第1話

文字数 5,552文字

特上寿司を持って

親戚の集まりが好きじゃない。お盆とかお彼岸とか。一番嫌いなのはお正月。浮かれ切った雰囲気も、ほろ酔い気分のおじさんたちの馬鹿笑いも、お酒と煙草のにおいも大嫌いだった。
「輝也(てるや)君は今何年生だっけ?」ほほを赤くした親戚のおじさんが僕に言う。
この前も言ったのに覚えてないんだ。興味がないなら、覚えられないなら聞かないでほしい。「三年生です」目も見ないで答えると、あー、そーなの、と笑う。
好きな人いるの、勉強どうなの、とあれこれ僕に聞いてくる。どうして親戚って皆こうなんだろう。
「もう三年生ならさぁ、下の毛生えた?」とんでもない質問を投げかけられ、飲んでたジュースが変なとこに入った。
「ちょっと、新年早々なんて品のないこと聞いてるのよ」隣に座るおばさんが結構本気で怒っている。でも言った方はなんてことないって感じで、へらへら笑う。

実は、結構気にしていたのだ。去年の夏、学校の授業のプールの時間で着替えているときそんな話になった。
あいつはもう生えてるらしいよ、という友達のひそひそ話を僕の耳はしっかり拾ってしまった。ちょっと羨ましかった。凄く大人みたいな、コーヒーをブラックで飲み干せるとか、
そういう感覚に近かった。まだうっすらとした自分の下腹部を見るたびに、なんでかわからないけど泣きたい気持ちになってしまう。ただでさえ小柄でバカにされやすいから、
身体的な事について言われるのが凄く嫌だった。
だから嫌いなんだ、こういう親戚の集まり。時々しか会わないくせに、核心を突くような、聞かれたくない絶妙な質問をブシツケに聞いてくる。
何も言い返すことができないまま、ジュースが入ったコップを見つめた。口を開いたら、抗議の言葉よりも先に涙があふれてしまいそうだったから。

「おじちゃん、そういうのセクハラだよ」ふすまが開いて、冷たい空気と一緒に飛び込んできた声にはっとした。顔を上げると、そこには岳弥(たけや)お兄ちゃんがいた。
「あら、遅かったね」「そーなの、道路バカみてーに混んでてさー、なんか時間かかっちゃった。もっと早く出りゃよかった」ぶるるっと身を震わせながらそう言った。緋色の革ジャンのチャックがちゃりちゃりと鳴る。都会に近いところで仕事をしているらしいけど、どんな仕事なのかまでは知らない。「もー、玄関上がったらなんかすげー話しててびっくりしちった。おじちゃんたち欲求不満系?このスケベども」やだぁ、と体をくねらせおどける岳弥お兄ちゃんを見て、気持ちわりーよ、と誰かが笑う。気まずい雰囲気をやんわりと丸く収め、岳弥お兄ちゃんいそいそと炬燵の中に入っていった。
岳弥お兄ちゃんは少し遠い親戚で、こういう集まりにも時々しか顔を出さない。一重の切れ長の目元。顎が細くて、肌の色は血が回っているか少し不安になってしまうような青白さ。吊り上がった細い眉はHBの鉛筆で丁寧に描いた線に似てる。一言でいうと蛇みたいな顔。
でも、笑った顔は凄く優しい。
髪色はこの辺りじゃまず見かけないような緑色で、顔の半分を隠す前髪には緩やかなパーマがかかっていてふわふわ。革ジャンを脱ぐと、より一層細身に見える。
「輝也大きくなったね。久々じゃん」僕の隣に座った岳弥お兄ちゃんは、わしわしと僕の頭を撫でた。他の人にやられたら絶対嫌だけど、岳弥お兄ちゃんならいい。「まだ抱っこできるかなー、おいでよ」長い脚を折りたたんで胡坐をかき、膝をぽんぽん叩く。そこは僕の特等席だった。小さい頃は岳弥お兄ちゃんが言う前に自分から座りに行くほど好きだった。しなやかな腕にぎゅっとされながら料理をつまむ。普段親がしてくれないことを何でもしてくれる。それが凄く嬉しかった。
今でも飛び乗りたいけれど、「子供じゃないもん」と言い返した。周りのおじさんたちの目が気になってしまう。「なんだよツンデレか?可愛いですねぇ」にんまり笑って、岳弥お兄ちゃんは僕をひょいと抱え上げる。「重いからいいよ」身をよじって逃げようとするけど、お尻が岳弥お兄ちゃんの脚の上に乗った瞬間、小さい頃に甘えた記憶がじんわりと込み上げてきて、それ以上の抵抗ができなくなった。
「あー、寿司うまそー。おばちゃん何個か取って」紙皿を2枚おばさんに手渡しながら、空いてるほうの手でコーラの瓶を器用に2つ取る。長い指が瓶にしっとりまとわりつく様子をなぜかじっと見てしまう。あらよっと、という掛け声と一緒にコーラの瓶の王冠がはじける。
「ホレ乾杯は」シュワシュワと泡があふれそうなコップを僕によこしてくる。それを受け取ってコップを合わせた瞬間、コーラがあふれだす。慌てて口をつけて飲むと、口の中の小さな泡の群れが弾けて頬の内側をぱちぱちと刺激し、嫌な思いも一緒にはじけて消えていく。

「うーんうまい、もう一杯」昔見た青汁のCMみたいな声で言うのが面白くて笑ってしまった。
「はい、岳弥君」「わーい、あんがと」おばさんはお寿司以外にも唐揚げやポテトサラダを山ほど乗せてくれた。「どうせほとんど食ってないんだろ?」耳元で岳弥お兄ちゃんが囁く。
その通りだった。胃の底にたまったどんよりした気持ちが邪魔をして、卓を飾る料理にほとんど手を付けていなかった。なんでもお見通しなのだ。割り箸を受け取って、いただきます、とつぶやいてからお寿司の中で一番好きなサーモンを口に運んだ。とろん、とした油っぽい味がたまらない。
「寿司うめー、久々に食べた」岳弥お兄ちゃんは目を閉じてしみじみとお寿司を味わっている。
お箸を持つ指は細くて長い。ごつごつした指輪をしているから余計そう見えるのか、そこだけ別の生き物みたいだった。
「うまい?」岳弥お兄ちゃんが僕のほっぺをつんつん、とつつく。
「うん」自分の心が急に赤ちゃんになったような気分だった。甘やかされれば
されるほど、どんどん幼い気持ちになっていく。
「ほら、あーん」目の前にいくらの軍艦がやってきた。素直に口を開けると朱色のツブツブたちが口の中で次々転がる。嫌な集まりにいても、好物と特等席さえあれば笑顔になってしまう自分が少し恥ずかしかった。「米粒ついてやんの」僕の唇の端についたご飯粒を指で掬い取り、岳弥お兄ちゃんはそれを口に入れる。その仕草をじっと見ていると、「なんだよ」と笑われてしまった。

宴会も次第にお開きのムードが漂い、ほとんどの大人が夢の世界へ船をこいでいる。
トイレから戻ると、岳弥お兄ちゃんがいなかった。もう帰っちゃったのかな、と不安になり庭に出ると、縁側に座って煙草を吸っていた。おじさんたちが吸っているのとは違う、凄く細い煙草。けだるそうに白い煙を口から吐き出す様子を見ていると、満腹になったはずのお腹の下のほうがむずむずする。僕の視線に気づいて、岳弥お兄ちゃんがこっちを見る。ポケットから小さなケースを出して、煙草をぐりぐり押し付けた。
「寒いだろ、そんな薄着で」岳弥お兄ちゃんは革ジャンを着ていたけど、僕は部屋の中にいた時のままの恰好。雪が降りだしそうなしんとした空気は、体温をどんどん奪っていく。
なんと返したらいいのか分からなくて指をいじっていると、察した岳弥お兄ちゃんが、ふっと笑って革ジャンのチャックを下す。ちょいちょい、と僕を呼ぶ手招きに誘われ、広げられた足の間にもぐりこんだ。「あまえんぼちゃんめ」そう言って僕の頭を優しくなでる。まるで赤ちゃんにするみたいに。
「岳弥お兄ちゃんは、いつ頃生えてきた?」小さい声で呟くと、
「んー、覚えてねーな…中学生くらいになれば誰でも生えるんじゃない?」と答えてくれた。こういう他の人には聞けないような事も、岳弥お兄ちゃんになら聞けた。ちゃんとまじめに答えてくれるのを知っているから。
「クラスにそういうこと言ってくる奴いんの?」「うん…なんか、そういうのが遅いと、だめって言ってた」「駄目なんてことねーよ、大丈夫」
安心させるように僕の体を優しくさすってくれる。
ずっとこうして甘えていたい。僕の親は膝の上に乗ったり、抱っこをせがむとたいてい嫌がった。僕の事があんまり好きじゃないのかな、と岳弥お兄ちゃんにこぼしたら、じゃあその分俺が抱っこしてあげるよ、と
言ってくれた。

「別に毛が生えるのが早いとか、変声期が早いとか、大人になるってそういうことじゃねーから大丈夫だよ。もっと大事な事あるから」「それって何?」
「責任感」岳弥お兄ちゃんの声が、少しだけ強張った。
「見た目がかっこいいやつよりも、何か一つのことをずーっとまじめに頑張ったり、嘘をつかないとか、そういういいところを沢山持ってるやつのほうが、イケメンなんだからな」
そう言いながら頭を撫でる岳弥お兄ちゃんは、少し悲しそうだった。

「これ、お年玉な」岳弥お兄ちゃんが差し出した封筒は、他の親戚に貰ったものよりも縦に長い。手紙でも入れるような大きさだった。パンダとウサギが描いてあって、あまりお正月っぽくない。「岳弥君、輝也君、外にいるの?」おばさんが僕たちを探す声がする。
「ほら、早く仕舞いな」僕の返事を待たずに、岳弥お兄ちゃんは僕のトレーナーの裾をまくりあげ、ズボンの間に挟み込んだ。「親に渡さなくていいんだからな。お前のだよ。部屋で一人でいるときに開けろよ」早口でそう告げ、「あーい、いるよー」とおばさんに返事をする。「次いつ会えるかわかんないから、特別な」「え、」なんで、と聞こうとした僕の口に、岳弥お兄ちゃんは人差し指をあてる。さっきの煙草の甘い匂いが僕の唇をぬいつけるようにまとわりつく。ふっと優しく笑ったその顔が、寂しそうに見えた。

自分の部屋で封筒を開けると、三人の福沢諭吉と目が合った。

それから、岳弥お兄ちゃんは姿を見せなくなった。携帯を持っていれば連絡できるのに、ともどかしく思った。電話しようにも携帯の番号を知らない。僕はあの時貰ったお年玉を宝箱に入れて保管していた。なんだか、本当に大事な時にしか使っちゃいけないような気がしていたから。嫌われちゃったのかな、と不安になり、眠れぬ夜が増えていく。
ある夜、眠れなくて少し水でも飲もうと一階に降りていくと、誰かが言い合うような声がした。ふすまの隙間から、細く明かりが漏れていて、僕はその線をたどるように歩く。
「だって、もうおろせない週数なんだもん」泣き叫ぶようなその声は、岳弥お兄ちゃんのお母さんの声だった。「そんな事私たちに言われたって困るわよ。相手の親御さんはなんて言ってるの?」戸惑うような声は、僕のお母さんの声。「この前急にうちに来て、娘に何してくれたんだって怒鳴り込んできて、こっちだってもう訳わかんないよ。まだ高校生だって言うのよ…。」やたらと早口で舌が回っていない。相当焦っているのが分かった。「岳弥君自身はなんて言ってるんだ」苛立った声で言うのは僕のお父さん。
「知らなかったって、相手は成人してるって言ってたって、そう言ってるのよ。悪いのは向こうの方よ、嘘ついて岳弥のことたぶらかして、そうに決まってるわよ」「だからって、避妊しないほうも悪いでしょう…」「こうなったら責任とって結婚するしかないだろう、相手の人生を滅茶苦茶にしたんだから」「何でもかんでも岳弥のせいにしないでよ!そもそも、もっと早く気づいていたら…」

僕は、その会話を最後まで聞かなかった。聞けなかった。

外から聞こえるのは、酔っぱらいの下手な歌。サクサク、という音も聞こえる。カーテンを開けて外を見ると、雪が降っていた。初雪だった。
あの日聞いた責任感、という岳弥お兄ちゃんの言葉が頭の中で響いている。
岳弥お兄ちゃんは、今どんな日々を過ごしているんだろう。色んな人に怒られたり、責められたりしているんだろうか。保健体育の授業を思い出す。どんな風に赤ちゃんが出来るのか、もの凄く省略された図で見たけれど、「ほんもの」はどのような物なんだろう、と思っていた。岳弥お兄ちゃんは「ほんもの」を経験したのだ。だから赤ちゃんが出来たんだ。
形の違うふたつのものが、ひとつにくっつく。「ほんもの」は、気持ちがいいらしいけど、気持ちいいってなんだろう。
沢山汗をかいた後に冷たい麦茶をごくごく飲むよりも、
干したばかりの布団に飛び込むよりも、気持ちいいのかな。

お腹の下のほうがむずむずした。あの時とおんなじ。すっかり冷えたつま先をこすり合わせてあたためようとする。二人とも裸になって、色んな所を優しく触るんだろう。あの大きな手で触ってくれる。人に触らせちゃ駄目な所。そういう所に触る。
あの細い指が体中を這い回っていくのだ。体の中で一番やわらかくて、
気持ちのいい場所を探す。
ひんやりと冷たいはずの僕の部屋の、布団の中だけが妙に熱い気がした。どうしてほっぺたがこんなにほかほかするんだろう。むずむずした感覚はどんどん下に下がっていく。生き物みたいに駆け巡る、そのむずむずを取り払いたくて、探ってみた。下着の中にそっと手を入れてみる。はぁ、と息が漏れた。視界が滲んで、頭がぼーっとしてくる。
「ほんとにうっすらだな」岳弥お兄ちゃんの声が聞こえた気がした。僕の手の上に、大きな手が重なって、むずむずの正体を一緒に探してくれる。夢なのか現実なのかも分からないけど、どうしようもなく幸せだった。
ぬるり、とした感触がする。瞬間、ものすごく恥ずかしくなった。でも、
止めることができない。
いつか絶対、僕から会いに行く。岳弥お兄ちゃんから貰ったお年玉で、高いお寿司を買うんだ。サーモンといくらばっかりの偏ったお寿司。
そしてこの夜の事を話すのだ。初恋が終わった代わりに夢に見た、恥ずかしくて熱くて、甘い夜の話。
ぬめった指もそのままに、僕は幸せな夢の続きの世界へ落ちていった。
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