第1話

文字数 4,579文字

 城戸さんから「一杯飲まねぇか。つきあってくれ」と初めて言われたのは、年があらたまってからすぐのことだった。雪がちらつく夜に、作業服の背中を二人とも丸めてガード下の居酒屋へと向かった。工業高校を卒業したあと「吉本設計」という住宅施工会社に社員大工として入ったおれに、この三年弱仕事をたたきこんでくれた恩人が城戸さんなのだ。そんな人からの突然の誘いなので、ついていかないわけにはいかなかった。

 店に入ると、女将から奥の小上がり席に案内され、低いテーブルをはさんで差し向かいにどっかりと座り込んだ。すっかり体が冷えていたおれは「あったかいの、飲みますか」と熱燗のメニューを指さしたが、城戸さんは「おれは、ビールにするわ」とごましお頭の下の太い眉を機嫌よさげに開いた。おれもしたがったほうがいいかと思い、中瓶を二本頼んだ。

 たこの唐揚げやチーズポテト、御造り三種盛りなどを適当に頼んで、運ばれてきたビールで乾杯した。おれたちの席からも見える高い棚に、テレビがしつらえられていて成人式のニュースをやっていた。「お」と城戸さんがあわてたようにつぶやき「倉永、お前未成年じゃなかったよな?」と確認してきた。「大丈夫っすよ。いま二十一歳っすから」と答えた。おれにとって酒は高校時代から隠れて飲むものだったが、それは口には出さなかった。

 飲んで食べ、二人ともできあがってきたころに、城戸さんがふと聞いて来た。

「倉永は親父さんとも、飲んだりするのか?」

 おれは「ええ、まあ」とゆず大根の切れ端を口に運んだ。

「去年、ちょっと病気が見つかって医者に酒を控えろって言われたみたいで、うちの親父。それまではわりとときどき実家帰って飲んでましたね」

 おれは、何気なくそう答えた。ときにぶつかることも多いが、基本的には放任主義の親父は、会社を退職してから友人とパットゴルフばかりしている。城戸さんが、少し赤くなった顔でさらに聞いてくる。

「倉永は、成人式に去年出たのか?」

 おれは、いいえ、と言った。どうもそういうかしこまった場が苦手だし、紋付袴なんて似合いもしないだろうし、行ったところで、おれを知っていてなおかつ式の場を荒らしてやろうと算段を立てているかもしれないヤンキーたちにからまれるのが面倒だったということをかいつまんで説明したら、城戸さんはカラカラと笑った。

「おもしれえな、倉永は。どうせだったら、式の外で喧嘩のひとつもしてくりゃよかったのに。若者は元気なのがいいんじゃねえか」

 いやですよ、とつぶやいて、たこの唐揚げを噛んだ。少し焦げた味がする。城戸さんは、おれのことばかり聞いて、自分のことは話さない。何か話題をつくって場を持たせねば、と思っておれはビールを城戸さんのグラスに注ぐ。

「城戸さんって、ご家族いるんでしたっけ」

 聞いてから不躾だったかなと思ったが、酒の場だしほかに話題もないので仕方ない。城戸さんが毎日、そっけない日の丸弁当を持ってきているのは知っていて、自分で飯を炊き梅干しをつめているのかなと予想していたが、踏み込んで聞いたのは初めてだった。

「いないけど、いる。いるけど、いない。そんな感じだな」
「なんですか、それ」

 わけがわからなかった。聞いた表紙にひくっとしゃっくりが出てしまった。城戸さんはぐいとビールを飲み、テーブルにグラスを置いた。黄金色の液体がちゃぷんと揺れる。

「家族は遠くにいて、おれは一人暮らしだ。なんつーのかな、つまりはトンビが鷹を産んじまったんだよ」

「はあ、なんでしたっけ、それ」

 卒業高校のせいにはしないが、おれはとんとそういうことわざ関係にはうとい。小学生のころから、工作以外得意ではなかった。だから大工になったのだ。

「せがれが一人いるんだが、そいつがまたおれに似なくてできがよくてな。コッカコームインとかになりやがって、東京にいるんだわ。向こうで結婚して孫もできてさ。その奥さんがまた、外でバリバリ働くもんだから、おれのつれあいはそっちに呼びつけられて、ずっと孫守りよ」

「そうなんですね」

 それは寂しいですね、と言おうと思った言葉を飲み込んだ。城戸さんが、その話をしながら顔を嬉しそうに上気させていたからだ。寂しいことは寂しいのだろうが、その息子さんが自慢でもあるのだろう。

「おれは、せがれにも大工仕事の面白さを分かってほしかったんだが、あいつはそういう分野についてはまるでダメでさ。まっすぐのこぎりも引けやしねえ。そして大学進学とともに、東京なんぞ行っちまって、それっきりろくにこっちに帰りやしねえから、ほんと、倉永の親父さんがうらやましいよ。いつでも息子と、酒盛りできて」

 ああ、とおれは酔いの回った頭で思いめぐらす。城戸さんが誘いたかったのは、おれじゃなかったんだ、と。本当はその「できのよすぎる」息子さんと飲みたかったのだろう。息子と酒を飲むのが男の夢、だとかなんとか聞いたことはある。

 代わりにされたのだ、と理解が腹に落ちてきた。城戸さんは愚痴だ愚痴、聞かせてすまんな、と言いながらも楽しそうに酒を飲んでいた。出るとき財布を出そうとしたが、「気にするな」と会計をすべて持ってくれた。頭を下げて、降り方が強まってきた雪のなか帰った。

 アパートの鍵をがちゃりと開けると「おっそーい」という言葉とともに、ピンクの髪をした麻琴が玄関に飛び出してきた。

「あー、悪い。職場の先輩に呼び出されて、飲んでてさ」
「え、じゃあごはん要らないの?」
「や、食べるよ。食べたりない」

 冬が始まる前から、二つ年上の麻琴と小さな間取りのアパートで同棲を始めた。三百円均一のファンシー雑貨店勤務なので、比較的どんな髪型でも許されるらしいが、それにしても見るたび、すげえ色だなと思う。

 けれど、麻琴がこんな髪の色にしてしまったのは、おれに原因があるのだった。そのことを思い出すだけで、おれは苦くて身の置き所がない気持ちになる。

 高校時代の三年間、おれは青かった。というか青すぎた。通っていた工業高校の近くに女子高があり、そこの女子生徒たちとはよく同じ電車に乗り合わせた。おれは、ときどき朝の電車で一緒な時刻に乗ってくる名前も知らない女の子に、想いを寄せていた。

 卒業前に、もう会えなくなると思うと胸がつまった。苦しくてやりきれなくて、でもチキンすぎたおれは何の行動もできず、その恋を散らした。彼女は聞くところによると、関西のお嬢さま大学に進学したらしい。その噂をぼんやりと受け流したあとは、すぐに大工の仕事を覚えるのにいっぱいいっぱいの日々が始まり、格好悪い初恋は忙しさに飲み込まれていった。

 昨年の六月、高校時代の悪友、賢治の紹介で麻琴に出会った。会っていちばんに「に、似ている」と衝撃を受けた。そのころ麻琴は、まだ髪が暗めの栗色をしていて、その姿かたちは思い出の彼女と良く似ていた。とくに、くりくりと大きな瞳がそっくりだった。

 男女あわせて六、七人で飲み、おれがトイレに立ったのを見計らって、セッティングした賢治が追いかけてきた。こそこそっと「似てるやろ」とニヤリとされた。おれも「うん、びっくりした」とその場で白状した。

 麻琴はどうやら、おれのことがまんざらでもなかったらしく、彼女のほうからときどきメールが来るようになった。一抹の罪悪感は、大好きだったあの子にそっくりな子と付き合えるという喜びに、あっという間にかき消された。

 付き合いを深めていくうちに、だんだん麻琴は初恋の子の残像と重ならなくなった。初めてのキスも、箱根への一泊旅行も、順調に麻琴との交際を進めていくうちに違和感は消えていった、はずだった。

 けれど、夏を間近にしたある晩、麻琴がデートの帰りに指をおれの手にからませて言った。

「拓ちゃん。そろそろ、うちの母に紹介したいんだけど、どうかな?」
「え、それって、つまり」
「お付き合いしてるってことは、そういうことなんでしょ? って母親が」

 はじめて付き合う楽しさに浮かれていたおれは、そのとき足元がなくなるような不安を感じた。スキだった子に似ていたし、ちょっと付き合ってみようと軽く始めたつもりだった。でも、そうだよな。女の子にしちゃ、そういうことだもんな。

「えっと、えーっと」

 おれの態度がしどろもどろになったのを見た麻琴は、その日別れたあととても不安になったらしい。自分がもしかしたら浮気相手ではないかと悩んだ彼女は、おれと共通の知り合い――つまりは賢治に、おれの交友関係について訊きただしたのだった。そのあまりの迫力に根負けした賢治が、あろうことかおれの初恋の相手と麻琴がそっくりだったという事実を、ばらしてしまったのだった。

 次に麻琴に会ったとき、俺はあごが外れるほど驚いた。そう、麻琴の髪が、真っピンクになっていたのだった。麻琴は賢治から、おれの初恋の子の容姿などもできるかぎり聞き出して、一番かけ離れた姿になろうと考えたらしい。

 そんな麻琴が、いじらしくて、馬鹿みたいで、おれはつい噴き出してしまった。もちろん、麻琴にはこっぴどく怒られ「これで絶対、似てないよね?」と念を押されたけれども。

 そんな麻琴に、おれは昨年の秋の終わりに「一緒に住もう」と持ち掛けた。仕事が落ち着いてきたのもあるし、何より麻琴と暮らしたい気持ちが本心だったから。麻琴はおれの胸に顔をうずめると「でも絶対髪の色は元に戻さないからね。なんだったら、今度はグリーンにしてやるから」と言い放ったので「できたらピンクのままがいいです」とお願いした。

 麻琴が用意してくれたキムチチャーハンと卵と春雨のスープを食べて、一緒に深夜のお笑い番組を見た。もうさすがに飲めなかったので、水をもらってがぶがぶと飲んだ。

「なあ、麻琴」

 ふと思い立って聞いてみた。「なーに」とこたつの向かいから、声が帰ってくる。

「親父さんと、酒飲んだりした? ――って、あ、ごめん。失言だ」
「拓ちゃん、計算できてない。お父さんが生きてるとき、私まだ成人してないから。酔っぱらってるでしょー。てか、高校から酒飲んでた拓ちゃんと一緒にしないで」
「いや、ごめんほんと。てかおれも、高校んときは親の前では飲んでない」
「ほんとかなあ」

 何気なく聞いてしまってから、しまったと思った。麻琴の父は五年前に他界していると、付き合い始めた頃聞いたのだった。普段なら忘れるはずもないのだが、今夜はどうも飲みすぎているらしい。さっきの城戸さんの話が頭にまだ残っていて、変なことを聞いてしまった。

「でもね、お母さんがときどき、お父さんの写真にビール供えてるよ。だから私も、一緒にカンパイってやったりするかな、実家に帰ったときには」
「へえ」

 こたつのなかで、ぶつかる足。生え際が少し黒くなってきたピンクの頭。二人の前の、食べかけの皿。

 酔いが醒めるのを待ちながら、おれは明日職場に行ったら、城戸さんにさりげなく言おうと思った。息子さんと飲みに、東京行って来たらどうですか、と。城戸さんが休みのあいだの穴埋めくらい、しますよ、と。

 そして今度は城戸さんと、誰のかわりでもないおれ自身で、一緒にビール飲みましょうねと伝えたい。向かいでうとうとしはじめた麻琴に毛布をかけてやるために、おれは立ち上がると部屋のテレビを消した。

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