第1話

文字数 1,472文字

 私が武市(たけち)の研究所を訪ねたのは、七月初旬の蒸し暑い夜のことだった。

 私と彼とは二十余年前に大学の生物学研究室で共に学んだ関係だ。その後、彼は国の研究機関で外来生物の駆除に取り組んだ後、自ら研究所を設立し、今は昆虫毒の研究をしていた。

 二階建てのこじんまりとした研究所の、一階突き当りのラボで武市は待っていた。

「宮本、よく来てくれた」
「突然連絡をくれたから驚いたよ」

 武市と会うのは実に十年ぶりだった。私の専門は農作物の遺伝子研究で、分野が異なることから武市とは疎遠になっていた。

 旧友は薄暗い部屋で、大きな椅子に身を沈ませて座っていた。無精ひげは以前からのイメージに忠実だが、国の機関に在籍していた頃は丸々としていた体躯(たいく)が、空気が抜けたかのように(しぼ)んでやつれているのには驚いた。

「実は、ステージ四の末期がんでもう永くない。この研究所も手放すことにした」
「道理で玄関に看板はないし、何となく雑然としているはずだ。それで、俺に何の用だ」
 彼の死を深刻に受け止めるほど、私たちの関係は親密ではなかった。

 武市はよろよろと立ち上がると、壁沿いに陳列されているガラスケースのうち、まだ使用中なのかモーターの稼働音が聞こえる一台の前に案内した。

「研究所の昆虫類は処分するか引き取ってもらった。残っているのはこいつらだけだ」

 武市はケース上部の照明を明るくし、さあ見ろと言わんばかりに手招きした。私は腰を屈め、ガラスの近くに顔を寄せる。

 幅五十センチ、高さ三十センチほどのケースの底に、深さ一センチほどの水が張ってある。私は水の中を凝視したが、生き物を視認することができなかった。

「水中じゃない」武市は小さく首を振った。「ケースの上の方、隅に集まっている」

「よく見えないな」
 私は眼鏡を外すと、ガラスに鼻の頭が付くくらいまで顔を近づけた。そうすると、数ミリくらいの大きさの物体が数匹、ガラスの表面を動いているのが見えた。

 どうやら蚊のようだ。

 このとき、背後で大きな物音がした。振り返ると、武市が木製の戸棚に(もた)れている。その足元には、たった今落ちて割れたのであろうガラスの破片が散らばっていた。

「おい、大丈夫か」
 武市は斜めに傾いた戸棚に身体を預けたまま、右手をゆっくりと前に突き出した。その震える手には、大きな拡大鏡が握られている。

「これで、よく見てくれ」
 拡大鏡を渡されたものの、私は困惑するだけだった。

「新種の蚊なのか。でも俺は昆虫には詳しくない」
「いいから、見てくれ」武市は声を張り上げ、激しく咳き込んだ。彼は立っていられなくなり、ズルズルと床に腰を落とした。

 私は武市の上下する肩を見ながら、しばらく思案に暮れた。今は新種の昆虫のことよりも目の前の友人の体調を優先した方がいいのでないか。
 だが、武市の性分からして、そんな気遣いには腹を立てるだろう。

 やがて意を決した私は、ガラスケースに拡大鏡をかざした。

 よくよく見てみれば、それは蚊ではなかった。
 ずんぐりとした黒い胴体には白い横縞が何本か入っていた。背中からは半透明の細長い(はね)が四枚出ていて、開閉を繰り返している。

 長く細い足は四本だった。尻尾はない。

 褐色の頭部には長い触角が出ている。蚊と比べると頭は大きい。その顔は、黒く丸い目、尖った耳、高い鼻、耳元まで切れ込んだ口……。まるで人間そっくりだった。

「わああ」
 私は思わず叫び声を上げ、ケースから後退(あとずさ)った。武市とは反対側の壁際の段ボール箱に激突したとき、支えを求めた右手が何かに当たり、指先に痛みが走る。次いで、床に何かが落ちる音がした。
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