第3話 フロントに連絡してから
文字数 1,964文字
ムカデに黒い柱の上を動かれると、人間の目にはもはや姿が追えない。ただ、触覚が柱からはみ出て白い漆喰 の背景の前でゆらりゆらりと動いてくれるので、壮太 はかろうじて位置を知ることができた。
「姿が見えなければ退治ができないよ」
希美 は壁を睨みながらサイドボードの手前まで歩いていった。見れば手には室内用のスリッパが握られている。壮太はぎょっとした。
「希美、お前スリッパでムカデと戦うのか?」
「そうね、でも私にはムカデの居場所がまだ見つからない」
妻は戦うことを否定していない。壮太は頼もしいと思う反面、少し心配になった。
希美はサイドボードに体重を乗せると、首を伸ばして顔を壁に近づけた。それでもムカデの姿を確認できないらしく、彼女は「どこ?」と漏らす。
その時だ。妻の頭上では、ムカデが漆喰の表面に姿を見せた。陽莉 が金切り声を上げる。
「ママ、すぐ上にいるよ。落ちてきたらどうするの。早く離れてよ」
ムカデは柱から完全に離れ、漆喰の壁を這って横に移動し始めた。
「ほら、今なら見えるぞ」
壮太は希美に声を掛けた。
「あ、本当だ」
希美は身体を引っ込めたが、サイドボードの前でムカデの観察を続ける。
その手がスリッパを握り直したときだ。
「ママには無理だよ」
陽莉がベッドから飛び出して母親の浴衣 を引っ張り、自分のベッドまで退却させた。
下界での騒動を知ってか知らずか、ムカデはまた柱に戻る。そして頭の部分だけを漆喰の上に出して動きを止めた。
「どうしようか。このままでは陽莉も私も眠れないよ」
希美は指先をもじもじさせながら、壮太に期待するような目を向けた。「あなたは駆除できるよね?」
「殺虫剤だな」壮太は妻の行動を見ていて作戦を思いついていた。
「やっぱり素手で対抗するのは危険だよ。フロントに電話をして殺虫剤を持ってきてもらおう」
「フロントに殺虫剤があるかしら」
「そりゃあ、あるだろうよ。こんな大自然の中の旅館なんだから」
部屋の内線電話はサイドテーブルの上にあった。壮太は希美が電話をするのを待ったが、妻はベッドから動こうとせず、壮太の顔を見ている。
「どうしたんだ。早く電話しろよ」
「あなたが電話をしてよ。ムカデが落ちてくるかも知れないから私は嫌よ」
ついさっきはサイドボード越しに壁に顔を近づけても平気だったくせに、急に弱気になったのか。壮太がそう指摘すると、希美は「あの時はまだムカデを見つけられなかったから」と意に介する様子はない。
壮太はむっとした。スリッパでムカデと対決しようとしていたのは誰だっけ?
「パパ、何をしているの。さっさと早く電話をしてよ」
焦れた陽莉が壮太を急かしてきた。苛立ちで身体が小刻みに揺れている。
「ぐうむ」
壮太は言葉にならない唸り声を吐いて布団から出ると、サイドボードの上の電話機を取った。
決してムカデが怖いわけではないが、できれば触手には触れたくはない。壮太は電話機を引っ張ったが、テレビスタンドにコードが引っかかってしまい、思いのほか距離を取ることができなかった。
「パパの頭の上にムカデが出てきた」
陽莉が叫んだ。「あっ、でもまた柱の中に入っちゃったよ」
「柱の中に入ったわけじゃない」壮太はイライラしながらも冷静に訂正した。「柱の陰に隠れたんだろ」
壮太はコードを伸ばすのを諦め、身体を斜めに伸ばした姿勢でフロントの番号を押す。呼び出し音が流れている間、頭上二メートルにいる虫の動きを警戒したが、梁 の上の柱に同化していて、姿を見つけられなかった。
電話はなかなかつながらなかった。呼び出し音が十回を数えたところで壮太はいったん受話器を置き、再度掛け直す。
「夜中だから、フロントには誰もいないのかな」
希美が心配そうな顔をした。
「そんなわけはないよ。旅館にはナイトフロントという夜勤の人がいるんだよ。ただし、寝ている可能性があるけど」
二回目は呼び出し音が六回目で相手が出た。
「何か御用でしょうか」男の声だった。
「部屋に大きなムカデが出たんですよ。このままでは家族が眠れないので、殺虫剤があれば……」
壮太は話をしているうちに気が変わった。
「いや、駆除してもらえませんか」
「ムカデですか。――分かりました。すぐに部屋にお伺いします」
電話を終えた壮太は、布団の上に倒れ込んだ。壁から離れると、正面の黒い柱が膨らんだり凹んだりしているのが見える。そして妖 しく旋回する触覚。ムカデは頭を下にして貼り付いているようだ。
電話から一分も経たないうちにドアがノックする音が聞こえ、希美が慌てて前室に走り出た。お約束のように妻が襖 に身体をぶつけた時には、壮太は思わず吹き出す。
前室からは男の声が聞こえてきた。さっきの電話の相手だろうか。
程無 く室内に明かりが灯ると、襖が大きく開き、眼鏡をかけた男が入ってきた。
「姿が見えなければ退治ができないよ」
「希美、お前スリッパでムカデと戦うのか?」
「そうね、でも私にはムカデの居場所がまだ見つからない」
妻は戦うことを否定していない。壮太は頼もしいと思う反面、少し心配になった。
希美はサイドボードに体重を乗せると、首を伸ばして顔を壁に近づけた。それでもムカデの姿を確認できないらしく、彼女は「どこ?」と漏らす。
その時だ。妻の頭上では、ムカデが漆喰の表面に姿を見せた。
「ママ、すぐ上にいるよ。落ちてきたらどうするの。早く離れてよ」
ムカデは柱から完全に離れ、漆喰の壁を這って横に移動し始めた。
「ほら、今なら見えるぞ」
壮太は希美に声を掛けた。
「あ、本当だ」
希美は身体を引っ込めたが、サイドボードの前でムカデの観察を続ける。
その手がスリッパを握り直したときだ。
「ママには無理だよ」
陽莉がベッドから飛び出して母親の
下界での騒動を知ってか知らずか、ムカデはまた柱に戻る。そして頭の部分だけを漆喰の上に出して動きを止めた。
「どうしようか。このままでは陽莉も私も眠れないよ」
希美は指先をもじもじさせながら、壮太に期待するような目を向けた。「あなたは駆除できるよね?」
「殺虫剤だな」壮太は妻の行動を見ていて作戦を思いついていた。
「やっぱり素手で対抗するのは危険だよ。フロントに電話をして殺虫剤を持ってきてもらおう」
「フロントに殺虫剤があるかしら」
「そりゃあ、あるだろうよ。こんな大自然の中の旅館なんだから」
部屋の内線電話はサイドテーブルの上にあった。壮太は希美が電話をするのを待ったが、妻はベッドから動こうとせず、壮太の顔を見ている。
「どうしたんだ。早く電話しろよ」
「あなたが電話をしてよ。ムカデが落ちてくるかも知れないから私は嫌よ」
ついさっきはサイドボード越しに壁に顔を近づけても平気だったくせに、急に弱気になったのか。壮太がそう指摘すると、希美は「あの時はまだムカデを見つけられなかったから」と意に介する様子はない。
壮太はむっとした。スリッパでムカデと対決しようとしていたのは誰だっけ?
「パパ、何をしているの。さっさと早く電話をしてよ」
焦れた陽莉が壮太を急かしてきた。苛立ちで身体が小刻みに揺れている。
「ぐうむ」
壮太は言葉にならない唸り声を吐いて布団から出ると、サイドボードの上の電話機を取った。
決してムカデが怖いわけではないが、できれば触手には触れたくはない。壮太は電話機を引っ張ったが、テレビスタンドにコードが引っかかってしまい、思いのほか距離を取ることができなかった。
「パパの頭の上にムカデが出てきた」
陽莉が叫んだ。「あっ、でもまた柱の中に入っちゃったよ」
「柱の中に入ったわけじゃない」壮太はイライラしながらも冷静に訂正した。「柱の陰に隠れたんだろ」
壮太はコードを伸ばすのを諦め、身体を斜めに伸ばした姿勢でフロントの番号を押す。呼び出し音が流れている間、頭上二メートルにいる虫の動きを警戒したが、
電話はなかなかつながらなかった。呼び出し音が十回を数えたところで壮太はいったん受話器を置き、再度掛け直す。
「夜中だから、フロントには誰もいないのかな」
希美が心配そうな顔をした。
「そんなわけはないよ。旅館にはナイトフロントという夜勤の人がいるんだよ。ただし、寝ている可能性があるけど」
二回目は呼び出し音が六回目で相手が出た。
「何か御用でしょうか」男の声だった。
「部屋に大きなムカデが出たんですよ。このままでは家族が眠れないので、殺虫剤があれば……」
壮太は話をしているうちに気が変わった。
「いや、駆除してもらえませんか」
「ムカデですか。――分かりました。すぐに部屋にお伺いします」
電話を終えた壮太は、布団の上に倒れ込んだ。壁から離れると、正面の黒い柱が膨らんだり凹んだりしているのが見える。そして
電話から一分も経たないうちにドアがノックする音が聞こえ、希美が慌てて前室に走り出た。お約束のように妻が
前室からは男の声が聞こえてきた。さっきの電話の相手だろうか。