ライブの朝

文字数 2,598文字

 ピピピ……。目覚まし時計が鳴り続けているのに、杏樹は布団の中でむにゃむにゃと寝ていた。母親が起こしに来ても「あとごふん……」と呟いてまた寝てしまう。
 惰眠を貪る杏樹の耳に、ドタドタと階段を駆け上がる音が聞こえた。それだけで誰か解ってしまう。
「杏樹! 起きろ! このバカ! 今日はライブだろ」
「……綺羅ちゃん、おはよ……」
「さっさと起きて、飯食って支度しろったく」
「……綺羅ちゃんのおにぎりが良いな……」
「そう言うと思った」
 綺羅がバックから取り出したのは、高菜明太と梅じゃこのおにぎり。杏樹の大好物だ。
「わーい! 綺羅ちゃんのおにぎり!」
 ねぼすけだったのが嘘のように飛び上がって、ウキウキ気分で平然と着替えてしまう。慌てて目を逸らす綺羅の方が初々しい。
 二人は幼馴染みで、こんなの何十回、何百回と繰り返してるのに、それでも綺羅が杏樹に振り回されてしまうのは……杏樹が好きだからだ。
 この気持ちが恋なのか知らない。そもそも女同士で恋というのも変な気がする。
 でも世界中でたった一人のかけがえのない存在。そう、杏樹も思ってくれていたら良いと思う。

 電車に乗ってライブ会場に向かう途中、杏樹はご機嫌に窓の外の空を眺める。
「良い天気だね。あ、あの雲、カエルっぽくない?」
「どこが?」
 空を見ていたかと思うと、くるり視線が変わって、中吊り広告を指さした。
「ああ! もう春物特集だって、見てみて!」
「次の休みに買いに行くか」
「デートだ! デート! 綺羅ちゃんとデート!」
「はしゃぐな。恥ずかしい」
 騒ぐ杏樹の姿を、車内の人間がじろじろ見てる気がして落ち着かない。
 杏樹の興味はくるくる切り替わり、話題もコロコロ変わる。
 杏樹の目には世界が輝いて映るんだろう。何を見ても笑って、楽しそうで、羨ましいと思ってしまう。
 ふと気づくと、杏樹は目を閉じて鼻歌を歌い始めた。初めて聞くメロディは妙に耳に残る甘ったるさで、心地よい。聞いたことがない曲だ。
「新曲?」
「春のキラキラ、綺羅ちゃんとデート、カエルでぴょんっていうイメージなんだけど、どう?」
「なんでそこでカエルがでてくるんだよ」
「全部杏樹が好きだから」
 照れもせず無邪気に笑って、そういう所が、ほんと、そういう所だぞ、と綺羅は心の中でつっこむ。
 杏樹は息を吸うように曲を作り、言葉遊びをするように歌詞を紡ぐ。
 音楽をするために生まれた天才。誰もがそう言う。綺羅もそう思う。
 それが嬉しいけれど、ちくっと胸が痛くなる。自分は杏樹の隣にいる資格があるのだろうかと。
 綺羅は杏樹に追いつこうと必死に、歌にダンスに、練習して、努力して、それで指先が届くかどうかくらいだ。
 綺羅より上手くて杏樹に相応しい人はいくらでもいる。今側にいられるのは、杏樹が好きと言ってくれるからだ。
 だけど猫のように気まぐれで移り気な杏樹の興味が、他の人に移ってしまったら……そう思うと怖い。
「綺羅ちゃん大丈夫? 具合悪いの? 顔色悪いよ」
「あ、ああ……ちょっと昨日は緊張して眠れなくて」
「杏樹もわくわくしすぎて眠れなかった!」
「遠足前の子供かよ!」
 そんな風にあれこれしゃべっている間に、いつの間にかライブ会場の最寄り駅に着いてしまった。

 リハーサル、メイクアップ、ちゃくちゃくとライブの準備が進む中、綺羅はプレッシャーと恐怖で、震えそうになる。
 杏樹の足を引っ張ったらどうしようと、そればかりが頭の中をぐるぐる回る。
「綺羅ちゃん!」
「おわぁ! 何だよ」
 後ろから抱きついた杏樹が、えへへと笑いながら綺羅を見上げる。
 並んで立つと杏樹の方が背が小さい。ステージの上ではあんなに大きく見えるのに不思議だ。
「緊張してる?」
「そりゃぁ……緊張するよ」
「杏樹もだよ。お揃いだね」
「全然緊張してるように見えな……」
 いきなり綺羅の頭を引き寄せて、杏樹は胸にぎゅっと押しつけた。
「……ね? 緊張してるでしょう?」
 確かに胸の鼓動は、余裕の笑顔とは裏腹に凄い早さだった。
 無理矢理引き剥がすように離れて、杏樹の顔を見る。微かに顔色が悪いような気もした。
「杏樹もね、怖いんだよ。ドジだし、もし間違えたらどうしようって」
 確かに杏樹はドジだ。でもステージの上で杏樹がミスした所を見たことがない。正確にはミスはあるのだろうけれど、誰も気づかないほどに圧倒されてしまう。
「でもね。綺羅ちゃんと一緒だと安心するし、無敵なんだよ」
 えへへと笑う杏樹の頭を、思わずくしゃくしゃにしてやりたくなる。せっかくヘアメイクさんが綺麗にセットしてくれた髪を崩すわけにはいかないから、できなかったけれど。
「綺羅ちゃん。いつもの、お願い」
「いいよ」
 それだけでわかった。杏樹は楽屋のパイプ椅子に座って目をつぶる。ライブ前に集中する為の儀式だ。
 楽屋の扉を少しだけ開けて、入ってくる奴がいないか監視する。絶対誰にも邪魔させない。
 杏樹は集中し始めると鼻歌を歌い出す。
 それは初めて杏樹が作った曲で、初めて綺羅が聞いた曲だ。
 小さな鼻歌を聴いてると、綺羅の緊張も少しだけほぐれた。
 目をつぶっていた杏樹の目が開く。その瞬間スイッチが入ったかのように、目つきが変わった。
「綺羅」
「ああ、行くよ」
 二人は手を繋いでステージの袖へと歩き出す。
「ステージは天国だから、綺羅をパラダイスに連れて行ってあげる」
 そう囁く杏樹の声も、表情も、さっきまでの甘さは微塵もなく、カリスマアーティストのオーラがあって。
 そこに少し怯えて、でもぐっと歯を食いしばる。
 私達は二人で一つのユニットだ。びびるな。そう臆病な自分に叱咤して。

 スポットライトが消える。暗闇の中、手を繋いでステージ中央まで歩く。
「3、2、1、0」
 カウントダウンと共に、ライトが瞬き、音楽が鳴り始める。
 ステージの上で二人のアイドルが煌めく。
 二人は弾むように踊り、歌う。
 さっきまであった、緊張も不安も吹き飛ばして、ファンを魅了する。

 気がついてない。綺羅はまだ。杏樹が綺羅なしに生きられないと思うほどに依存してることに。
 Sugar & Spiceは二人で一つ。比翼の鳥のように、一人では飛べない鳥だ。
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