第1話 一話完結

文字数 1,997文字

「オンボロだとは聞いていたが、これ程だとはな」
 裏長屋の木戸の前に立った太助は、思わずつぶやいた。
 太助は、昔世話になったお竹婆さんがこの長屋に引っ越したと聞き、手土産を持って訪れたのだが、ここまで酷い長屋だとは思ってもみなかった。夫に先立たれ、独り身になったお竹は、生活に困ってこんな所に流れ着いたのだろう。
 太助は木戸に掛かる名札でお竹の家を確認し、お竹の家の方を見た。そこには岡っ引きの辰三が立っていた。
 岡っ引きなんていうものは、お上の威光を笠に着て強請たかりをするものだが、辰三は度が過ぎていた。やってもいない罪で脅して金を巻き上げ、盗品の疑いがあると言って品物を取り上げるなんてことはしょっちゅうだった。飲み食いしても金を払わないばかりか、土産に大量の折詰を要求して持ち帰る始末だ。辰三は町の者から蛇蝎のごとく嫌われ、「悪鬼」と呼ばれていた。
 辰三は「お竹婆さん、入るぜ」と声を掛け、家の中へ入って行った。
(辰三の野郎、お竹婆さんまで強請るつもりか!)
 憤った太助は、お竹の家の戸を勢いよく開けようとしたが、中の様子がおかしい。戸の隙間から覗いて中の様子をうかがった。
「体が悪いんだ。横になってな」
 辰三が座敷に腰掛け、起き上がろうとしていたお竹を制していた。しかし、お竹は無理を押して正座する。
 辰三は懐から紙包みを取り出して、お竹の前に置いた。
「朝鮮人参だ。これを煎じて飲めば、良くなる筈だ」
「こんな高価な薬……」
「遠慮するねえ。黙って受け取りゃいいんだ」
 辰三は朝鮮人参をお竹に押し付けた。
「昨日は折詰を五つも持って来てくれたんだってね。あたしもおすそ分けをいただいたよ。美味しかったよ」
 お竹は深く頭を下げた。
「いいてことよ。こんなことで頭を下げられちゃ、弱っちまうぜ。頭を上げてくんな」
 顔を上げたお竹は、辰三の顔を見つめた。
「あたしは大家に訊いたんだよ。こんなボロ家でも、店賃が一文だなんて安過ぎるだろう。大家が『長屋の店賃は辰三親分からまとめて貰ってる。だから、店子から店賃を貰う筋ではないんだが、辰三親分が店子に引け目を感じさせたらいけないと言うものだから、一文だけ貰うようにしてる』って言ってたよ。どうして見ず知らずのあたしらに、こんなに親切にしてくれるんだい?」
「そんなこと、どうでもいいだろうよ」
 辰三はぶっきら棒に答えたが、お竹は引き下がらない。長い沈黙の後、辰三は意を決したように口を開いた。
「行き場のねえ貧乏人だからよ。この長屋に流れてくる(もん)は、生きてゆくにもままならならねえ(もん)ばかりだ。誰かが助けてやらねえとならねえ。だけどよ、世間は冷てえもんだ。銭がなけりゃ、誰も相手にしやがらねえ。お上も何もしやしねえ。好きで貧乏人になった奴なんかいねんだ。真面目に働いていても、病気になって働けなけりゃ、途端に暮らしに困っちまう。貧乏人だからって、死んでいいなんてことはねえんだ。だからよ、誰も手を差し伸べねえんだったら、俺がやるしかねえじゃねえか」
「噂で、辰三親分が町人から金を巻き上げてると聞いたよ。あたしら店子のためにやってるんだろう。それなのに、辰三親分が町の皆に恨まれるのは辛いよ」
 お竹の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「気にすることはねえ。俺は独り者だ。家族が仕返しされる心配もねえんだ。恨まれたって、これがあれば大丈夫だ」
 辰三は腰から十手を抜いてみせた。
「でも……」
「金は天下の回りものって言うじゃねえか。俺は金を持ってる奴から少しばかりいただいて、世間に回してやってるのよ」
 辰三は笑いながら十手を腰に戻し、立ち上がった。
「余計なことを言っちまった。そろそろ帰るとすらあ」
「あたしらにとって、辰三親分は仏様だよ」
 お竹は辰三に向かって手を合わせた。
「よせやい。そんな上等なもんじゃないぜ。それじゃあな」
 辰三が出て来そうになったので、太助は慌てて戸口から離れた。走り出した太助の顔も涙で濡れていた。
 太助は裏路地に出て、物陰に身を隠した。長屋の木戸から出てきた辰三は、太助に気付かず、裏路地を歩き、角を曲がって行った。
 その時、「ウワッ」という短い悲鳴がした。辰三の声だった。
 太助が悲鳴がした方に急いで行くと、布で顔を隠した町人風の男が立っていた。手には血の付いた合口を持っている。足元には、辰三がうつ伏せで倒れていた。
「辰三、思い知ったか!」
 男は興奮した声で叫び、走り去った。
 太助は倒れている辰三に駆け寄る。辰三の背中が大きく斬られ、血が流れていた。
「辰三親分! しっかりしてくだせえ」
 太助が抱き起すと、辰三の目がゆっくり開いた。
「太助じゃねえか。お(めえ)が隠れて博打を打ってるのを知ってるぜ。しょっ引かれたくなかったら……」
 辰三は銭を出せというように手のひらを太助の目の前に出した。だが、その手は直ぐにだらりと垂れ下がった。

<終わり>
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