第3話 婚姻

文字数 3,633文字

 キヨは中学校を卒業し、家業の商家を手伝い始めた。家では寡黙で言葉数も少なかったが、店先に立つとコロッと豹変したのだ。にこやかに接客をこなし、その上に商品の説明も上手かった。近所では評判となり、キヨが推薦する商品は何でも飛ぶ様に売れた。その器量の良さで噂が噂を呼んで、キヨ見たさに客が訪れる事も珍しくは無かった。年頃の子息が居る客からは、是非にと見合い話を持ち掛けられる事も、一度や二度では無かった。だが、その度にキヨはこう言って辞退をした。
「未だ未だ未熟者ですけぇ、もうちっと精進するまで待って遣わさい。」
その言葉に、奥ゆかしい素晴らしい女性だと評価する声も多かった。だが、本当の所はキヨ自身が康市への罪悪感から逃れられず、己に結婚等は赦されないと感じていたのだ。末弟を死に至らしめた己には、結婚等という幸福を味わう事は赦されてはいないと……。

 或る日、軍服を着た一人の男が店を訪れた。この辺りでは、非常に珍しい出で立ちであり、キヨも驚きを隠せぬまま接客に当たった。
「い、いらっ……しゃいませ。ご入用の物はごぜぇますか?」
キヨがそう言うと、焦点の定まらぬ目で軍服の男はこう言った。
「……だ、大福、大福をくれんか。」
キヨがどの種類が良いのか、幾つ要るのかを尋ねても、返って来る言葉は全て同じであった。
「ま、任せる!」
キヨは内心、『何じゃ、変な人じゃなぁ。ずっと目がグルグル回っとるし、軍人さんいうんは、あねぇな変な人の集まりなんじゃろうか。』と思いつつも、店で取り扱う五種類の大福を一つずつ紙に包んで渡した。会計を受け取る際も様子が可笑しく、キヨはその軍服の男が本当に心配になり始めた。
 それきり、その男は店を訪れる事は無かった。キヨもすっかりとその男の事は忘れ去り、二度と思い出す事も無かった。

 それから三ヶ月程経った頃、ハルが大慌てで何かを手に握ってキヨの元へ駆け込んで来た。
「大事じゃ、大事じゃで!」
キヨは何事かと思い、一先ずはハルを座らせて落ち着かせようとしたが、ハルは落ち着くどころか更に興奮し始めた。
「キヨ、軍人さんじゃ!軍人さんが言うて来とる!結婚してぇんじゃと!」
良く内容が理解出来ぬまま、キヨはハルの手に在った物を受け取って、さっと目を通した。それは、或る家からの見合いの申し出であった。その時、間に挟み込まれていた何かがするりと滑り落ちた。拾い上げて確認すると、それは以前に店を訪れた様子の可笑しい軍人の写真であった。
「……何じゃ。」
思わずキヨの口から漏れた言葉であった。
 キヨはこの時、既に二十七歳を迎えており、当時としては結婚適齢期はとうに過ぎていた。

 それから更に半年後、キヨはその軍人の元に嫁いだ。高梁市成羽町下原の出で、代々軍人を輩出する家柄であった。
 軍人の名は山野清一といい、父親は既に亡くなってはいたが、日露戦争で武功を挙げた軍人であった。母親はとても気難しく、勝気なキヨとは折り合いが悪かった様で、幾度と無く衝突を繰り返していた。元来、嫁姑問題というのは面白可笑しく揶揄されもするが、山野家では取り分け酷い部類であった。揉め事が起こる度に清一が二人の間を取り持ち、何とか家族としての体裁を保っていた。
 翌年、キヨの妊娠が発覚し、一時は姑の態度も軟化した。このまま平穏な時が過ぎて行くかに思われたが、そんな折、清一の中国湖北省での武漢作戦への参加が決まった。第十師団歩兵第十連隊にて、大隊の指揮官として参加する事となった。
「済まんな……こんな時に、近ぅに居ってやれなんで。早う終わらせて帰って来るけぇな。」
そう言ってキヨと腹の子を残し、清一は任地へと赴いた。不安な思いの中、キヨの初めての出産日は近付いていた。

 盛夏の候の或る日、明け方にキヨが産気付き、山野家には産婆が呼ばれた。当時としては高齢での初産ではあったが、夕方頃、元気な産声を上げて嬰児が生まれた。
「元気なおなごん子ですけぇね。」
産婆のその言葉を聞いた瞬間、キヨは一瞬、身が縮こまる思いがした。『儂ぁ、おとこん子を産めんかったんじゃ。』と。だが、キヨの予想に反して、姑の声は非常に上機嫌であった。
「まぁまぁ、清一にそっくりな可愛えぇ子じゃ。将来、ぼっこう別嬪さんになるでぇ。やっぱり、最初はおなごん子が良えねぇ。キヨさん、ほんま良うやったわ。」
 嬰児は文子と名付けられた。七月に生まれたので、文月の『文』の字から名を取ったのだ。その年の秋頃には、武漢作戦終了の知らせと共に、文子の誕生を祝う電報が清一から送られていた。キヨは今か今かと、清一の帰りを心待ちにしていた。文子も父親に抱いて貰うのを待っていると思うと、文子をあやすキヨの声にも張りが感じられた。姑も例外では無く、何かとキヨと文子を気遣って声を掛けた。子は鎹とは良く言うが、これは夫婦間のみならず、嫁姑間の仲も取り持つ役割を果たしていた。

 そんな平和な時だった。清一の戦死を知らせる電報が届いた。武漢作戦終了後に向かった満州での警備中に、モンゴル兵の奇襲に遭ったとの事であった。
 文子が掴まり立ちを卒業し、漸く一人歩きが出来る様になった頃で、キヨも姑もその知らせに茫然自失とした。
「……嘘じゃ、嘘じゃ、嘘じゃ!そげん電報は間違いじゃ!」
姑は叫びながら、部屋の中をうろうろと彷徨い歩いている。
「……。」
キヨは何も言葉にする事が出来ず、只々、父親の死も理解出来ずに燥ぐ文子を抱き締めるのみであった。この時の事を、キヨは何十年も後になっても後悔していた。『何して儂ぁ、あん時に清一さんを引き留めんかったんじゃろうか……。儂が何とかして引き留めとれば、こげん事にはならんかった筈じゃ……。』と。
 清一戦死の知らせから数ヵ月後、山野家に一つの包みが届けられた。白い布で包まれた木箱で、蓋を開けると、其処には真っ白い骨壷が入っていた。それを見た瞬間、姑は奇声を発してその場で蹲った。
「嫌じゃぁーーーーー!嫌じゃ、嫌じゃ、嫌じゃぁぁーーーーー!」
近所にも響き渡る様な大声であったが、キヨには全く気にならなかった。いや、気にしている余裕等無かったのだ。あまりの事に腰を抜かして、その場にへたり込んでしまったキヨは、匍匐前進で骨壷の前まで来ると、震える手でそっとその蓋を開けた。中には白い骨が幾つも入っており、とても清一のものとは信じ難かった。だが、周囲の状況が、戦争という時代が、それを信じさせようと全力で襲い掛かった。
「何して……何してじゃ……清一さん、何してじゃぁぁ!」
 そんな様子を傍らで見ていた文子は、意味も解らずに母親を求めて、未だ辿々しい歩みでキヨの膝に擦り寄って来た。だが、只ならぬ母親の様子に不安を感じてか、大声を上げて泣き始めてしまったのだ。其処で初めて、キヨは自身の母親としての役目を思い出した。慌てて文子を抱き上げると、その頬に自身の頬を摺り寄せて、止め処なく大粒の涙を溢した。キヨのその姿は、子供をあやす母親というよりは、言い知れぬ不安に泣きじゃくる幼子そのものだった。
 キヨは、未だ幼い我が子にもさえも、救いを求める程の心理状況だったのだ。後日、このキヨの不安な思いは現実となる。

 夫を失ったキヨは、実家に帰される事となった。
 この時代の女が、夫を戦争で亡くして実家に戻る事は良く有る事であり、キヨもその例外では無かった。夫に未婚の兄弟が有れば、その兄弟と再婚する事も有ったが、清一は山野家唯一の男児だったのだ。キヨが山野家から実家に戻る日取りが決まった日、或る事を姑に言い渡された。
「文子は置いて行って貰いますけぇね。」
それを聞いたキヨは、直ぐ様に反発した。
「いいえ、文子は儂の子です!儂が育てますけぇ!」
姑は目の前の机に勢い良く、札束を叩き付けた。
「おなごが一人、子を抱えて生きて行けますかいな。お前さんが、この子を育てて行ける保証は何処に有るんじゃ?」
姑の言う事は理に適っていた。この時代、女が一人で子を養う事は不可能に近かった。経済的な問題以上に、世間の目がそれを赦さなかった。

 キヨは、姑に言われるがままに家を出る事となった。出立の日、玄関先で姑が声を掛けて来た。
「ほんじゃあ、元気で良うやりんさいな……。」
そう言って背を向けて去る姑に、キヨは大声で怒鳴り付けた。もう、普段のキヨの様子ではない。
「貴様が、貴様が儂から何もかんも奪うてしもうたんじゃ。鬼じゃ!貴様は鬼じゃ!良う覚えとれ、儂ぁ必ず取り戻すけぇ!良う覚えとれぇよ!」
姑は一瞬、酷く驚いた様な悲しい様な表情をした後、何も言わずに家の中に入って行った。キヨは傍らに在った庭石の砂利を手で掴むと、それを口の中に入れてガリガリと音を立てて噛み砕いた。
「良う覚えとれぇよ、この恨みは決して忘れんけぇな。」
口から血を滴らせ、そう誓うキヨは正しく鬼の形相であった。姑を鬼と罵ったキヨであったが、この時、本当に鬼になったのは、キヨ自身であった。
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