第7話 清音

文字数 2,685文字

 昭和五十四年、清美子の子供は無事に生まれ、清音と名付けられた。清美子の『清』の字と慣れ親しんだ伯備線の駅名からだ。清音は嬰児としてはかなり大柄で、出生時の体重は四キロ近く、清美子に並外れた生みの苦しみを強いた。祖父である竹蔵の血を強く引いているのだと、清美子は思った。
 清美子は清音を三歳になる前から保育園に預け、近所の珍味製造会社にてパートの仕事を始めた。面接の際に、清美子の経歴と人柄を見た面接担当者から『正社員ではどうか?』と何度も打診されたが、頑なに清美子は断った。子を抱えての勤務では、会社に迷惑を掛けるのではないかと思ったのだ。実際、清音は二日に一度は熱を出し、保育園から迎えに来る様に連絡が有った。清美子はその度に、会社から一時間の休憩を貰った。清音を保育園に迎えに行って、自転車で大急ぎで自宅まで送り届け、寝かし付けてから会社に戻った。
「本に済んません。いつもご迷惑をお掛けして……。」
その度に清美子は、直属の上司である田川に頭を下げた。地方の小さな会社なので、直属の上司=社長であった。
「あぁ、構わん、構わん。子供が居るんじゃから、そげぇな事は気にせんでも良え。おぉ、一寸待っとれぇよ。」
そう言って事務所内に戻った田川は、暫くすると手提げサイズの箱を持って戻って来た。それを清美子に手渡しながら言った。
「お中元で貰うたんじゃが、ゼリーばぁ仰山有ってなぁ。清音ちゃんに一箱どうじゃ?」
仕事を中座した事を責めるどころか、熱を出した清音を気遣ってくれたのだ。
「……本にありがとうございます。いつもいつも。」
清美子の事情を解った上で、何も言わずに働かせてくれるこの会社に、当然の事ながら感謝の気持ちで一杯だった。その上に、子供の様子まで気遣ってくれたのだ。

 昭和の時代、女性が一人で子育てをしながら働くという事は、紛れも無く異質な事であった。何か余程の重大事が無ければ、子供の居る女性が働きに出る事は有り得なかった。清音が入った小学校でもそうであった。小学校入学時に、母親が働いている家庭はクラスで清音一人であり、それはつまり、母子家庭の子供はクラスで清音一人だという事であった。そして、女性の稼ぎでは男性のそれには及ばず、日々の生活にも経済格差が現れた。
 その所為で、清音は虐めにも良く遭った。靴下の穴を糸で縢った部分を嘲笑される事は日常茶飯事で、清音は反発する事さえも面倒臭くなっていた。下校時に跡をつけて住まいを特定し、アパートの身窄らしさを笑いのネタにされる事も、清音にとっては日課の一部となっていた。朝から夜まで働き詰めで、帰宅してからはフラフラしながら家事をする清美子には、清音は到底相談出来ないと思った。多数の虐めの中でも、取り分け清音が赦せなかった事は、母子家庭を理由に笑いものにされる事だった。
 クラス替えの度に、各家庭には有事の際の連絡網が配布された。保護者のフルネームと電話番号、連絡の順番が記されている一枚もののプリントだ。清音はこれが配布される度に、いつも殺気立った。母親の名が記されている事で、何か言われるのではないかと……。小学四年生のクラス替えの時だった。清音のこの恐ろしい予感は見事に的中し、一人の男子児童が清音に笑いながら訊いて来た。
「何で小沢んとこは、お母さんの名前なんじゃ?お父さんが居らんのか?なぁ、何でお父さんが居らんの?」
そう言われた瞬間、清音の中で何かが弾けた。問い掛けて来た男子児童を押し倒して馬乗りになり、その顔面を両の拳で殴打し続けた。一切の容赦は無かった。男子児童は声にもならぬ声を出して泣き叫び、危険を察知した他の児童が呼びに行った教師に依って、漸く清音の殴打は停止させられた。その時、清音は泣き叫ぶでも涙を流すでも無く、只々、無表情なままであった。

 後日、清美子は学校に呼び出された。仕事を休んでの事であった。同席していた清音が、担任が来るのを待つ間にポツリと言った。
「母さん、ごめん……。でもこれは、母さんの仕事の邪魔をした事に対してじゃから。……殴った事に対しては、絶対に謝らんから……。」
清音の言葉に何かを言おうとした清美子だったが、その時、教室の扉が開いて担任が入って来た。
「こ、この度は……この子が……誠に……申し訳……。」
慌てて立ち上がった清美子は、担任に向かって頭を下げた。
「まぁまぁ、お母さん。先ずは落ち着いてお話をしましょうか。」
そう言われて清美子が腰を下ろすと、担任は今回の件についての概要を話し始めた。清音はじっと無表情で聞いているだけであった。
「……では、……児童への……謝罪は……。」
『謝罪』という言葉が耳に入り、清音は慌てて口を挟んだ。
「謝罪?誰に?謝罪なんてしません!悪いのは母子家庭である事を嗤った奴です!そして、もっと悪いのは貴方達学校側です!」
清美子が清音の腕を掴んで、何とか落ち着かせようとしたが、それは全くの意味を持たなかった。寧ろ、清音の感情に油を注いでしまった。
「母さん、黙っといてぇや!いつまで我慢せにゃならんのじゃ!私は言うた!昨年も、一昨年もじゃ!何で保護者のフルネームを書かんといけんのか、何で児童の名前だけじゃいけんのか、クラス替えが有る度に担任の先生に何度も言うた!私等母子家庭の子供は、あの紙が配られる度に地獄に突き落とされとる!学校や先生等が、私等に虐めの火種を齎しとるんじゃ!」
清美子は愕然とした。喚き散らす清音に……では無い。清美子の知らぬ所で清音が虐めに苦しみ、そして小学生で有りながらも学校に何度も嘆願していた事、更にはその嘆願が受け入れられなかった事。
「……怪我をさせた児童への謝罪はします。ですが、連絡網の記載については、私からも一言申し上げたいと思います。貴方方学校側の配慮が足りない所為で、今後も同様の事態が起きないとは言えません。今一度、ご検討頂けないでしょうか?」
そう言い放った清美子の目は、謝罪に来た保護者の目では無かった。

 翌年のクラス替えで、初めて児童の名前だけの連絡網が配布された。
「お前さ、変な奴じゃけぇど……凄ぇな。……ありがとうな。ほんじゃ、そんだけ!」
いきなりクラスの或る男子にそう言い逃げされ、清音は全く何の事か解らなかった。自宅に帰って暫くしてから、清音は漸くクラスの男子の言葉の意味を理解した。『あ、そう言えば、あの子も母子家庭じゃったな。』予期していなかった事だが、自身の行動で誰かの心を救えた事、そして感謝の言葉を貰えた事、この出来事が清音の心の中に巣食う鬼を、ほんの少しだけ大人しくさせた。
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