第5話 客室での死闘
文字数 1,833文字
男はすぐには戻ってこなかった。
「あの人、ちょっと薄気味悪い」
希美 が両腕をさすりながら呟いた。
「ムカデを素手で捕まえようだなんて、刺されることが分からないのかな」
「いや、ムカデの姿を探すのに必死だったから、道具を出すのを忘れていただけだろう」
「道具? ムカデが出た、と電話をしたのに手ぶらだったじゃん」
「いや、懐中電灯は持ってきていたよ。――あまり役に立っていなかったけど」
壮太 は妻に無理に笑って見せた。成り行きとはいえ、自身が男に代わって言い訳していることが我ながら滑稽 だった。
待つこと数分、男が五段の脚立を抱えて登場した。スウェットのポケットからは市販の殺虫剤のスプレー缶がはみ出ている。
男はサイドボードの前で脚立を立てると、上から二段目の踏み桟 に足を置いて立ち上がった。男の位置はサイドボードの上に立っていたときよりも高い。梁 を上から見下ろすことができるようになった。
男の気配を感じ取ったのか、ムカデは梁を伝って柱へと戻った。男は左手に殺虫剤、右手にティッシュを持って、柱に顔を近づける。
なぜ先に殺虫剤を噴霧しないのか、と壮太は訝 しがった。男の位置からはムカデが見えているはずで、そんなに顔を壁に近づけてどうしようというのだ。
男の左手が前に伸びた。殺虫剤を吹きかけるのか。いや違う。男はスプレー缶を逆さにして握っていた。
何をやるのか、と壮太が思った瞬間、男はスプレー缶を柱に打ち付けた。ガンという硬い音とともに、部屋中の調度品が振動した。
「落ちた」男が叫んだ。
「どこに落ちたの?」陽莉 が壮太に訊く。しかし壮太はムカデの姿を見失っていた。
「どこだ、どこだ」男が脚立の上から周りを見下ろしている。
「どこに落ちた? 誰か見ていたか?」
希美が脚立の横からおそるおそるサイドボードの上を覗き込み、首を横に振った。壮太も床を捜すが、ムカデの姿はない。
「梁の隙間に落ちたのかな」
「そうかも」
夫婦のやり取りに男は頷くと、梁と壁の隙間に指を突っ込んだ。がさがさと音を立てて指を動かすのを見て、壮太は絶句する。
刺されるって――。
ふと横を見ると、陽莉は目を大きく開き、両手で口を覆っている。今この瞬間は、ムカデよりも男の方がよっぽど怖いに違いない。
「いない。いないぞ」男が呻いた。
「あっ」希美が声を上げた。「いたよ。ほら、おじさんの腰の高さの辺り」
見ればムカデは梁よりも一メートルほど下の壁に貼り付いていた。叩かれた時に落下したものの、途中で引っ掛かったのだろう。
だが様子がおかしい。身体の半分が壁から剥 がれ、だらんと下に垂れさがっている。
「ここにいたのか」
男が脚立を降りようとした時、ムカデは音を立てずにサイドボードの端に落ちた。
すると男はジャンプして脚立から降りた。見た目から想像もできない軽い身のこなしだった。
ムカデは畳まで落下した。壮太の布団のすぐ近くだ。そこに男の大きな背中が壁となって降ってきた。
男は立ち膝になり、スプレー缶を高く掲げるや一気に床に振り下ろした。鈍い音とともに、「やったぞ」と低く呟く声が聞こえた。
男はスプレー缶を置くと、前屈みになった。
なぜかこのとき、壮太の頭の中には男が四つん這 いになってムカデに食らいつくイメージが浮かんできた。
もちろん、そうはならなかった。男はティッシュでムカデの身体を包み取り、それを右手の中に納めると立ち上がった。
「これで安心だな」
男は白い歯を見せると、言葉を無くしたままの三人をそっちのけに脚立を畳んだ。
「じゃあ、戻る」
男は丸めたティッシュを右手に握ったまま、脚立を軽々と脇に抱えた。
呆然としていた壮太だが、はっとして男を呼び止めた。
「あの、殺虫剤を使わなかったね。どうして?」
「渋味が出て食べたくなくなるからな」
「ええっ?」
壮太、希美、陽莉の三人が同時に声を上げていた。
男は入口の襖に手を掛けていたが、三人の声に動きを止めて振り返る。
男の目線が右に行き、上に行き、下に向き、最後に壮太の目を捉 えた。
その時、男がにやりと笑ったように見えた。壮太は背筋に寒気を感じて身体を震わせた。
男は前室で希美と短い会話を交わすと、客室を後にした。
やがて、ドアの施錠をした希美が部屋に戻ってきた。
「これで眠れるかしら」
陽莉は「全然、無理」と言って上掛け布団を頭から被った。
それは壮太も同じだった。下がった体温は容易には戻らない。彼の頭の中では男の吐いた言葉がグルグルと回った。
「あの人、ちょっと薄気味悪い」
「ムカデを素手で捕まえようだなんて、刺されることが分からないのかな」
「いや、ムカデの姿を探すのに必死だったから、道具を出すのを忘れていただけだろう」
「道具? ムカデが出た、と電話をしたのに手ぶらだったじゃん」
「いや、懐中電灯は持ってきていたよ。――あまり役に立っていなかったけど」
待つこと数分、男が五段の脚立を抱えて登場した。スウェットのポケットからは市販の殺虫剤のスプレー缶がはみ出ている。
男はサイドボードの前で脚立を立てると、上から二段目の踏み
男の気配を感じ取ったのか、ムカデは梁を伝って柱へと戻った。男は左手に殺虫剤、右手にティッシュを持って、柱に顔を近づける。
なぜ先に殺虫剤を噴霧しないのか、と壮太は
男の左手が前に伸びた。殺虫剤を吹きかけるのか。いや違う。男はスプレー缶を逆さにして握っていた。
何をやるのか、と壮太が思った瞬間、男はスプレー缶を柱に打ち付けた。ガンという硬い音とともに、部屋中の調度品が振動した。
「落ちた」男が叫んだ。
「どこに落ちたの?」
「どこだ、どこだ」男が脚立の上から周りを見下ろしている。
「どこに落ちた? 誰か見ていたか?」
希美が脚立の横からおそるおそるサイドボードの上を覗き込み、首を横に振った。壮太も床を捜すが、ムカデの姿はない。
「梁の隙間に落ちたのかな」
「そうかも」
夫婦のやり取りに男は頷くと、梁と壁の隙間に指を突っ込んだ。がさがさと音を立てて指を動かすのを見て、壮太は絶句する。
刺されるって――。
ふと横を見ると、陽莉は目を大きく開き、両手で口を覆っている。今この瞬間は、ムカデよりも男の方がよっぽど怖いに違いない。
「いない。いないぞ」男が呻いた。
「あっ」希美が声を上げた。「いたよ。ほら、おじさんの腰の高さの辺り」
見ればムカデは梁よりも一メートルほど下の壁に貼り付いていた。叩かれた時に落下したものの、途中で引っ掛かったのだろう。
だが様子がおかしい。身体の半分が壁から
「ここにいたのか」
男が脚立を降りようとした時、ムカデは音を立てずにサイドボードの端に落ちた。
すると男はジャンプして脚立から降りた。見た目から想像もできない軽い身のこなしだった。
ムカデは畳まで落下した。壮太の布団のすぐ近くだ。そこに男の大きな背中が壁となって降ってきた。
男は立ち膝になり、スプレー缶を高く掲げるや一気に床に振り下ろした。鈍い音とともに、「やったぞ」と低く呟く声が聞こえた。
男はスプレー缶を置くと、前屈みになった。
なぜかこのとき、壮太の頭の中には男が四つん
もちろん、そうはならなかった。男はティッシュでムカデの身体を包み取り、それを右手の中に納めると立ち上がった。
「これで安心だな」
男は白い歯を見せると、言葉を無くしたままの三人をそっちのけに脚立を畳んだ。
「じゃあ、戻る」
男は丸めたティッシュを右手に握ったまま、脚立を軽々と脇に抱えた。
呆然としていた壮太だが、はっとして男を呼び止めた。
「あの、殺虫剤を使わなかったね。どうして?」
「渋味が出て食べたくなくなるからな」
「ええっ?」
壮太、希美、陽莉の三人が同時に声を上げていた。
男は入口の襖に手を掛けていたが、三人の声に動きを止めて振り返る。
男の目線が右に行き、上に行き、下に向き、最後に壮太の目を
その時、男がにやりと笑ったように見えた。壮太は背筋に寒気を感じて身体を震わせた。
男は前室で希美と短い会話を交わすと、客室を後にした。
やがて、ドアの施錠をした希美が部屋に戻ってきた。
「これで眠れるかしら」
陽莉は「全然、無理」と言って上掛け布団を頭から被った。
それは壮太も同じだった。下がった体温は容易には戻らない。彼の頭の中では男の吐いた言葉がグルグルと回った。