第16話 傷口
文字数 2,382文字
怪我人が運び込まれるのはこのパックで医者の代わりを務める母親 のところだ。「母親」はただの呼び名で、レイチェルのことではない。
このパックで助産師をしているグウェンという女性で、彼女は十二歳の頃から当時の助産師を手伝ってこのパックの子供達を取り上げてきたのだった。
今年六十を越えた彼女はパックのほとんどの者のこの世での第一声を聞き、最初に抱き上げてきた。だから敬意を込めて彼女は母親 と呼ばれている。
子供の頃から研究熱心で、パックで死者が出るたびに解剖したがるので敬遠する者もあるが、お陰で人体にも詳しく、見込みのある子供達に教えたり、怪我人の治療にもあたっている。
ティアが母親 の部屋を訪れた時、ルーファスはすでに傷口を縫われ、疲れて眠っていた。
「マム、ルーファスの傷はどう?」
グウェンは彼女の悪癖 の一つである煙草の煙を吐き出しながら肩をすくめる。
「小さな弾さ。鎖骨が折れてるが、関節には問題ない。ひと月もすりゃあ元通りだろう」
それを聞いてホッとしたのも束の間、部屋のドアがノックも無く開くと、ケイトが泣きながら飛び込んできた。ティアは無意識にルーファスのベッドから一歩遠ざかって俯 く。
「ルーファス! ——マム、ルーファスは無事なの?」
ケイトはルーファスの傍 に飛びつき、彼の額を撫でてグウェンに尋ねる。グウェンはやれやれといった様子で大したことないよ、と答える。
ケイトは眠るルーファスの頬を撫で、涙を流して彼の額に口付ける。ティアはベッドのこちら側で小さくなりながら自分のシャツの裾を握りしめた。そんなティアを見てケイトは強い口調で非難する。
「——あんたのせいよ! あんたを庇 ってルーファスは撃たれたんだから! 女のくせに狩りにまで付いて行って。ルーファスもチェイスも、みんなが迷惑してるのよ! 他所者 が、オーウェンに拾われたからって調子に乗るのもいい加減にしてよ!」
鋭く突き刺さるケイトの罵声 に、ティアは顔を上げることもできずに俯くだけだった。激しいケイトの敵意に抗 う正当な手段を、ティアは持ち合わせていなかった。
ケイトの声に、ルーファスが微かに身じろいだ。グウェンが低く呟くようにケイトを窘 める。
「ケイト、今眠ったばかりだ。そっとしてやりな」
グウェンに言われてケイトは唇を震わせてティアを睨みつける。そしてその唇から、まるで呪いのように吐き出された言葉はティアを愕然 とさせた。
「ルーファスもチェイスも、いつもあんたのお守りに苦労してたわ。......あんたがいい気になってウサギを追いかけてる間もずっとね。あんたなんてただのお荷物なのよ」
「ケイト! いい加減にしな、怪我人が起きちまうだろ」
グウェンが割って入り、ケイトは不満げに口を閉ざした。ティアはきつく握りしめていた手をようやく緩めると、どうにか言葉を絞り出した。
「——ごめん。私のせいでルーファスをこんな目に遭わせた。もう二度とないって約束する」
そう言ってティアはグウェンの部屋を飛び出した。後ろからグウェンが呼ぶ声が聞こえたが、ティアの瞳はもう涙を隠しきれなくなっていたので、一刻も早く逃げ出すしかなかった。
誰にも会わないように、ティアは一度も立ち止まらずに厩舎 まで走った。夜の厩舎に突然現れたティアを、馬達が不思議そうに見ている。ティアは自分の馬 の房へ飛び込むと、少し驚いて後ずさったモナークの肩に顔を押し付けて泣いた。
声を押し殺しながらひとしきり泣いて、どれほどの時間モナークの心音を聞いていただろうか。やがて気持ちを落ち着けたティアは馬房の隅で膝を抱えて目を閉じた。
眠っていたのが数秒なのか数時間なのか分からない。手に触れる湿った息遣いと生暖かい感触にティアが目を覚ますと、目の前に狼犬 とチェイスがいた。
「やっぱりここにいた」
チェイスはそう言いながらティアの隣に並んで座る。ハムとチーズを雑に挟んだパンと、スープのポット、ワインの瓶に干し肉の入ったカゴを床に置き、ティアと自分に毛布をかけた。ティアは驚いて言葉もなかったが、やがて小さく笑って言った。
「ずいぶんたくさん持ってきたな」
「ティアの分はサンドイッチとスープ。ワインは僕の。干し肉はエリウのだよ」
「このサンドイッチ、チェイスが作ったのか?」
「そうだよ。——あ、スープは僕じゃないから安心して」
「ふふ、サンドイッチも美味しそうだよ」
「バターを塗るの忘れたんだ」
他愛もない話で、ティアは少し心が軽くなっていくのを感じた。エリウに肉をやり、温かいスープを口に含むと、ついさっきまでとは違う理由で、涙が滲む。馬房の中で始まったピクニックに、モナークが不思議そうに二人と一匹を眺めていた。
「——チェイス、狩りの時に私を見張ってたって本当?」
ティアはケイトの言葉を、思い切ってチェイスに確かめてみた。
「……ケイトが何か言ったんだってね。マムに聞いたよ」
チェイスはワインの瓶を撫でるように手の中で転がしながら、少し低いトーンで答える。
「見張ってた訳じゃない。……ただ僕たちの勝手で、僕と兄さんで父さんに頼み込んでティアのそばに居ただけだ。父さんでさえ過保護すぎるって呆 れてた。——だからティアの腕がどうこうって話じゃないんだ」
「……そうか」
淡々とそう呟くティアに、チェイスは余計に不安を感じてさらに加える。
「ただ僕達が、——僕がそうしたかったからなんだ。ティアを傷つけるつもりはなかった」
「わかってる。ありがとう」
静かに微笑むティアが、見た目よりずっと悩んで苦しんでいるのをチェイスは知っている。だからこそ、手が届かない場所に行ってしまうのを恐れてきたのだ。
「でも、しばらく狩りは休もうと思う、今回の件はやっぱり少し怖かったし」
だからティアがそう言った時、チェイスは彼女が何かを決意してしまったことを感じた。
このパックで助産師をしているグウェンという女性で、彼女は十二歳の頃から当時の助産師を手伝ってこのパックの子供達を取り上げてきたのだった。
今年六十を越えた彼女はパックのほとんどの者のこの世での第一声を聞き、最初に抱き上げてきた。だから敬意を込めて彼女は
子供の頃から研究熱心で、パックで死者が出るたびに解剖したがるので敬遠する者もあるが、お陰で人体にも詳しく、見込みのある子供達に教えたり、怪我人の治療にもあたっている。
ティアが
「マム、ルーファスの傷はどう?」
グウェンは彼女の
「小さな弾さ。鎖骨が折れてるが、関節には問題ない。ひと月もすりゃあ元通りだろう」
それを聞いてホッとしたのも束の間、部屋のドアがノックも無く開くと、ケイトが泣きながら飛び込んできた。ティアは無意識にルーファスのベッドから一歩遠ざかって
「ルーファス! ——マム、ルーファスは無事なの?」
ケイトはルーファスの
ケイトは眠るルーファスの頬を撫で、涙を流して彼の額に口付ける。ティアはベッドのこちら側で小さくなりながら自分のシャツの裾を握りしめた。そんなティアを見てケイトは強い口調で非難する。
「——あんたのせいよ! あんたを
鋭く突き刺さるケイトの
ケイトの声に、ルーファスが微かに身じろいだ。グウェンが低く呟くようにケイトを
「ケイト、今眠ったばかりだ。そっとしてやりな」
グウェンに言われてケイトは唇を震わせてティアを睨みつける。そしてその唇から、まるで呪いのように吐き出された言葉はティアを
「ルーファスもチェイスも、いつもあんたのお守りに苦労してたわ。......あんたがいい気になってウサギを追いかけてる間もずっとね。あんたなんてただのお荷物なのよ」
「ケイト! いい加減にしな、怪我人が起きちまうだろ」
グウェンが割って入り、ケイトは不満げに口を閉ざした。ティアはきつく握りしめていた手をようやく緩めると、どうにか言葉を絞り出した。
「——ごめん。私のせいでルーファスをこんな目に遭わせた。もう二度とないって約束する」
そう言ってティアはグウェンの部屋を飛び出した。後ろからグウェンが呼ぶ声が聞こえたが、ティアの瞳はもう涙を隠しきれなくなっていたので、一刻も早く逃げ出すしかなかった。
誰にも会わないように、ティアは一度も立ち止まらずに
声を押し殺しながらひとしきり泣いて、どれほどの時間モナークの心音を聞いていただろうか。やがて気持ちを落ち着けたティアは馬房の隅で膝を抱えて目を閉じた。
眠っていたのが数秒なのか数時間なのか分からない。手に触れる湿った息遣いと生暖かい感触にティアが目を覚ますと、目の前に
「やっぱりここにいた」
チェイスはそう言いながらティアの隣に並んで座る。ハムとチーズを雑に挟んだパンと、スープのポット、ワインの瓶に干し肉の入ったカゴを床に置き、ティアと自分に毛布をかけた。ティアは驚いて言葉もなかったが、やがて小さく笑って言った。
「ずいぶんたくさん持ってきたな」
「ティアの分はサンドイッチとスープ。ワインは僕の。干し肉はエリウのだよ」
「このサンドイッチ、チェイスが作ったのか?」
「そうだよ。——あ、スープは僕じゃないから安心して」
「ふふ、サンドイッチも美味しそうだよ」
「バターを塗るの忘れたんだ」
他愛もない話で、ティアは少し心が軽くなっていくのを感じた。エリウに肉をやり、温かいスープを口に含むと、ついさっきまでとは違う理由で、涙が滲む。馬房の中で始まったピクニックに、モナークが不思議そうに二人と一匹を眺めていた。
「——チェイス、狩りの時に私を見張ってたって本当?」
ティアはケイトの言葉を、思い切ってチェイスに確かめてみた。
「……ケイトが何か言ったんだってね。マムに聞いたよ」
チェイスはワインの瓶を撫でるように手の中で転がしながら、少し低いトーンで答える。
「見張ってた訳じゃない。……ただ僕たちの勝手で、僕と兄さんで父さんに頼み込んでティアのそばに居ただけだ。父さんでさえ過保護すぎるって
「……そうか」
淡々とそう呟くティアに、チェイスは余計に不安を感じてさらに加える。
「ただ僕達が、——僕がそうしたかったからなんだ。ティアを傷つけるつもりはなかった」
「わかってる。ありがとう」
静かに微笑むティアが、見た目よりずっと悩んで苦しんでいるのをチェイスは知っている。だからこそ、手が届かない場所に行ってしまうのを恐れてきたのだ。
「でも、しばらく狩りは休もうと思う、今回の件はやっぱり少し怖かったし」
だからティアがそう言った時、チェイスは彼女が何かを決意してしまったことを感じた。