第2話
文字数 2,784文字
「何だよ、この虫は」
「宮本、すまないが椅子をここまで持ってきてくれ」
私は起き上がると、さっき武市 が座っていた椅子を引っ張ってきて旧友を座らせた。
「俺がこの人面蚊 を見つけたのは十年程前だった」
武市は呼吸を整えると、言葉を絞り出すようにして説明を始めた。
「蚊を媒介する感染症の研究のために東南アジアに出張したときだ。現地で捕獲した蚊の中にあいつらが混じっていた」
人面蚊とは呼んでいるが、あいつらは昆虫ではない。武市は断言した。
「人面蚊も吸血をする。鋭利な歯があって、それでガブリと人の皮膚を噛んでから血を吸う。だが蚊と決定的に違うのは、人面蚊は産卵しない。胎生 するんだ」
「それじゃあ、まるで哺乳類じゃないか」
「そうさ。手足が四本であるし、あの容姿からして、人間の新種と言える」
私はあまりにも突拍子もない話に、頭が混乱していた。同時に、そこはかとなく浸蝕してきた恐怖に、冷たい汗が背中を伝う。
「人面蚊は現代の妖精なのだ」
武市は充血した目で私を見つめた。私は妖精という言葉と、見た目とのギャップに顔が強張った。
「最初に見つけたのは三匹だ。同行者や現地の研究者に内緒にして持ち帰り、十年かけて繁殖させた。今ではおよそ百匹程度まで増えた」
「あまり増えていないな」
「人面蚊は生殖に熱心ではない」武市は口を歪めた。
「寿命が三年と長いところも理由にあるのだろうが、一対の親から一年に数体しか子が生まれない」
「それで、俺にどうしてほしいんだ?」
私は青白い顔をこちらに向けている武市を質した。
「まさか、お前の死後、俺に面倒を見てくれという訳じゃないだろうな」
「そんな厚顔なことはしない」武市は笑った。「宮本に見てほしかっただけだ」
「実は、一時期の俺はちっとも繁殖が進まないのに苛立ち、毎日あいつらに愚痴をこぼしていた。そうしたら、驚くべきことが起きた」
武市は立ち上がると、ガラスケースの上のラックにある機器の操作を始めた。
「これはいわゆるモスキート音を解析するための機械なんだ」
武市がボリュームコントローラーを動かすと、どこか遠くからキーンという高い音がかすかに聞こえてきた。
「俺の耳ではモスキート音を感知できないぞ」
「黙っていろ」
武市は別のつまみをゆっくりと下げる。すると人の声のようなものが次第に聞こえてきた。
「ハンショクシロ、ナニヤッテイル……」
唖然とする私に、武市は「これが八年前、最初の音声記録だ」と説明した。
「人面蚊の脳は、耳にした音を記憶して復唱する程度には発達していた。そこで俺は、繁殖三世代目となった人面蚊から、ある実験をすることにした」
それは一日中、落語のCDを聴かせることだった。
実験の様子を語る武市の顔は紅潮していた。おのれの研究成果を話すことで生命力が蘇ってきていた。
「二年前の記録を聴いてくれ。七世代人が幼生期を終えて成人になった時のものだ」
武市はついに「人」という単語を使うようになった。
彼は機器のスイッチを切り替えると、またつまみを操作する。
「オナジハナシ、アキタ、タケチ、カエロ……」
驚きで言葉を無くした私に、武市がぐっと顔を近づけた。
「こいつら、世代を経て、ついに日本語を習得したのだよ」
私の動揺に気を良くしたのか、武市は安堵した表情で椅子に沈み込んだ。
しばらくの間、武市は目を閉じていた。私は今夜、彼が私を呼んだ理由を必死に考えたが、答えは出てこない。
やがて、武市の目がゆっくりと開いた。
「このケースの中にいる人面蚊は数人だ。いきなり百人のコロニーを見せると、宮本が驚いてしまうと思ったからな」
「いや、たった数匹でも十分に驚いている」
私は再び拡大鏡を持つと、人面蚊を観察した。能面のような無表情で左右をキョロキョロしている様は、とても現代の妖精には思えなかった。
「実は建物の二階に、百人の人面蚊たちの部屋がある」
武市の視線は天井を向いていた。
「あと一時間で部屋の窓が自動で全開するように、タイマーをセットしておいた」
どういう意味かと訝しむ私に、武市は黄ばんだ歯を見せた。
「俺はもうすぐ死ぬ。人面蚊の面倒を見ることもできない。このまま殺すのも可哀想だし、俺以外の者の研究対象にさせるのは危険だ。だから全員を開放することにした」
「それは、駄目だろう」
私はかろうじて反論したが、武市は首を横に振った。
「願わくば、共存社会を実現してほしいよ」
目の前の武市は、優しい目をしていた。唇が動き、何かの言葉を発したが私には聞き取れなかった。
彼はそのまま昏睡状態に陥った。
三十分後、私からの通報に駆け付けた救急隊員に武市を預けると、私は研究所に残った。
救急車を送った後、建物の外から二階を窺ってみたが、正面に見える部屋はどこも真っ暗で、窓の開閉は確認できなかった。
私は武市と話をした研究室に戻った。二階に上がる勇気はなかった。
奥にあるガラスケースに近寄ると、水面がわずかに動いている。私は胸の鼓動が早まるのを感じながら、拡大鏡を水面に向けた。
水中を泳いでいるのは、人面蚊の幼体だった。全身は乳白色で、四肢はあるが頭部に当たる部分は突起があるだけではっきりしない。四肢を動かして、平泳ぎのように水中を移動していた。
それはまるで人間の赤ちゃんだった。
このとき、キーンという高い音が頭上から聞こえてきた。驚いて顔を上げると、ケースの外にあるマイクに、一人の人面蚊が留まっている。
私は無我夢中で機器を動かした。闇雲にスイッチを押し、つまみを上げ下げした。
「ミヤモト、オイ、ミヤモト……」
自分の名が呼ばれていることに驚いてマイクを見ると、人面蚊は空中に飛び去った。耳元をプーンという音が通り過ぎ、次に姿を見せたのは私の左手首の上だった。
人面蚊は翅 を畳むと、身体を上下に動かしている。私は咄嗟に拡大鏡をかざした。
私は人面蚊の顔がこちらを見ていた。
人間? 妖精?
その黒い瞳に魅入られた瞬間、私はチクリと痛みを感じた。人面蚊は私の皮膚に歯を立てていた。
私は人面蚊から目線を外さぬまま、じっと血を吸われていた。
***
一年後、武市の研究所は取り壊された。百人の人面蚊がどうなったのか、私には知る由もない。
国内において新種の生物を発見したとの報道は、まだ耳にしていない。
梅雨明けの日曜日、私は妻を連れて武市の墓参りに出かけた。墓前に手を合わせていると、妻が「あなた、腕に蚊がいる」と言った。
見ればむき出しの肩に蚊が留まっている。
「血を吸われているよ」
「うん」私はじっと蚊を見つめていた。
「叩かないの?」妻が少し苛立った声を上げた。
あれ以来、私は蚊を殺せなくなっていた。プーンという音が耳元で聞こえた途端、それが「ミヤモト」という囁 きに脳内変換されてしまい、私は黙って肌を差し出してしまうのだった。
(了)
「宮本、すまないが椅子をここまで持ってきてくれ」
私は起き上がると、さっき
「俺がこの
武市は呼吸を整えると、言葉を絞り出すようにして説明を始めた。
「蚊を媒介する感染症の研究のために東南アジアに出張したときだ。現地で捕獲した蚊の中にあいつらが混じっていた」
人面蚊とは呼んでいるが、あいつらは昆虫ではない。武市は断言した。
「人面蚊も吸血をする。鋭利な歯があって、それでガブリと人の皮膚を噛んでから血を吸う。だが蚊と決定的に違うのは、人面蚊は産卵しない。
「それじゃあ、まるで哺乳類じゃないか」
「そうさ。手足が四本であるし、あの容姿からして、人間の新種と言える」
私はあまりにも突拍子もない話に、頭が混乱していた。同時に、そこはかとなく浸蝕してきた恐怖に、冷たい汗が背中を伝う。
「人面蚊は現代の妖精なのだ」
武市は充血した目で私を見つめた。私は妖精という言葉と、見た目とのギャップに顔が強張った。
「最初に見つけたのは三匹だ。同行者や現地の研究者に内緒にして持ち帰り、十年かけて繁殖させた。今ではおよそ百匹程度まで増えた」
「あまり増えていないな」
「人面蚊は生殖に熱心ではない」武市は口を歪めた。
「寿命が三年と長いところも理由にあるのだろうが、一対の親から一年に数体しか子が生まれない」
「それで、俺にどうしてほしいんだ?」
私は青白い顔をこちらに向けている武市を質した。
「まさか、お前の死後、俺に面倒を見てくれという訳じゃないだろうな」
「そんな厚顔なことはしない」武市は笑った。「宮本に見てほしかっただけだ」
「実は、一時期の俺はちっとも繁殖が進まないのに苛立ち、毎日あいつらに愚痴をこぼしていた。そうしたら、驚くべきことが起きた」
武市は立ち上がると、ガラスケースの上のラックにある機器の操作を始めた。
「これはいわゆるモスキート音を解析するための機械なんだ」
武市がボリュームコントローラーを動かすと、どこか遠くからキーンという高い音がかすかに聞こえてきた。
「俺の耳ではモスキート音を感知できないぞ」
「黙っていろ」
武市は別のつまみをゆっくりと下げる。すると人の声のようなものが次第に聞こえてきた。
「ハンショクシロ、ナニヤッテイル……」
唖然とする私に、武市は「これが八年前、最初の音声記録だ」と説明した。
「人面蚊の脳は、耳にした音を記憶して復唱する程度には発達していた。そこで俺は、繁殖三世代目となった人面蚊から、ある実験をすることにした」
それは一日中、落語のCDを聴かせることだった。
実験の様子を語る武市の顔は紅潮していた。おのれの研究成果を話すことで生命力が蘇ってきていた。
「二年前の記録を聴いてくれ。七世代人が幼生期を終えて成人になった時のものだ」
武市はついに「人」という単語を使うようになった。
彼は機器のスイッチを切り替えると、またつまみを操作する。
「オナジハナシ、アキタ、タケチ、カエロ……」
驚きで言葉を無くした私に、武市がぐっと顔を近づけた。
「こいつら、世代を経て、ついに日本語を習得したのだよ」
私の動揺に気を良くしたのか、武市は安堵した表情で椅子に沈み込んだ。
しばらくの間、武市は目を閉じていた。私は今夜、彼が私を呼んだ理由を必死に考えたが、答えは出てこない。
やがて、武市の目がゆっくりと開いた。
「このケースの中にいる人面蚊は数人だ。いきなり百人のコロニーを見せると、宮本が驚いてしまうと思ったからな」
「いや、たった数匹でも十分に驚いている」
私は再び拡大鏡を持つと、人面蚊を観察した。能面のような無表情で左右をキョロキョロしている様は、とても現代の妖精には思えなかった。
「実は建物の二階に、百人の人面蚊たちの部屋がある」
武市の視線は天井を向いていた。
「あと一時間で部屋の窓が自動で全開するように、タイマーをセットしておいた」
どういう意味かと訝しむ私に、武市は黄ばんだ歯を見せた。
「俺はもうすぐ死ぬ。人面蚊の面倒を見ることもできない。このまま殺すのも可哀想だし、俺以外の者の研究対象にさせるのは危険だ。だから全員を開放することにした」
「それは、駄目だろう」
私はかろうじて反論したが、武市は首を横に振った。
「願わくば、共存社会を実現してほしいよ」
目の前の武市は、優しい目をしていた。唇が動き、何かの言葉を発したが私には聞き取れなかった。
彼はそのまま昏睡状態に陥った。
三十分後、私からの通報に駆け付けた救急隊員に武市を預けると、私は研究所に残った。
救急車を送った後、建物の外から二階を窺ってみたが、正面に見える部屋はどこも真っ暗で、窓の開閉は確認できなかった。
私は武市と話をした研究室に戻った。二階に上がる勇気はなかった。
奥にあるガラスケースに近寄ると、水面がわずかに動いている。私は胸の鼓動が早まるのを感じながら、拡大鏡を水面に向けた。
水中を泳いでいるのは、人面蚊の幼体だった。全身は乳白色で、四肢はあるが頭部に当たる部分は突起があるだけではっきりしない。四肢を動かして、平泳ぎのように水中を移動していた。
それはまるで人間の赤ちゃんだった。
このとき、キーンという高い音が頭上から聞こえてきた。驚いて顔を上げると、ケースの外にあるマイクに、一人の人面蚊が留まっている。
私は無我夢中で機器を動かした。闇雲にスイッチを押し、つまみを上げ下げした。
「ミヤモト、オイ、ミヤモト……」
自分の名が呼ばれていることに驚いてマイクを見ると、人面蚊は空中に飛び去った。耳元をプーンという音が通り過ぎ、次に姿を見せたのは私の左手首の上だった。
人面蚊は
私は人面蚊の顔がこちらを見ていた。
人間? 妖精?
その黒い瞳に魅入られた瞬間、私はチクリと痛みを感じた。人面蚊は私の皮膚に歯を立てていた。
私は人面蚊から目線を外さぬまま、じっと血を吸われていた。
***
一年後、武市の研究所は取り壊された。百人の人面蚊がどうなったのか、私には知る由もない。
国内において新種の生物を発見したとの報道は、まだ耳にしていない。
梅雨明けの日曜日、私は妻を連れて武市の墓参りに出かけた。墓前に手を合わせていると、妻が「あなた、腕に蚊がいる」と言った。
見ればむき出しの肩に蚊が留まっている。
「血を吸われているよ」
「うん」私はじっと蚊を見つめていた。
「叩かないの?」妻が少し苛立った声を上げた。
あれ以来、私は蚊を殺せなくなっていた。プーンという音が耳元で聞こえた途端、それが「ミヤモト」という
(了)