第1話 ゴミ屋敷に還る
文字数 3,975文字
自分が、こうなるとは思っていなかった。
僕が、これほど弱い人間だとは思っていなかった。
会社を辞めた。
これ以上、仕事を続けられなくなったからだ。
心を病んで仕事ができなくなるという、今の世ではありふれすぎて珍しくもない理由だ。どうしてこうなったのか、もはや明確な理由は覚えていない。
上司の叱責、満員電車、幼い娘がいることの重圧、妻のなにげない一言、そして成果を出せない自分が、会社に居続けることが耐えがたかった。
仕事を辞めて、家にいることも辛い。
「大丈夫、今は治療に専念して。私も働きに出るから」
専業主婦を十年続けてきた妻、優子の表情は硬かった。
「お父さん、今日はお仕事行かないの?」
娘の美優の無垢な問いが心を抉る。
僕は、すべてを捨ててしまいたかった。僕が愛してきたすべてが、今や僕を傷つける。少なくとも、東京にいること自体が苦しい。
夜、美優が寝ると、僕は優子の目から逃れるように自分の部屋へ引きこもる。
電気もつけずに、椅子に座ってぼーっとしていると、車の音が遠くに聞こえてくる。
小さく開けた窓からは、ひんやりとした空気が入ってくる。まだ夏には遠い季節だった。
スマホを取りだし、電話帳をフリックしていく。会社の関係者の名前を見ると、頭がずんと重くなる。片端から消していった。
そして、消そうとして止まったひとつの電話番号。
実家の番号だった。愛知県は三河の片田舎。名古屋のような大都会ではなく、どこまでも広がる水田と軽自動車がかろうじて通れるような密集した集落。徒歩ですべてが完結できる町。
父とはぶつかってばかりだった。結婚して娘が生まれてからも、孫の顔を見せに行ったこともない。それなのに、頭の奥がじいんと痛み、いつのまにか涙でスマホの画面がにじんでいた。
その父も、去年死んだ。どうしても葬式に出られなかった。
すがるように、通話ボタンをタップする。
呼び出し音が、何回か繰り返される。そして、突然終わった。
「もしもし? 信明かん。やっとかめじゃん」
母の声だった。数十年の年季の入った三河弁が、胸を締めつける。
「ああ。ちょっと、言わないかんことがあって」
久しく使っていなかった、生まれ育った場所の言葉が口をつく。泣いていることを悟られないよう、ゆっくりと息を吸う。
「何い?」
「僕、仕事辞めた」
母が黙った。僕の覚えている母は、こんなときには反射的に否定し、責める言葉を言い立てる人だったが、老いは少しは人間を変えるのだろうか。
「……ほうか。ほいでどうせるだん」
今度は僕が黙る番だった。どうしようもない。病に苦しみ、失業保険で糊口をしのぎ、妻に働かせ、娘は来年小学校だ。五百万の貯金は、働かないでいれば一年で溶けるだろう。僕が仕事を辞めても、両肩に乗ったままの責任は、一グラムたりとも軽くならない。
「……どうもならん」
眼をぎゅっと閉じる。奥歯を噛みしめる。涙を、嗚咽を必死で止めていた。
「帰っといでん。信明がおるころは、じいちゃんばあちゃんもおって五人で住んどっただで、信明一家が来ても大丈夫だて。ちょう、掃除せないかんけどが」
母の声は穏やかだった。
ああ、僕はずっと、この言葉を聞きたかったのだ。
僕は答えることもできず、スマホに向かって泣き続けていた。
次の日の夜。美優が寝てから、僕はある覚悟を決めて、居間でテレビを見ている優子に声をかけた。
「優子、大事な話がある」
優子は僕の声音にただならぬものを感じたのか、テレビを消しゆっくりと僕に向き直った。緊張しているのか、怒った顔のようにみえる。いや、本当に怒っているのかもしれない。しかし、僕がまだ死を選ばずに生きていくためには、言わなければいけない。
「……なに?」
「ここを引き払って、実家に帰りたい」
一瞬、ぽかんとした顔になった妻は、高鳴る鼓動を鎮めるように胸に手を当てた。
「どうして?」
「もう東京にいたくない。東京で、病気が治るとも思えない。僕は、まだ生きたい」
僕には覚悟があった。命以外のすべてを失う覚悟が。
優子は答えを探しているのか、視線があちこちをさまよう。
「お義父さんと、仲悪いんじゃなかったんだっけ? それに、あなたの実家、結婚してから一度も行ったことないよ。大丈夫なの……?」
遠慮がちに、優子は上目遣いで僕を見る。
「親父は死んだよ。今いるのはお袋だけだ。それで、話というのは……僕と別れてほしいんだ」
「え……!」
妻が眼を見開いて、硬直する。
「もちろん、親権も慰謝料も養育費も渡す。何も心配はいらない。こんな僕に付き合う必要はない」
「な、なんで?」
妻の眼が、寒天のように潤んでいる。どういう気持ちからなのか、僕には判らない。
「僕にはもう、優子と美優の人生を背負うことができないよ。よく聞く話だけど、夫がリストラされたり病気で働けなくなったら、それが理由で離婚することが多いじゃないか。今の僕はまさにそうだ。君には、稼げなくなった僕と一緒に苦労するメリットなんて何ひとつないんだ」
優子は、両手に顔を当てて、しくしくと泣き始めた。
「情けない……」
優子の言葉が、心臓を貫く。
「そのとおりだ。僕は父として夫として、価値を失ってしまったんだ。稼げない男に価値はないんだよ」
「違うよっ! どうして別れるなんて言うの? どうして一緒に来てくれって言ってくれないの? もっと私を頼ってよ! 助けてって言ってよ! そんなに信頼されてなかったの……私、自分が情けないよ」
泣きながらの剣幕に、驚く。しかし、優子が訴えたことそのものが、僕にとって耐えがたい屈辱であることを、決して理解はしないだろう。
「いろいろなことが、変わるよ。東京みたいに便利じゃないし、ママ友とも別れるし、美優は友達とさよならしなくちゃいけない。なにより、一度も会ったこともないお袋と同居するんだよ」
「家族がバラバラになる方が、嫌だよ……」
優子の涙は止まらなかった。そのとき、背後でかたりと音がする。
「けんか、してるの……?」
パジャマ姿の美優が、眼をこすって立っていた。
「いや……」
「美優、お父さんとずっと一緒にいたいよね? お別れしたくないよね?」
みるみるうちに、美優の眼にも涙がにじんでくる。
「お母さん、そんなのやだよう」
美優が妻に抱きついてしゃくりあげる。
「あなた、さっき夫が働けなくなったら離婚が多いって言ってたよね。そうかもしれない。そういうひとが多いのかもしれない。でも、私は違うから」
優子の涙は止まり、まっすぐに僕を見ていた。
僕が黙る番だった。そして、絶望の淵から突き上げる何かが、言葉を紡ぎ出す。
「ありがとう」
僕は、生まれた場所で生きなおす。
ステーションワゴンに当面の着替えと布団を詰めこみ、家具は引越屋で送る。そうして東名高速を西へ西へと走り続けた。インターを降り、地形はなにひとつ変わらない田園地帯を抜ける。水田には、植えたばかりの苗が整然と並んでいた。
そして、町自体が徒歩で生活するための場所として完成しており、区画整理さえできないほど密集した部落の、細い路地を入っていく。離合はもちろん、幅広の車だったら通過することさえできないだろう。
美優は、初めて見る田舎の風景を、興味深げに眺めていた。
そして、高校卒業まで何千回も通った道に入る。
「着いたよ」
「えっ……」
車を降り、実家を見上げた妻は絶句した。
庭に転がるガードレール。山積みにされた古い瓦。土に汚れた何百ものツボ。玄関へとつづくわずかな隙間だけが、かろうじて残っていた。
誰に見せても恥ずかしいゴミ屋敷だ。
「もう、後悔してるんじゃないか? 家の中も似たようなものだ」
僕はほとんど怯えた顔の妻に嗜虐的な悦びをうっすらと感じながら、勝手知ったる我が家の玄関先で声をかけた。
はーい、と廊下の奥で声がする。老いた母が、廊下に無造作に置かれた日本刀や奇妙な木彫り、ビニールテープで巻かれた古書などをえっちらおっちらとよけながら現れた。
「ああ、お帰り」
母は、本当に嬉しそうだった。
「は、初めまして……信明さんの妻の優子です」
「春田美優です」
妻と美優が挨拶をする。母の相好がたちまち崩れた。
「まあ、可愛いこと。早よ上がりん。あんたがとうのために仏間を掃除しただで」
僕は靴を脱いだ。妻と美優は、お化け屋敷に入るかのようにびくびくと着いてくる。
母の案内で仏間に入ると、その部屋だけは確かに畳が見えていた。目の前の仏壇には、忌まわしい父の遺影が安置されている。手を合わせる気はなく、その場にあぐらをかく。
この八畳ある仏間なら、とりあえず三人分の布団は敷けそうだった。妻と美優も、ほっとしたように座った。
「あの……この家は?」
優子がおずおずと母に訊ねる。
「じいさんが、古物屋をやるっちゅうて集めただわ。いっこも売れん買ったけどが」
「それで大学時代、親父といつも大喧嘩だよ。いくつか黙って捨てたら、日本刀で追いかけ回された。それ以来帰ってない」
「そ、そう……」
優子の声が震えていた。今、生きていなくて本当に良かったと思う。
「じいさんが死んでから、わしひとりじゃよう片付けられんもんだん。信明たあが帰ってくるっちゅうでいっしょけんで掃除しただわ」
「……明日から、僕も片付けるよ。親父の痕跡は、残したくない」
「あなた……」
母は、別段僕の言葉を気にした様子はなかった。
「ほうか。こまごま手伝ってくれやあ、病気もじきにようなるだら。今まで働きすぎただで、ちいと休んどりん」
「ああ……なるべく早く、ハローワークで仕事探すよ」
「お母さんの言うとおりよ。しばらくは休んでて。みんなで、生きていきましょ」
「うん!」
美優が元気よく答えた。
そう。生きるために帰ってきた。僕たちは、ここで生きていく。
僕が、これほど弱い人間だとは思っていなかった。
会社を辞めた。
これ以上、仕事を続けられなくなったからだ。
心を病んで仕事ができなくなるという、今の世ではありふれすぎて珍しくもない理由だ。どうしてこうなったのか、もはや明確な理由は覚えていない。
上司の叱責、満員電車、幼い娘がいることの重圧、妻のなにげない一言、そして成果を出せない自分が、会社に居続けることが耐えがたかった。
仕事を辞めて、家にいることも辛い。
「大丈夫、今は治療に専念して。私も働きに出るから」
専業主婦を十年続けてきた妻、優子の表情は硬かった。
「お父さん、今日はお仕事行かないの?」
娘の美優の無垢な問いが心を抉る。
僕は、すべてを捨ててしまいたかった。僕が愛してきたすべてが、今や僕を傷つける。少なくとも、東京にいること自体が苦しい。
夜、美優が寝ると、僕は優子の目から逃れるように自分の部屋へ引きこもる。
電気もつけずに、椅子に座ってぼーっとしていると、車の音が遠くに聞こえてくる。
小さく開けた窓からは、ひんやりとした空気が入ってくる。まだ夏には遠い季節だった。
スマホを取りだし、電話帳をフリックしていく。会社の関係者の名前を見ると、頭がずんと重くなる。片端から消していった。
そして、消そうとして止まったひとつの電話番号。
実家の番号だった。愛知県は三河の片田舎。名古屋のような大都会ではなく、どこまでも広がる水田と軽自動車がかろうじて通れるような密集した集落。徒歩ですべてが完結できる町。
父とはぶつかってばかりだった。結婚して娘が生まれてからも、孫の顔を見せに行ったこともない。それなのに、頭の奥がじいんと痛み、いつのまにか涙でスマホの画面がにじんでいた。
その父も、去年死んだ。どうしても葬式に出られなかった。
すがるように、通話ボタンをタップする。
呼び出し音が、何回か繰り返される。そして、突然終わった。
「もしもし? 信明かん。やっとかめじゃん」
母の声だった。数十年の年季の入った三河弁が、胸を締めつける。
「ああ。ちょっと、言わないかんことがあって」
久しく使っていなかった、生まれ育った場所の言葉が口をつく。泣いていることを悟られないよう、ゆっくりと息を吸う。
「何い?」
「僕、仕事辞めた」
母が黙った。僕の覚えている母は、こんなときには反射的に否定し、責める言葉を言い立てる人だったが、老いは少しは人間を変えるのだろうか。
「……ほうか。ほいでどうせるだん」
今度は僕が黙る番だった。どうしようもない。病に苦しみ、失業保険で糊口をしのぎ、妻に働かせ、娘は来年小学校だ。五百万の貯金は、働かないでいれば一年で溶けるだろう。僕が仕事を辞めても、両肩に乗ったままの責任は、一グラムたりとも軽くならない。
「……どうもならん」
眼をぎゅっと閉じる。奥歯を噛みしめる。涙を、嗚咽を必死で止めていた。
「帰っといでん。信明がおるころは、じいちゃんばあちゃんもおって五人で住んどっただで、信明一家が来ても大丈夫だて。ちょう、掃除せないかんけどが」
母の声は穏やかだった。
ああ、僕はずっと、この言葉を聞きたかったのだ。
僕は答えることもできず、スマホに向かって泣き続けていた。
次の日の夜。美優が寝てから、僕はある覚悟を決めて、居間でテレビを見ている優子に声をかけた。
「優子、大事な話がある」
優子は僕の声音にただならぬものを感じたのか、テレビを消しゆっくりと僕に向き直った。緊張しているのか、怒った顔のようにみえる。いや、本当に怒っているのかもしれない。しかし、僕がまだ死を選ばずに生きていくためには、言わなければいけない。
「……なに?」
「ここを引き払って、実家に帰りたい」
一瞬、ぽかんとした顔になった妻は、高鳴る鼓動を鎮めるように胸に手を当てた。
「どうして?」
「もう東京にいたくない。東京で、病気が治るとも思えない。僕は、まだ生きたい」
僕には覚悟があった。命以外のすべてを失う覚悟が。
優子は答えを探しているのか、視線があちこちをさまよう。
「お義父さんと、仲悪いんじゃなかったんだっけ? それに、あなたの実家、結婚してから一度も行ったことないよ。大丈夫なの……?」
遠慮がちに、優子は上目遣いで僕を見る。
「親父は死んだよ。今いるのはお袋だけだ。それで、話というのは……僕と別れてほしいんだ」
「え……!」
妻が眼を見開いて、硬直する。
「もちろん、親権も慰謝料も養育費も渡す。何も心配はいらない。こんな僕に付き合う必要はない」
「な、なんで?」
妻の眼が、寒天のように潤んでいる。どういう気持ちからなのか、僕には判らない。
「僕にはもう、優子と美優の人生を背負うことができないよ。よく聞く話だけど、夫がリストラされたり病気で働けなくなったら、それが理由で離婚することが多いじゃないか。今の僕はまさにそうだ。君には、稼げなくなった僕と一緒に苦労するメリットなんて何ひとつないんだ」
優子は、両手に顔を当てて、しくしくと泣き始めた。
「情けない……」
優子の言葉が、心臓を貫く。
「そのとおりだ。僕は父として夫として、価値を失ってしまったんだ。稼げない男に価値はないんだよ」
「違うよっ! どうして別れるなんて言うの? どうして一緒に来てくれって言ってくれないの? もっと私を頼ってよ! 助けてって言ってよ! そんなに信頼されてなかったの……私、自分が情けないよ」
泣きながらの剣幕に、驚く。しかし、優子が訴えたことそのものが、僕にとって耐えがたい屈辱であることを、決して理解はしないだろう。
「いろいろなことが、変わるよ。東京みたいに便利じゃないし、ママ友とも別れるし、美優は友達とさよならしなくちゃいけない。なにより、一度も会ったこともないお袋と同居するんだよ」
「家族がバラバラになる方が、嫌だよ……」
優子の涙は止まらなかった。そのとき、背後でかたりと音がする。
「けんか、してるの……?」
パジャマ姿の美優が、眼をこすって立っていた。
「いや……」
「美優、お父さんとずっと一緒にいたいよね? お別れしたくないよね?」
みるみるうちに、美優の眼にも涙がにじんでくる。
「お母さん、そんなのやだよう」
美優が妻に抱きついてしゃくりあげる。
「あなた、さっき夫が働けなくなったら離婚が多いって言ってたよね。そうかもしれない。そういうひとが多いのかもしれない。でも、私は違うから」
優子の涙は止まり、まっすぐに僕を見ていた。
僕が黙る番だった。そして、絶望の淵から突き上げる何かが、言葉を紡ぎ出す。
「ありがとう」
僕は、生まれた場所で生きなおす。
ステーションワゴンに当面の着替えと布団を詰めこみ、家具は引越屋で送る。そうして東名高速を西へ西へと走り続けた。インターを降り、地形はなにひとつ変わらない田園地帯を抜ける。水田には、植えたばかりの苗が整然と並んでいた。
そして、町自体が徒歩で生活するための場所として完成しており、区画整理さえできないほど密集した部落の、細い路地を入っていく。離合はもちろん、幅広の車だったら通過することさえできないだろう。
美優は、初めて見る田舎の風景を、興味深げに眺めていた。
そして、高校卒業まで何千回も通った道に入る。
「着いたよ」
「えっ……」
車を降り、実家を見上げた妻は絶句した。
庭に転がるガードレール。山積みにされた古い瓦。土に汚れた何百ものツボ。玄関へとつづくわずかな隙間だけが、かろうじて残っていた。
誰に見せても恥ずかしいゴミ屋敷だ。
「もう、後悔してるんじゃないか? 家の中も似たようなものだ」
僕はほとんど怯えた顔の妻に嗜虐的な悦びをうっすらと感じながら、勝手知ったる我が家の玄関先で声をかけた。
はーい、と廊下の奥で声がする。老いた母が、廊下に無造作に置かれた日本刀や奇妙な木彫り、ビニールテープで巻かれた古書などをえっちらおっちらとよけながら現れた。
「ああ、お帰り」
母は、本当に嬉しそうだった。
「は、初めまして……信明さんの妻の優子です」
「春田美優です」
妻と美優が挨拶をする。母の相好がたちまち崩れた。
「まあ、可愛いこと。早よ上がりん。あんたがとうのために仏間を掃除しただで」
僕は靴を脱いだ。妻と美優は、お化け屋敷に入るかのようにびくびくと着いてくる。
母の案内で仏間に入ると、その部屋だけは確かに畳が見えていた。目の前の仏壇には、忌まわしい父の遺影が安置されている。手を合わせる気はなく、その場にあぐらをかく。
この八畳ある仏間なら、とりあえず三人分の布団は敷けそうだった。妻と美優も、ほっとしたように座った。
「あの……この家は?」
優子がおずおずと母に訊ねる。
「じいさんが、古物屋をやるっちゅうて集めただわ。いっこも売れん買ったけどが」
「それで大学時代、親父といつも大喧嘩だよ。いくつか黙って捨てたら、日本刀で追いかけ回された。それ以来帰ってない」
「そ、そう……」
優子の声が震えていた。今、生きていなくて本当に良かったと思う。
「じいさんが死んでから、わしひとりじゃよう片付けられんもんだん。信明たあが帰ってくるっちゅうでいっしょけんで掃除しただわ」
「……明日から、僕も片付けるよ。親父の痕跡は、残したくない」
「あなた……」
母は、別段僕の言葉を気にした様子はなかった。
「ほうか。こまごま手伝ってくれやあ、病気もじきにようなるだら。今まで働きすぎただで、ちいと休んどりん」
「ああ……なるべく早く、ハローワークで仕事探すよ」
「お母さんの言うとおりよ。しばらくは休んでて。みんなで、生きていきましょ」
「うん!」
美優が元気よく答えた。
そう。生きるために帰ってきた。僕たちは、ここで生きていく。