからね。じゃあ、水穂さん、次は十分で試してみましょうね。そして、それが成功したら、十五分、二十分とやっていきますよ。そうやって、少しづつ自信をつけていきましょう。」

「はい。本当は、一分単位のほうがよかったかもしれません。起きている間、体が重くてもうどうしようもなかったです。」

「弱音を吐くな!つらさに耐えられたらよかったと、自分をほめてやることも、自信をつける足がかりになるんだよ。」

「はあ、、、。相当弱っちゃってましたねえ。この前体重を計ったら、33キロしかなかったじゃありませんか。33キロと言ったら、米一袋とちょっとくらいの重さですよ。それすら、持ち上げられないなんて、、、。あーあ、ひどいもんだなあ。」

ブッチャーは、そこがちょっと悲しかったため、思わず口にしてしまった。

「まあ、それは仕方ありません。しかし、その体重が示す通り、ほとんど食事をしていないから、体力が全くなくなってしまうのですね。いくら、小柄な男性といっても、40キロ後半から、50キロ程度はないと。そのためにも、しっかり食事はとってくださいよ。」

「あーあ、いいですね。俺は、痩せたくても痩せなくて困っているというのに、水穂さんはその逆ですかあ。逆ダイエットというわけですね。テレビでは散々ダイエットについての番組が放送されているのに、逆の番組はまったくありませんよ!」

ブッチャーは、ちょっとうらやましそうに言った。

「逆ダイエットなんて、医者でなければ伝授しないよ。逆ダイエット講座が流行ったら、みんな餓死寸前ということになるわ。」

杉三がそういったので、皆苦笑いした。

「まあ、とにかくな、こういう風に、体が重くてどうしようもないなんて、ひどいもんだぜ。危ない毒物がそうさせたんだろうけど、こんなつらい思いもするし、こうして人に迷惑だってかけるんだから、もう、殺人者に向かって、いいよなんて言うもんじゃないよ!」

「杉ちゃん、そんなやくざの親分みたいな言い方はしないでよ。かわいそうじゃないか。」

「いいよ杉ちゃん。そういう言い方をしてくれたほうが、かえって頭に入って、怠け心が出なくなるから。」

せき込まずに水穂がそういったのが、なんともありがたかった。

「そのやくざの親分みたいな言い方が、杉ちゃんだからね。」

「本当に、せき込まなくなりましたね。少し、快方に向かってきたのかもしれない。まあ、まだまだ油断大敵ではありますけど、少し希望が見えたかもしれません。」

また赤城医師が、ノートに記入を始めた。ノートには、訳の分からない文字が、びっしり記入されている。医者は字が下手な人が多いというが、赤城医師は特に下手だった。それでも、

一生懸命患者さんのことを考えているのは、理解できた。

「しっかり、記録までしているんだな。僕、なんて書いてあるのか読めないけどさ。」

「ええ。最近はパソコンで済ませる人が多いですが、どうも苦手なんですよ。だから、担当の患者さん一人につき、こうしてノートを一冊用意しておくようにしているんです。すぐにノートが切れる患者さんもいますし、何十冊も必要になる人もいる。でも、どんな人であっても、必ず何か残していってくれるんですよ。だから捨てないで保管してあります。もう、家にはノートがたまりすぎて、しまう場所がなくなってしまいました。」

「へえ。なんか書生みたいだねえ。でもさ、それっていいよね。なんか初心を忘れないっていうかさ。それに、パソコンでやるって好きじゃないよ。すぐつけたり消したりできるから、いやになったら消しちゃうだろ。でも、ノートはそうじゃなくて、よほどのことがない限り、保管されたままだからな。もちろん、思い出すと嫌なこともあるだろ。でも、逆にすごい刺激を与えることもできるんだぜ。すごいじゃん。だから、紙の本やノートは、なくなってほしくないんだ。」

杉三が赤城医師をほめたのは、これが初めてだった。

「ええ。それが父には、馬鹿にされているようで、お前、いい加減にそんな古臭いやり方はやめろ、なんて叱られているんですよ。」

「へえ。変な父ちゃんだね。なんか、父ちゃんと毎日そんなことで喧嘩してるの?」

杉三がそう聞くと、赤城医師は、恥ずかしそうに頷いた。

「もともと、父のやり方は好きじゃなかったんです。確かに病院を効率よく経営していく、というのは理解できますが、検査の能率を上げるからと言って、最新の機械を導入して、代わりに人出を減らしたりとか、患者さんを早く治してやっているんじゃないかとか言って、かえって危ないと言われている薬を出させたり。どうも、そういうやり方って、いいのかなって気がするんです。本当に、それって役に立っているんでしょうかね。どうも、患者さんのことではなく、別のほうに行ってしまったんじゃないかって、不安でたまらないといいますか。だから、父もそれを見込んで、妹を院長にして、僕は平医者のままなんでしょうね。」

「そうですか。それはかえって良かったのではないでしょうか。患者さんにとっては、変な機械に頼ることよりも、看護師とか、検査技師に声をかけてもらうとか、そっちのほうに安心するもんですからねえ。」

ブッチャーは、よくわかるというように言った。

「まあ、機械はね、確実に検査はしてくれますが、俺も、なんか物足りないと思います。俺、子供のころは、医療機械ってすごいなと思ってましたけど、俺の姉ちゃんが病気になってからは、あまりあてにならないと思うようになりました。だって、そんな道具を使っても、姉ちゃんの病気の原因となるものは見つけられなかったからです。姉ちゃんが、こんなにつらい症状を口にしても、みんな画像に出ないから、何も悪いところはないって、異口同音に言ったんですけど、俺の姉ちゃん、ちっとも改善されることはなくて、しまいには姉ちゃんのほうが、ちっとも治してくれないなんて、信頼できるもんか!なんて怒鳴りだす始末。だから俺、機械なんか役に立たないな、なんてがっかりしました。それよりも、看護師さんが声をかけてくれたりとか、そうしたほうが、よっぽどいいじゃないかっていう場面を、俺、たくさん目撃しましたからね。だから、機械は確かに能率こそいいですけど、やっぱり、必要なものは、人間なんですよ。」

「ブッチャー、いいこと言うじゃん。お前だって、大事なことに気が付いてるんだから、もっとでかい声でそう訴えてもいいんだぜ!」

杉三がブッチャーの肩をバシッとたたいた。

「そうですね。精神関係でよくそういうことは指摘されるんですが、ほかの診療科でも同じだと思います。だけど、なかなかそういうことは気が付いてもらえないんですよね。きっと、どこでも効率第一になってしまうとは思いますが、どうも苦手だなあと。」

「へええ。そんな大事なことちゃんと知ってるってことは、ほかの馬鹿医者よりも、よっぽど偉いということになるんだけどねえ。本当は、そういう方針の病院、一つか二つ、ほしいよ。患者さんにとっては、不安でしょうがないんだよ。まあ、もちろん、あんたらにとっては何にもない商売道具でしょうけど、患者さんにとっては、得体のしれない物体だぜ。それと、武器なして戦争しなきゃなんないよ。だから、それを取ってくれる薬だなんだって必要だと思うけど、武器調達人が冷たかったら、確かに戦争する意欲はなくなるよ。だから、その関係をしっかりしてやらなくちゃ。それをしている人が、なんでないがしろにされなきゃいけないんだ!」

「確かに、僕もそれは言えていると思います。まあこういう身分ですから、」

「水穂さん、それは言うな!それは!」

言いかけると杉三が怒鳴りつけた。これに、赤城医師が気付いたかは不明だが、それ以上、水穂が発言をすることはなかった。



そのころ、応接室では。

「はい、望みがかないましたよ。ちょうど、蘭さんの家の屋根を塗る仕事を依頼されていたそうで、すぐに来てくれました。」

懍は、森さんを連れて、入ってきた。ちょうど、母親と、少年も応接室にいた。

「まあ、理由はただひとつ。お二人の顔が見たかったのだそうです。」

「それであんた、ああいう重大な事件まで起こしたの!」

母親が、そうしかりつけた。

「頭ごなしに叱ってはいけません。確かに、彼のした事件は刑事事件になるかもしれませんが、被害者は死亡したわけではないですし、年齢が若すぎますので、一般的な刑事事件とは処罰の仕方がまた変わってきます。それに、こうでもしなければ、お二人が集まることは二度とない、という淳君の予想も間違いではありませんからね。」

懍は、とりあえず、森さんに椅子にすわってもらうように促す。

「な、なんでまた。今更、来て何をするの。どうせ、一緒に暮らしたって、なんのメリットも何もないじゃないの。ペンキ屋なんて、たいした収入にもならないし、いい学校だって、行かせてあげることもできないし、あんたがいることで、この子が、幸せな人生を送ることを妨げているんじゃないの!」

「そうですかね。お母さん。少なくとも、蘭さんの家の屋根を、きれいに塗りなおしてくれたじゃありませんか。蘭さんに聞きましたよ。長年ムクドリが屋根を荒らして、汚い限りだったのを、何もなかったかのようにしてくれたそうですね。それは、お父さんでなければできません。昔ながらのペンキ屋さんは、やっぱり信頼できるって、蘭さんは喜んでいました。」

懍は興奮した母をそうなだめたが、

「先生、それがいじめの原因になってるのを、私、何回も話したと思いますけどね。貧乏とか、古臭いとか、そういうことばっかり言われて、そこから逃がしてやることも親の役目ではないでしょうか!」

と彼女は言い張るのだった。

「まあ、それも一つの手ですね。でも、今回は違うと思います。確かに経済的なことで、いじめを受けるというケースは少なくないのは知ってますよ。でも、今回は、そこも大事ですが、もっと別のものを持って行ったような気がしますね。それを、どうしても手放したくなかったんですよ。淳君は。」

「先生、なんですか。あたしは、これでも一生懸命やってきたつもりなんですよ。父親がこんなつまらない仕事をしているのが原因だと言われて、じゃあ、何とかしなければと思ったからでしょ!どっちにしろ、こんなつまらない仕事、すぐに不要になるにきまってます。今は、もっともっと、効率よくお金儲けのできる塗装会社だってたくさんあるじゃありませんか。それなのに、昔ながらのやり方が一番だなんて、こだわり続けるから、いつまでたっても馬鹿にされ続けて、一向に解決しないでしょ。それを願ってしたことなのに、なんで私が間違っているといわれなきゃならないんです!」

「お母さんのそれは、理解できますよ。それはお母さんのとる行動として、ある意味そうですね。ただ、どうしてもできないこともあります。今ここでやってみていただきましょうね。」

懍はきりりと森さんのほうを見て、

「森さん、叱ってやってください。叩いても何をしてもかまいません。もし、暴力沙汰と勘違いされましたら、僕が責任を取ります!」

といった。森さんも決断が決まったらしく、

「馬鹿野郎!人にはな、やっていいことと悪いことというものがある。たとえ相手が、生きたくないというのなら、力づくで止めてやるのが、人間というもんなんだ。もし、その人が、つらい思いをしてるんだったらな、俺たちもいる、大丈夫、だから、こっちに目を向けてくれって、寄り添ってやるべきだったんだよ!いくらいいよといったってな、本当に殺してしまうことは絶対にいかんぞ!」

と、天地が割れるように怒鳴りつけた。

「これこそ、究極の望みだったんじゃないですか。お父さんだけにしかできない特権でもありますよ。いくらつらくても、石塀のように突っ立っていて、いざというとき、ガーンと一発お見舞いしてくれる。そういうもんですよ。それを取られてしまうから、淳君は離婚してほしくなかったんです。たぶんきっと、周りの人にいくら馬鹿にされたとしても、それに右往左往しないで、一生懸命家を塗りなおしている、お父さんのことをかっこいいと思っていたんでしょう。今時、そういう大人なんて、稀少ですから。一つのあこがれになっていたのでしょうね。それを、お母さんに持っていかれてしまいそうになっている。これほど寂しいことはないのではないでしょうか。」

二人の大人たちは、敗北をはっきり認めざるを得なくなって、一人は肩を震わせて泣き、もう一人は床に突っ伏して泣いていたのであった。
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