おにぎり

文字数 2,583文字

達也1
ぼすっ。
くぐもった音と共に胸に軽く衝撃が走った。一瞬何が起こったかわからなかった。足元には、アルミホイルに包まれた塩味のおにぎりが一つ。
真由美がまた、僕に物を投げた。
「はよ仕事行けやぼけ、もっかい投げるぞ。」
それが32歳の大人の言動か。という台詞は飲み込み、代わりにため息を小さく吐き出した。不幸中の幸い、おにぎりはアルミホイルから飛び出すことなく無事だ。さっき着たばかりのスーツも汚れていない。まだ温かいおにぎりを拾い上げ、通勤鞄に滑り込ませる。ちらりと真由美を見たが、こちらに背中を向けて朝食の卵焼きのフライパンを洗っている。僕はいってきますも言わずに部屋を出る。

真由美の言葉が、仕草が、乱暴になったのは一体いつからだっただろうか。思い出そうとしても思い出せない。僕に思い当たる節がないということは、何か他にも原因があるんじゃないだろうか。
あれはきっと、僕のせいじゃない。
今まで何度、そう結論づけただろう。

会社に行くと、最近結婚した後輩が何やら嬉しそうに同僚と話している。僕に気がついた後輩は屈託のない笑顔を向けてきた。
「佐伯さん、俺今度嫁と温泉行こうかって言ってるんすけど、おすすめの温泉地ないっすか。」
周りを囲んでいる同僚たちは「やっぱ九州だろ。」「箱根はどう?」「前行った有馬温泉良かったよ。」と口々に言う。僕は、そうだなぁと考えるふりをしながら仕事の準備をする。
僕も、あんな風に真由美の話をしてたことがあったっけ。後輩にかつての自分が重なりそうになるのを必死で振り払う。

「え、佐伯係長お昼それだけ?」
昼休み、同僚の直子がサンドイッチを頬張りながら話しかけてきた。外食組が出て行って少しがらんとしたフロアで、直子は堂々と通路に脚を投げ出している。
「忙しくて食べられない時もあるからいつもおにぎりだけなんだよ。」
真由美が今朝投げた上に、小さな通勤鞄に詰められて、いびつに変形したおにぎりを僕は1分ほどで平らげた。
「それでも奥さんの手作り持ってくるんですねー。うちなんて二人ともコンビニ飯ですよ。佐伯係長、愛妻家ですね。」
屈託のない直子の笑顔になんと答えるべきか悩み、僕はペットボトルのお茶を一気に流し込んだ。

急ぎの仕事は特になく、珍しく定時で帰宅すると、玄関を開ける前からカレーの匂いがした。
ただいま、のあとに続けて言う台詞を、扉を開ける前から準備する。ふう、と息を吐き出してから
ドアノブに手をかける。
「ただいま。手、洗ってくるね。」
一息で台詞を口から吐き出すと、洗面所へ向かう。予想通り、真由美は振り向かない。

戻ってくると、食卓の上にはカレーライスの他に、トマトとチーズのサラダやきのこのソテーが並んでいる。真由美はもう席について無言でテレビを眺めている。
いただきます、だけを二人で呟くと、無言で食事に入った。
「愛妻家ですね。」直子の言葉が頭に浮かぶ。
真由美は変わった。結婚した頃は、真由美の職場の話や、観ているテレビの話をいつまでも、だらだらと、続けることができた。なんでも言い合えたから、たくさん喧嘩だってした。真由美が失敗した煮物を食べて、まずいねって笑って、二人で仲直りした。真由美の作るおかずはいつも味が濃くて、僕はご飯ばかりかき込んで、もっと薄味が好きだなって文句を言って、それでも真由美は僕を嬉しそうに見ていた。
いつからだっけ。喧嘩しなくなって、話さなくなって、笑い合わなくなって、どれくらいがたったっけ。
考えながらきのこのソテーを口に入れていると、不意に真由美が「ねえ。」と声を発した。身構えたが、「ん?」となるべく優しく返す。
「これさ、お義母さんに教えてもらったの。」
真由美の箸先には、同じくきのこのソテーがつままれている。
そういえば。
真由美の料理は変わった。
今日だって、カレーライスは市販のルーの味だけど、トマトはチーズの味が利いてるから塩をあまり振ってないみたいだし、きのこのソテーはバター風味で甘い香りがする。
あんなにしょっぱいしょっぱいと文句を言っていた真由美の料理。いつの間にか、僕の好みの味付けになっていた。
「いつ実家行ったの。」
返答に困り、なんとなくそう言ってから、しまった、と思った。美味しいねだとか、それでなくてももっと表情豊かに応じてやるんだった。真由美は表情を変えない。
「先週。達也が休日出勤してた日。」
伏し目がちに真由美が答え、僕は先週の行動に思いを巡らせた。確かに土曜日、僕は朝から職場に行き、日が暮れる頃に帰宅した。そういえば、真由美は僕が帰ったとき留守にしていたっけ。
「何か用事があったの?」
「別に。お義母さんとお義姉さんがお茶しようって誘ってくれたから。」
全然、気づかなかった。
いや、気づかなかったんじゃない。知ろうとしなかった。
真由美を見ると、さっきと全く同じ表情でカレーのルーをすくっていた。胸にさっと焦りが広がる。
真由美だけじゃない。僕も、変わってしまった。
前は真由美の帰りが遅ければ心配になったのに。表情が暗ければ、何があったのか気になったのに。
真由美、ごめん。
咄嗟にそう言いかけた。でも、口から言葉が出る直前に、やめた。
一人で僕の実家に行かせたこと、何も聞いてやろうとしなかったこと、料理が上手くなってるのに気づかなかったこと。きっといろんな「僕のせい」があるんだろうけど、どれから謝るべきかもうこんがらがって、自分でも何で謝ってるのかきっとわからなくなるから。
「ありがとう。」
代わりに、そう呟いた。
真由美は表情を変えなかった。

次の日の朝、着替えて顔を洗いリビングに向かうと、真由美はいつものようにおにぎりを握っていた。手際良く形を整えると、アルミホイルで包む。
僕はすぅ、と息を吸い、気合を入れる。
「真由美、ありがとう。」
緊張しながらも、そう呟いた。
相変わらず真由美は無言だ。でも。
これは僕から伝えないといけない。何度でも、伝えないといけない。
「いつも、ありがとう。」
もう一度呟いた僕の手に、真由美がおにぎりを乗せた。
「いってらっしゃい。」
真由美の顔は昨日と同じ表情だ。でも僕は顔がほころぶ思いがした。
「いってきます。」
真由美の目を見て、返事をした。
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