第1話

文字数 4,860文字

 恥がある。
 顔面に発射された大量の精子は、そのままわたしの恥であり、永久に張り付き続ける。
 どんな言葉があるだろう。
 今、わたしの不幸を言い表すには、どんな言葉もふさわしくないように思える。
 わたしはもう堕ちるところまで堕ちた。
 人々はこれを不幸と言うだろう。
 でもわたしは言葉を信じない。
 誰もそれをわたしに教えようとしなかったし、わたしも語ろうとしなかった。
 わたしはただ生きている。
 恥を背負い、恥を抱いて、恥を枕に、わたしはただ生きている。
 誰がわたしを責めることなどできるだろう。わたしのことは、わたしにしか語れない。
 思考も五感も腐り切った達磨たちがとぐろを巻くこの世界に佇み、わたしはじっと虚空を見上げる。
 この世の果てのこの場所でさえ、今や消滅しつつある。
 わたしが生きられる世界はどこにあるのだろう。

 髪についた精子はすぐに固まり、ティッシュでは拭き取れない。
「シャワー、浴びていいですか」
 そう訊くと、あからさまに嫌な顔をされた。
「水道代、誰が払うんだよ」
 カントクは背を向けて携帯を弄り始める。
 お妃になることが子どもの頃の夢だった。
 今でもお妃になることはある。
「ケツの穴、つき出しな!」
 そう言ってわたしはハイヒールの踵を男の尻に食い込ませていく。少し男の血が出て、それでわたしは安心する。わたしはお妃だ。この汚い城の。
「許してください!」
 男が懇願すればするほどわたしは踵を深く刺していく。まるで男がそう望んでいるかのように。まるでわたしがそう望んでいるかのように。
 最近、撮影が佳境にさしかかるにつれ、自分が壊れていくのを感じる。
 その瞬間が近づくたび、わたしは恐怖を覚える。もはや最後の砦。なれの果て。The 地獄のお妃。でもそんなわたしに近づいてくる男もいる。この世はわからない。
「姫子さん、今夜、ひまですか」
 中年のその男優は会うたびにわたしを誘う。
 わたしは男が嫌いだ。
「今日は生理なんです」
 わたしは無下にNOを突き付ける。
 生理なんです生理なんです生理なんです。
「でも撮影は……」
 わたしは男を置いて帰り支度を始める。
 わたしは男が嫌いだ。
 とても。そう、本当に。
 不意に男優が話し方を変えた。
「付き合ってくれたら、現場のシャワー使い放題にするよ」
 こんな果ての果てでも小さな権力を振り回す馬鹿はいる。揺りかごから墓場まで。
 わたしはため息を吐いた。
「お前の穴に太いリコーダー突っ込んでやろうか」
「え」
「ケツだよケツ。お前の大事なケツのど真ん中に」
「……俺のケツ?」
「そう、本気で刺してやろうか。撮影みたいなごっこ遊びじゃなくて、いっそ本気で、最後まで」
 わたしが好きな男の唯一の部分は、血が苦手ということだ。
「……いいすよ」
「は?」
 男はにこっとはにかんだ。
 わたしは引いた。
 大きく。

 わたしは神を信じない。
 神がいるならわたしが存在するはずがないし、わたしが存在するなら神が存在するはずがない。
 どうしてこの世はこうも説明がつかないのだろう。
 たとえば目の前の男。自ら手首を縛り、うなだれているこの男。こうすることで男はいきいきと生きている。男は苦しみながら恍惚の表情を浮かべ、わたしはますます混乱を深めていく。もはやわたしには何もわからない。
「苦しい、苦しいよぉ。解いてくれよぉ。助けてくれよぉ」
 わたしは鞭を振り下ろす。
「わたしに向かってその口のきき方はなんだ」
「ごめんなさい!申し訳ありません!許してください」
 涎をだらだらと垂らしてわたしに懇願する男。死んでほしい。お願いだからどうか死んでください。今のわたしの唯一の願い。けれどそう願えば願うほど男の命は輝きを増す。これが男の命である。これが私の人生である。わたしは絶望しながら男の肛門をかきまわす。わたしが生きるということ。それはこれだ。
 男が恥辱にまみれた姿を見せる。それを許す。妃として許す。それはシャワーを使いやすくするだろう。だがそこにどんな意味があるのだろう。わたしは生き延びたいのだろうか。この世は地獄だ。賢い人間なら、一刻も早くこの世を去ろうとするだろう。だからわたしは馬鹿だ。大馬鹿だ。
「苦しい、苦しいよぉ」
 この男は少しは幸せなのかもしれない。
 わたしは男のように苦しみを表現することができない。声を上げることができない。それがわたしの苦しみだ。わたしは今、男に微笑み掛けて、長い踵を刺し込んでいく。従順なわたし。とても従順に。最後まで。奥の奥まで。やさしくやさしく刺し込んでいく。男はとても嬉しそうで、今にも死にそうで、わたしはもはや絶望している。このまま男を殺してしまいそうで、わたしは震えている。それは嘘だ。震えてなどいない。わたしはもはや納得したのだ。自分のいのちのあり方に。その果てしない愚かさに。だが納得してしまった女はどう生きればいいのだろう。わたしにはわからない。男にもわからない。わたしの足に少し力が入る。男が目を白黒させる。かわいそうに。かわいそうな男。哀れな男。でもわたしに見つめてもらえるだけ幸せな男。
「姫子さま、ありがとう」
 男が言った。
「ありがとう、ありがとう、感謝しています」
「そんな言葉はいらない」
「わたしはとても幸せでした。これで思い残すことなく死ぬことができます」
 ありえない。この男が死ぬなど、ありえない。
「お前に死ぬ権利などない。これはただのプレイだ。くだらないごっこ遊びだ。第一死ぬというならわたしから死ぬべきだ。どうしてわたしが死んでないのにお前が死ぬことが出来ようか」
「は?」
 男は不意に全てから解き放たれたようにきょとんとした。
「でも」
「でももへちまもない」
「……へちま。姫子さまは古い言葉をお使いになるのですね」
「悪いか。古いといえば男こそ古い。古典そのものだ。お前たちに揶揄される筋合いはない。へちまと言って何が悪い」
「……いえ、ただ」
「なんだ?」
「イメージと違うと申しましょうか」
「は?」
「わたしの中の姫子さまのイメージと多少異なりましたので」
「お前、勝手に俺をイメージしたのか!?」
「ひえっ、すみません! もう申しませぬ」
 わたしは鞭を振り下ろした。
「俺は俺だよ。勝手にお前の中に俺を作るなよ」
「そう言われましても……。おそれながら、姫子さまは大変格の高い方でございますゆえ、その、なんと申しましょうか、それなりのイメージというものがありまして」
「格だと?」
「ははあ」
「なんで汚いAV出て生き延びてる奴の格が高いんだよ」
「だ、誰でもあのようなことができるわけではございませんゆえ」
「馬鹿にしてんのか!?」
 唾が飛んで、男の顔に撒き散らす。
「い、いえ! 逆でございます!」
「ぎゃく、だと?」
「わたしは姫子さまのことを心から尊敬しているのでございます」
「……」
「私のような卑小なものが姫子さまとお話するだけでももったいのうございます。ですがせっかくの機会ですので知って頂きたく、申し上げます。私は姫子さまを心から慕っているのです。明日をも知れぬわが身を慰め、英気を養うために姫子さまのヴィデオを拝見させて頂いているのです。ましてや姫子さまと共演できたこと、ましてやこうして調教して頂けること。幸福の極みであります」
「……わたしの醜い姿などを見て、お前は元気になるのか?」
「はい。いえ、その、決して醜くなど、ございませんよ」
「そうだろうか」
「姫子さまは神です。万物の神です」
「神……? 神とはなんですか?」
「あなたさまです」
「答えになっていない!」
 わたしは男の尻をしばきあげた。鋭い悲鳴がこだまする。
「……あなたは神様です」
 なおも男は食い下がる。
「わたくしはあなたさまに会うことが出来て幸せでした。やっとあなたさまに出会うことが出来たのです。わたしだけではありません。姫子様のお姿を見てどれだけの男たちが救われているか……」
「どうしてもわたしを侮辱する気か! 貴様たちにその権利があるというのか!?」
「滅相もございません! わたしはただ真実を申したまでで」
「それが侮辱だ」
「侮辱ではございません!」
 わたしは二度三度と男の尻を蹴り上げた。切ない悲鳴がこだまする。
「わたしは、」
「……」
「わたしは、姫子さまのことが好きなのです」
「……」
「もはやあなただけが希望の種です。どうかこれからもわたしたちを相手にしてください。そうでなくては、……そうでなくては、わたしたちは死んでしまいます」
 わたしは再び虚空を見上げた。
 そこには何もない。
 当然のように何もなかった。
 そしてそれが私が見ることのできる唯一の真実だった。
 わたしは男に言った。
「生きろ」
「……」
「わたしのことが好きなら、せいぜい生き延びろ。そしてそのことを証明してみせろ。わたしが削り取ったものをただ受け取って消えていくだけなんて、決して許さない」
 男は深く、深く、頭を下げた。

 わたしは死ねない。
 死ぬことが出来ない。
 ゆえにずっと死に憧れてきた。
 ゆえにずっと生きる人々を憎んできた。
 今、わたしには何もない。
 白い世界。
 無の世界。
 だから、わたしは、おっぱいを、揉む。
 ただ、茫然と、揉みしだく。
 おっぱいを揉んでぼうっとしているとき、わたしは事実を知ることができる。
 感じているという事実。
 生きているという事実。
 ただそれだけを思い知る。
 わたしを育てた母親は、すべては神だと言った。すべてが神ならわたしは何なのだ。わたしも神だというのか。そんなはずはない。こんな汚い世界に、神が、存在するわけがない。
 わたしには人間としての権利さえない。

 初めての撮影の時、わたしは少し感じた。
 意外だった。
 わたしは相手の男優に向かってわずかに微笑んだ。
 相手は困ったようにわたしを見つめ、それでもほんの少し頬を緩ませた。わたしは嬉しかった。つながることができたのだ。そう思った。だが現場はその一瞬を見逃さなかった。
 勝手に感じるな! 機械のように動け! お前はただの奴隷だ!
 日本はそうわたしを怒鳴り付け、精神を組み伏せ、鋭い一瞥をくれた。自由など、意志など認めない。その瞳にはそう書いてあった。
 わたしは男たちを見下している。それはわたしより格が下だからではない。わたしはただ憐れむのだ。愚かな男たちを憐れみ、そして自分自身を憐れみ、こんなものかと落胆する。

 苦しげな声に我に返る。見ると、男が吐いていた。
「どうした? 急にどうしたのだ?」
 男はただ首を振って吐き続けている。
 その姿はまるで自分と同じ地獄の生き物だった。
 やがて男は途切れ途切れに言った。
「……私は愚か者でした。毎日与えてもらうことばかり考え生きてきたのです。システムに従うだけのくだらない消費者です。誰かが自分のために削られることなど考えたことがありませんでした。受け取って咀嚼して食う。そのことしか頭になかったのです。こうしながら私自身も消費させられているというのに。今、やっと気づきました。私は、私が今まで飲み込んできたものをこうして吐いていかねばなりません。私は苦しいのです。しかし、これは大切な……」
 そこまで言うと、男は喉をうならせて大量のげぼを吐いた。それはげぼというにふさわしいやわなものたちだった。幼い子どもが吐くようなくだらないげぼだった。しかし、それを見ているうちに、わたしは少し安心した。ただこうして見つめていけばいい。ただただ見つめていけばいい。それはとても穏やかなことのように思えた。男は不安げにわたしを見上げた。
「姫子さま。申し訳ありません。このような醜態を見せつけて……」
「醜態ならもう見慣れている。気にするな。思う存分、吐けばいい」
 わたしは男の頭を押さえつけ、げぼの上につき出した。男は自分の吐いたもののせいで、さらにたくさんのげぼを生成した。わたしはなぜだろう、男の背中をさすってやった。瞬間、男の目から大きな涙が零れ落ちた。わたしは、少しだけやさしくなれた気がした。

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