お食い初め

文字数 18,986文字

 その出会いが幸運であったか不運であったかはわからない。ただそれは其処に確かに在っただけで、私はその扉をくぐる意思を持っていただけである。
                             ──『横丁奇譚』三郷慎次 著 より抜粋






 最近覚えたことはすぐ忘れちまうのに、子供のころとか、若かった頃の記憶とかはまるで昨日のように思い出せるんだ。不思議なもんだよなァ。
 上司が黄金色の液体で満たされたグラスを傾けながらしみじみと呟いた。
 耳に届くのは酔いの回った酒飲みたちの生暖かい声。襖と壁で仕切られたこの空間だけではなく、その手前から奥から、右から左から、多種多様の喋り声が耳元に立ち寄っては消えていく。喧しいとも五月蝿いとも定義し難い、寄せては返す波のような声と食器の鳴る音で飽和した空間、そのうちの一角に私は座っていた。天井を見上げれば誰かがふかした紫煙がたちのぼり、鼻から息を吸うとアルコール独特のもったりした匂いを感じ取る。目の前にはかつて唐揚げやポテトフライや生野菜のサラダが盛られていた空っぽの器たち。器を囲むように半透明のグラスが並び、さらにそれを成人男性たちが談笑しながら囲むこの様は世間一般的には「飲み会」、社内でやり取りされるメールの件名では「新年会を兼ねた懇親会」と呼ばれていた。
 お前もそのうちこうなるんだぞ、歳をとるってェのはこういうことなんだ。
 上司が本日何杯目かのビールを手に取り、ぐい、と見ていて気持ちの良い飲みっぷりを見せる。はぁ、と曖昧な相槌を返すと、私も自分の目の前のグラスの中身を呑んだ。彼は気分がいいのか、にこにことえびす顔で空になった私のグラスにビールを注ぐ。この一連の流れに、本日の宴会で私が彼の隣に座っている最大の理由が詰まっている。
 上司は社内でも有名なくらい大のビール好きで、飲み放題のコースでも基本ビールしか飲まない。そして、酔っぱらうとだれかれ構わず空のグラスを持っている相手のところへ行って、制止の声も聞かずに並々とビールを注いでいくのである。いつかの新入社員歓迎会の時にそれで主役の一人を潰してしまい、減給処分を受けたこともある。比較的酒に強い私の役目はそんな上司を席に押しとどめ、彼の失態を未然に防ぐこと。彼が動く前に私はグラスを空にする。すると彼の矛先、もとい彼の持っている瓶の口は私のグラスに吸い寄せられて、私のグラスには泡の弾ける黄金色の液体が満たされる。私はそれを呑んでまたグラスを空にする。ビールが注がれる。そういう仕組みだ。場の空気を盛り下げることもなければ上司の機嫌を損ねることもなく、できるだけ円満に宴会を終わらせる。この場の暗黙の了解である。
 誰かに苦ではないのかと聞かれれば、「お前が変わってくれるなら今すぐ帰りたい」と言うだろう。ただどうしようもなく辛いかというと、そうでもない。何せ私は口下手で、こういう宴会があるたび顔は出すのだが、誰かと長く話が続いた試しが一度もないのだ。決して好んで口を閉ざしているわけではないのだが、気がつけば黙って相手の話を聞くだけになってしまう。場を盛り上げる芸ができるわけでもないし、大ウケ間違いなしという渾身の逸話も持たない。話題を出すのさえ下手糞だ。世の小中学生のほうがいくらか上手のような気さえする。そういうわけで、終始話の聞き役に徹していられる上司の隣の席に私は少し感謝さえしている。勿論、辛いことに変わりはないのだが。彼と私は二回りほど年が離れていて、仕事に対する価値観も、趣味の話でさえ気が合うことが殆ど無い。早い話がとてもつまらない。それもあってか、先刻の彼の呟きには過去最高に共感を覚えるところがあり、自分でも少し驚いていた。
 まるで昨日のことのように思い出せる記憶……私の場合、それは二十年ほど前に遡る。あれは忘れもしない、小学校に通って四年目になる年の八月のとある昼間のことであった。そのころの私の夏休みの過ごし方はというと、毎年前半は当時の家で勉強をしたり友達を誘ってプールに行ったりなどして、後半は勉強道具を持って上のきょうだいと一緒に遠く離れた田舎にある母の実家に泊まって終盤まで過ごすというものだ。その習慣は私が中学を卒業するまで続いていたが、その一年だけは例外で、母の実家を訪れたのはお盆のたった一日だけであった。
 酔いが回ってきたせいか目を閉じると瞼の裏にぼんやりと、車の運転席に父親が座っている姿が浮かんだ。彼は水色のポロシャツを着ている。普段あまり外見に気を使わない父が他所に出かけるときによく来ていたお気に入りの一枚だ。助手席には車酔いを起こしやすい姉が座り、後部座席には私と兄と母が詰めて座っている。これは母の実家に行く途中に高速道路を走っているときの光景だ。
「あ、見て! ヒマワリ」
 姉が指さした方向を見ると、高速道路の下に鮮やかな黄色の絨毯が広がっていた。都会の街並みでは滅多に見ることができない光景に家族みんなで歓声をあげる。だがこれは、この思い出の主軸ではない。その記憶を辿ろうとすると、中核のエピソードとともに思い出されるおまけのようなものだ。
 母の実家のまわりには住宅と畑以外の建物がほとんど存在しなかった。コンビニもスーパーもその他商業施設も全く無いわけではなかったが、必ず行くときには車を使わなくてはいけないほど遠くにあった。そのためいつも途中で外泊する子供たちはお菓子やジュースを買い足してから向かっていた。それが無いのは新鮮で、同時に少し寂しくもあった。
 母の実家に着くと、母方の祖父と近所に住んでいるという母の弟夫婦とその子供たち、それから顔見知りの親戚が何人か集まっていた。祖母の姿が見えないのでどこに居るのかと尋ねると、祖父は少しだけ悲しそうな顔をして部屋で寝ているよ、と教えてくれた。暫くすると大人たちが集まってちゃぶ台を囲み、何やら難しい話をはじめたので私を含む子供たちは別の部屋で遊ぶことになった。いとこたちは上のきょうだいたちと歳が近いため、こういう時はだいたい私がいつの間にか仲間外れにされることが多い。遊びの輪の中にまったく入れてもらえないわけではないのだが、テレビゲームもカードゲームも、それ以外の別の遊びをやるにしても、私は技量も知識もきょうだいたちに到底敵わない。負けることが分かっている試合を楽しむ大人の心を当時の私は持ち合わせていなかった。その日もいとこたちがトランプを取り出したのをみて、私はこっそり部屋を抜けだすことにした。
 当時の祖母は今でいう認知症を患っていて、一日のほとんどを寝たきりの状態で過ごしていた。家族の話では何日かに一回ヘルパーの方が来て祖父と世話を交代していたらしいが、あまり友好的な関係ではなかったという話は聞いていた。温厚で柔和な祖父と比べると、祖母は少し気性が荒いというか、自分にも家族にもあまり優しくない、どちらかというと気難しい性格であったように思う。それが病床に伏してからは神経の鋭さに磨きがかかり、気に入らないことがあると喚いたり暴れたりしてそれはもう大変な騒ぎになっていたのだとか。実際にそれを目にすることはなかったが、祖父やいとこの両親たちが疲れたような顔をしながら話をしていた姿から、誇張表現ではないことは幼心にそれなりに理解できた。その日も母に、おばあちゃんの邪魔をするといけないから部屋に入ってはいけませんよと言われていたが、私は退屈さと好奇心に背中を押されて彼女の部屋の扉を開けた。
 祖母が寝ていたのは一階の一番奥の部屋だった。部屋に入って襖を締めると、遠くから幽かに大人たちの話し声やきょうだいたちの笑う声が聞こえるが、それ以外はとても静かで、生きている者が存在している空間には見えなかった。部屋は全体的に簡素で、床に封を切った薬の包みや個包装のお菓子の包みがいくつか転がっており、中心には介護用の大きなベッドが一つ、そこに祖母は仰向けに寝ていた。祖父の言っていた通りすうすうと小さく寝息を立てている。記憶の中のエネルギッシュな姿とは違う、青白い肌に細い髪の毛。去年の夏に見た時より一回り小さく見えてぞっとしたのを覚えている。たった一年でここまで人間はしぼんでしまうのか。急に怖くなり、急いで部屋の外に出ようとすると祖母に声をかけられた。
「誰だい」
 彼女は目を閉じたまま、私に話しかける。 
「シンジ」
 驚きと恐怖でそれだけしか言えなかったが、祖母には分かったらしく珍しく優しい声でこちらにおいで、と手招きした。言われるがままにベッドの端にすり足で近寄ると、彼女は目を閉じたままゆっくりと話し始めた。
「そろそろ来る頃なんじゃないかと思ってたんだ。元気にしてたかい」
「う、うん」
「悪いね、こんな姿になっちゃってさ。麦茶の一杯くらい出してやれればよかったんだけど」
「気にしないで。だ、大丈夫だから」
「あたしに近づくなとか、言われたんじゃないの」
「……」
 どう答えたらいいのか迷っていると、祖母は意地悪そうに口の端を釣り上げた。
「無理に答えなくてもいいよ。何となくわかるからね。あたしがモーロクしてるとか、そういう話を聞いたんだろ。いいんだ、事実なんだから」
 見た目は病人そのものなのに、このときの祖母はやけにはっきりと、支離滅裂な話をするでもなく、ごく普通に、いつも通りの喋り方をしていた。これは大人になって読んだ本に書いてあったのだが、認知症になってしまった人でも時々何かのタイミングで正常な認知活動と思考を取り戻すことがあるのだという。それがどういったきっかけで表出したのかわからないが、私はどうやらそこに偶々居合わせたらしかった。
「おばあちゃんは病気なの?」
「病気とはちょっと違うけど、まぁ似たようなもんさ」
「いつ治る?」
「さあね。わからない。わからないけど、多分治らないんじゃないかな」
 宿題をサボったり悪いことをすると鬼神の如く怒る祖母から出たとは思えない弱気な言葉に、思わず息をのんだ。遠くで誰かが私の名前を呼んでいる声が聞こえる。ここに居ることがばれたら怒られるかもしれない。怒られなくても、ここを探しに来た祖父や母と祖母が口喧嘩になる可能性もある。彼女が元気だったころはしょっちゅうそういうことを目撃していたので容易に想像がつく。後ろ髪を引かれる思いがしたが、事を荒げたくはなかったので急いで外に出ようと襖に手をかける。
「シンジ」
 振り返ると、祖母は寝たまままっすぐこちらを見ていた。病人とは思えない澄んだ大きな目をしていた。薄い唇が開く。
「おまえは神様の子だから、何があっても大丈夫さ」
 それだけ言うと祖母はゆっくり目を閉じ、またすうすうと小さく寝息を立て始めた。
 それから祖母は徐々に体調を崩し、半年後に亡くなった。ひどく寒い冬の晴れ間に、分厚い雲の隙間をくぐって空に還って行ったのだと祖父は言っていた。
 彼女の言葉はそれから私の支えになった。厳しかったが聡明だったあの祖母が、呆けていないときに、私だけに口にした言葉。当時の私は子供心にあれこそ文字通り神の啓示に違いない! と本気で信じていた。なにせ特別なことだと思い込むには材料が足りすぎている。私はそれからあらゆることを「自分は神の子である」ことを信じて全力で取り組んだ。苦手な数学も「神の子だからできるはず」、泳げないのを馬鹿にされても「神の子をいじめたからアイツにはきっと天罰が下る」といった風に、何事もプラス思考でもって切り抜けた。それをうっかり何かの拍子に同級生に話してしまい、それから小学校を卒業するまで「神童」というあだ名で呼ばれていたのは忘れたくても忘れられない黒歴史なのだが、それはそれ。
 しかし「天才も二十過ぎればただの人」とはよく言ったもの。最も、私は「神童」と呼ばれていただけで取り立てて何かの才能があったとか、もの凄く頭がよかったとか、ほかの同級生たちと比べて何かしら秀でていたことはこれっぽっちもないのだが。確かに自分の弱点や不利な状況を切り抜ける術は手に入れていた。だがそれでも所属している集団で頭一つ抜けることもなければ、落ち込むこともない、平均的で、面白みのない人生を送ってきてしまった。勉強をしているうちに学がついて、自分が神の子という思い込みは消え、いつしかそれは「幼少期の恥ずかしい思い出」に変わっていった。それでも受験戦争や就職活動でどうしてもくじけてしまいそうなとき、不思議と祖母の言葉が脳裏をよぎり、どうにか踏ん張って耐えることができた。決して仲が良くはなかった祖母の言葉が、いつもどういうわけか自分の背中を押していた。そして元神の子は今、何の因果か課内で荒神として恐れられる上司の抑え役として肩身の狭い思いをしている。決して望み通りの職務ではないが、自分一人だけが入ることの出来る隙間に収まっているような妙な安心も感じていて、それは同時に自己嫌悪に拍車をかけていた。また上司が私のグラスにビールを注ぐ音が聞こえる。
「こちら、コースのデザートになりますぅ」
 はっとして顔をあげると、アルバイトの若い女が安物の盆にアイスクリームを乗せてやって来たところだった。何だか夢を見ていたような気分になる。ガラス製の透明な小鉢に入った丸くて艶やかな乳白色のアイスクリームは眠気覚ましに丁度いいだろう。食後の甘味の登場に酔っ払いたちは口々に歓声を挙げた。彼らは意気揚々とリレー方式で通路側の席から奥の席へアイスクリームの小鉢が流していき、私もその流れに乗った。
 ふわ、と鼻孔を何かがかすめて行ったのはその時だった。なにか、妙な匂いがする。何かはわからないが、この場に似つかわしくない異質さがあり、にもかかわらずどことなく心地よい匂いがする。一体どこから漂ってくるのだろうか。テーブルは既に空っぽになった皿が回収された後で、匂いの強そうなつまみはほとんど残っていない。目の前にはアイスクリームが一つあるだけだ。
 そっと小鉢に鼻を近づけるとふわ、とまたそれが香った。何の香りなのか、酔っている頭ではすぐに思い出せないが確かにそれはアイスクリームからにじみ出る匂いのようだった。不快な匂いではない。臭いと感じるほど強くない。だが、それは私の鼻の奥、それよりももっと深い、胸の奥を揺さぶるような、特徴的な香りを漂わせていた。たまらずくしゃみをすると、風邪でもひいたのか、と向かいに座る同僚が赤ら顔で私に聞いた。
 香りの正体が気になってなかなか手を付けられないでいると、スッと横から大きな手が伸びてきて、上司が私のアイスクリームを取ってしまった。食わねえなら喰っちまうぞ、と言いながら既に自分のスプーンを白い曲面に深々と突き刺している。あ、と思ったころには私の目の前には空になった小鉢が返却されていた。体調が悪くなったりしないか、と酔いがさめた頭でひやひやしながら見守っていたが、その後上司を含めた宴会の出席者たちが体調不良を訴えることはなく、最後の一丁締めまでしっかり終わらせてその日は解散となった。

 次の日は休みだったので、何の用事もなかった私は近所の神社に二週間遅れで初詣に出かけた。家から歩いて十分ほどの距離に建つ『黍裂(キビサキ)天神』は観光案内誌にも載っている地元ではわりと有名な神社である。休日ということもあり、境内には大勢の人が集まっていた。もっと早い時間に来てもよかったな、と内心後悔する。
 参道には多くの出店が軒を連ねていた。熊手や達磨、招き猫など縁起物もあれば、たこ焼きやイカ焼きなんかの定番料理をこしらえているところもある。そのひとつで甘酒を配っている女に見覚えがあった。昨日のアルバイトの女性だ。彼女の方も私を覚えていたらしく、赤茶色のポニーテールを揺らしながら昨日の、と私に愛想よく近寄ってきた。
「今日は神社でアルバイトですか」
「はい。お兄さんもおひとついかがですか」
「ありがとうございます。頂きます」
 代金分の硬貨を渡して、紙コップを受け取る。白く分厚い湯気を立ち昇らせているので熱くて持てないんじゃないかと思ったが、厚紙が巻かれていることもあってそこまで苦には感じなかった。
 湯気を吸いこむと甘ったるい麹の匂いに交じってふわ、と香るものがあった。鼻に覚えがある。昨日も嗅いだあの匂いだ。これは甘酒の匂いだったのか? でも昨日アイスクリームを食べていた同僚に味を聞くと、ただのバニラアイスだと言っていた。もしアイスクリームに甘酒が入っているなら誰かが気付いて言及していそうではあるのだが、そんな様子は微塵もなかった。であれば、一体何の匂いなのだろうか。謎は深まるばかりだ。
「どうかしましたか?」
 怪訝そうな顔で女が私の顔をのぞき込む。気づかぬうちに険しい顔をしていたようだ。素直に尋ねてみるべきだろうか。
「これ、昨日のアイスクリームと同じ匂いがしますね。何か隠し味に入れているんですか?」
 何気なく聞いたつもりだったのだが、途端に女の表情が凍り付いた。持っていた掬い(じゃく)が手から滑り落ち、玉砂利に当たってからん、と音を立てる。
「そんな、気づくはずが、まさか」
 女は数歩あとずさりをしたあと、そのまま回れ右をして逃げ出した。
「待て!」
私は持っていた紙コップを屋台に置いて後を追った。あの女、確実にこの匂いに心当たりがあると見ていいだろう。走って逃げるということは何か後ろめたいこと、もしくは表に出しては不味いものを持っているに違いない。そうでなければあんな取り乱し方をするものか。是が非でも捕まえて事情を吐いてもらわねば、上司たちに何かが起こった後では遅い。
 暫くは彼女の背中を追うことができていたが、神社に来ていた参拝者を避けながら走っている間に健闘虚しく見失ってしまった。一体どこを探せばいいか、と逡巡していた私の鼻孔に再びあの匂いがふわ、と届いた。もしこの匂いをあの女が振り撒いているのだとすれば、これを辿れば行方がわかるのではないか? 私は周囲を見回しながら、さながら警察犬のように鼻を引くつかせて匂いの出所を探し始めた。自分でも意外なことに私の鼻は優秀で、屋台の焼きものの香ばしい香りや綿あめの甘い匂いが風に乗って来たとしても不思議とあの匂いだけは嗅ぎ分けることができた。三十路を過ぎてこんな奇天烈な才能を開花させるなんて、飲みの席の笑い話にしないと悲しくなってしまいそうだ。
 匂いに導かれるままに歩いていくと、いつの間にか神社の裏手の方に来ていた。このあたりに住み始めてから何年か経つが、そういえばこちら側にはほとんど来たことが無い。突き当りまで進むと神社の敷地の境界線かと思われる木製の塀のようなものが目の前に現れた。匂いは塀を挟んだ反対側の方から漂ってくる。ここから先は確か、地図上では住宅の密集地だったはずだ。あそこに女が逃げ込んだとしたら探すのはとても難しくなりそうだが、どうすればよいだろう。そもそもどうやってここから先に進むべきか。よじ登るには高すぎる。背は低い方ではないはずだが、両手を伸ばしても縁に手をかけることは無理そうに見える。他に掴むところもなく、周囲に踏み台になるようなものもない。仕方なく一番近い出口に回ろうとした私の目に、一枚の小さい扉が飛び込んできた。簡素な造りを見るに、塀の一部を切り出して開閉するように作り替えたと見える。自分の背丈より低い高さではあるが、屈めばどうにか通れそうだ。鍵もかかっていない。あの女と匂いのことで頭がいっぱいになっていた私は特に深く考えず、扉を開けて中に入ることにした。
 扉を抜けるとそこはまた別の、されど同じような神社の裏手につながっていた。先ほどまで居た神社の敷地を鏡写しにしたようにそっくりで、一瞬扉をくぐったことを忘れてしまいそうであるくらいに似ている。耳を澄ますと表側からはがやがやと、なにやら楽し気な喧騒が聞こえてくる。住宅地にしては妙に賑やかだ。不審に思いながら音のする方へ歩いて行った私は眼下に広がる光景を見て言葉を失った。
 そこは閑静な住宅地、という場所ではなかった。鏡写しにしたよう、という表現はあながち間違いではなく、そこから先に広がる神社の景観は先ほどまで私が居た神社と全く同じ構造をしていた。全く同じ構造なのである。鳥居の位置も土産屋も、境内まで続く階段の様相も全く同じ。しかし、敷地の入口である大鳥居より外側に広がっていたのは住宅地ではなく、見たことのない風景であった。小江戸小京都を思わせる木造の家屋が所狭しと詰め込まれた商店街のような街並みが、神社を起点に扇を描くように列を成して広がっている。地元民が生活を送っていそうな戸建ての建物やアパートやマンションなんかはどこを見渡しても存在しない。それどころか、三階建て以上の建物がほとんど見当たらない。木造建築が持つ独特な色味のせいか全体的に古びているような、寂れているような第一印象を受けるが、遠目で見てもわかるほど表の神社よりも人の往き来が激しく大層賑わっているのがわかった。こんなに賑わいがあるところなら雑誌やテレビで特集されてもおかしくないはずだが、こんなところに栄えている商店街があるなんて今まで聞いたことがない。一体全体どうなっているんだ? 呆けた頭を整理できないまま、私は階段を下りて神社の外側へふらふらと歩いて行った。
 降りて行って初めてわかったことがあるのだが、この商店街に立ち並ぶ店はすべて、四方八方どこを見回しても菓子屋ばかりであった。あっちも菓子屋、こっちも菓子屋。菓子屋の隣は菓子屋でその向こうも菓子屋だし、道を挟んで反対側も菓子屋である。和菓子、洋菓子、駄菓子に点心、老舗の古びた店先の隣には新しくできたぴかぴかの白いパティスリー。よく見ると木造家屋だけではなく四角いタイルをちりばめたモダンな造りの建物もあるし、異国情緒あふれるアジアンな装いの店舗もある。そのどれからも、活きのいい客引きの声が聞こえてくる。
「焼きたての煎餅はいかがっすかー」
「本日限定! 大粒苺の苺大福だよー!」
「残りわずかとなっています! 名物のカスタードプディングはこちらからお並びください!」
「おいしい金平糖~」
 呆気にとられて立ち尽くしていると、背後から声をかけられた。
「よう旦那、最近どうだい」
 振り返ると、着流しの似合う整った顔立ちの若い男が立っていた。頭にはカンカン帽を被り、手には菫色の風呂敷包みを持っている。今日の若者にしては随分と古風な出で立ちである。最近若い女性の間に着物を普段使いするブームが再来しているという噂を聞いていたが、男性にも流行の波が来ているのだろうか。さも当然という雰囲気で声をかけられたのだが、私にとっては知らない顔だ。忘れているだけかもしれない、と頭の中の箪笥の引き出しを引っ張り出して中身を探ってみるが、彼についての記憶は欠片も見当たらない。きっと人違いで声をかけたのだろう。私が誰かと間違えていませんか、と応えるより早く、彼は何やら慌てた様子で私の手を掴み、近くの建物の陰へ連れて行った。見た目よりも力が強く、連れていくというより半ば引きずられていくような形だったのだが、彼はそんなことを気にもせずに声をかけた時とは違う鋭い目つきで私を睨んだ。
「お前さん、どこから来た?」
「ええと、この近くに住んでいて」
「住所の話はしてねぇ。どこの入口からここに来たんだ」
 塀をくりぬいたような扉が頭をよぎる。
「神社だ」
「神社……ってことはリキュウの仕業だな。まったく、何でもかんでもこちらに引き込みやがって」
 男は急に表情を緩めてへにゃっとした顔を作った。頭を掻きながらなにやら思案する様も絵になるな、とぼんやり考える。
「お前さん、名前は?」
「ミサト。三つの郷と書いて、三郷(ミサト)だ」
「俺はシオザワ。サンズイに夕と、難しい方で汐澤(シオザワ)だ。って、自己紹介してる場合じゃねえな」
 彼は私に持っていた風呂敷包みを差し出した。開けろ、ということらしい。風呂敷の結び目をほどくと丸角で黒塗りの美しい小箱が姿を現し、蓋を開くと風呂敷と同じ色の小さな塊がふたつ、ちんまりと並んでいるのが分かった。
「これは?」
牡丹餅(ぼたもち)。見りゃわかンだろ。とりあえず食え。不味くても文句は言うなよ」
 見ず知らずの土地、見ず知らずの者から食い物を差し出される。思い出すは「黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)」の四文字。死後の世界で出された食べ物を食べると帰れなくなるとかいう、アレである。ここがどこなのか全く見当がつかない今は、死後の世界だと言われてもあっさりと信じてしまいそうだ。こんな甘々な死後の世界は胃もたれがしそうだが。
「見ず知らずの人からもらったものを食えと言われても」
「あー、それもそうだな。じゃあ食わなくていいから持っててくれ」
 彼は意外にも私の意見を肯定し、箱の底に敷いてあった半透明の薄い紙に牡丹餅を半分くるんで私に手渡した。
「これを持ってりゃ、お前はどっからどう見ても食べ歩きの旅行者だ。この街に溶け込むには丁度いい」
「何か食べているように見えないとまずいのか?」
「不味い。俺の作った菓子よりずっと不味い」
 再び表通りに立つ。確かに、よく見れば道行く人は誰も彼も何かを食べていたり、店売りの菓子をもって歩いているように見える。鯛焼きにかぶりついていたり、ソフトクリームを大事そうに舐めていたり、その柔らかく幸せそうな笑顔を見やるに、彼らは心の底から食べ歩きを楽しんでいるのだろう。
「三つの郷を名に持つ三郷サマよ、郷に入っては郷に従えって言葉知ってるよな?」
「ああ」
「不本意とはいえ、この横丁に足を踏み入れてしまったからには横丁のルールに従わんといけねぇ。さもなくば色々と面倒なことに巻き込まれるだろう。悪いことは言わん、お前さんがちゃんと帰れるようにしてやるからとりあえず俺の言うことに従いな」
「横丁?」
「そうサ」
 彼は大仰な仕草で大通りを指し示した。
「ここは天下一の菓子処。現世の生きとし生けるもの食欲を掻き立て満たす桃源郷にして、古今東西の菓子屋がしのぎを削り合う戦場(いくさば)。それが『あまや横丁』なんでさ」

 汐澤に案内されてたどり着いたのは通りの端の端、横丁の終わりとも始まりともいえるような空間の境目に建つ古い建物だった。この街は全体的に古い建物が多いのだが、この建物は一等古い様相を呈している。だが古いと言ってもそれは誉め言葉であり、古き良きと言い直した方がよいかもしれぬ。こし餡のような深みのある紫色の屋根瓦にハシバミ色にぼやけた木の壁。柱に括りつけられたのぼり旗には力強い筆文字で「しおざわ」と書いてある。
「ここは、君の店なのかい」
「そうだよ。といっても最近継いだばかりなんだがね」
 うちの親父が急に俺に店を託してどっかに行っちまったのさ。と、他人事のように茶を湧かしながら汐澤は教えてくれた。
「親父が菓子を作ってた頃はそりゃもう、客足が途絶えなかったもんさ。それがある日を境にぱったりと菓子を作るのをやめちまって、今ではこんなにさみしい店先になっちまったよ」
「親父さんの菓子はそんなに美味かったのか」
「そりゃあもう。今は横丁一と言えば魅月堂(ミヅキドウ)なんだが、その前はうちと言っても過言ではなかったくらいにね。特に牡丹餅が美味くてさ……病気がちで食が細かったおふくろも、親父の作る牡丹餅だけは喜んで食ってたからな」
 魅月堂という名前には聞き覚えがある。汐澤に連れられて通りを歩いているときに横切った一際大きい御殿風の建物で、一際長い行列ができていたあの店。そこに掛けてあった看板に書いてあった名前だ。あれがここいらで最大手の菓子屋なのか。
「俺も親父のような菓子が作れたらよかったんだがなぁ、あの野郎は出る前に菓子作りの虎の巻とか秘伝の技とかなーんにも残しちゃくれなかった。最低限の手順書だけはどうにか探し出すことはできたんだが、手順通りに作ってみても何故か上手くいかねぇ。万年赤字経営で御座います」
 右手の牡丹餅をじっと見る。見た目はさほど悪くない。同じような形の牡丹餅を出張に行ったときに立ち寄った老舗の和菓子店で見たことがある。外見からは店主が気にするほど不味いかどうかは分からない。少しだけならかじっても問題ないだろうか。嫌な予感が少しだけ遠ざかり、心が浮つく。
「おうい、店長は居るかい」
 牡丹餅をかじってみようと口を開けた瞬間、一人の男が店の前から汐澤を呼んだ。
「はぁい、どうなすった」
 はっとして口から牡丹餅を引き離した。汐澤が急須を置いて店の外に出る。ここからでは何を話しているかわからないが、話を聞いていた汐澤の表情が次第に険しくなっていくのが見えた。悪い知らせを受けているようだ。話を終えて店の中に戻ってきた汐澤は電話台のところに置いてあったメモ帳とボールペンを持ってきて私がいるテーブルの前にとん、と置いた。
「今の男から聞いたんだが、昨日の夜からお前さんみたいな『

』が横丁に大挙してふらふら迷い込んできているらしいと来た。お前さん、何か知らないか」
 昨日の夜。思い当たる節は一つしかない。
「もしかして、彼らは酒気を帯びているのではないだろうか」
「成る程、訳知りだな? とりあえず知っていることを聞かせて欲しい」
「実は昨夜、会社の飲み会があって……」
 黙っていても仕方がないと感じたため、私は昨夜から神社で甘酒を買った時の話までをかいつまんで話すことにした。汐澤は最初は興味深そうにふんふんとうなずきながら話を聞いていたが、途中から大変面倒くさいと言わんばかりに顔を歪め、私が話を終える頃には文字通り頭を抱えてうめき声をあげた。
「やっぱりリキュウの仕業じゃねえか! あいつ、対処に困るようなことばっかりするんだからなぁ……」
「話が早くて助かります」
 店の前にまた知らない男が立っていた。隣には先ほど甘酒を売っていた女がいて青い顔でうつむいている。
「あ、さっきの!」
「ヒィ! ご、ごめんなさい」
 女はびくり、と肩を震わせると涙目になりながら私と汐澤に()わる()わる頭を下げた。彼女がリキュウで間違いないらしい。背中の方で尻尾のようなものがゆらゆらと揺れているように見えるのだが、目の錯覚だろうか。
「何でこんなことをしたんだ?」
「最近うちの客足が少なくなってたから呼び込みをしようと思って……でもここいらのやつだけ集めてもつまらないから、(あっち)のやつも呼んで来ようと思ったんだ……こんな大事になるとは思わなくって……」
「不味いぞ、運が悪ければ大親分の鉄槌が落ちる。そうなったらこの件は簡単には終息しないぞ」
「大親分?」
「この横丁を作って整備した横丁の総元締めであり商業組合長みたいな御方だ。あの人に気に入らないことが起こるともの凄く厄介なことになる。それにとても面倒くさい」
 面倒くさい、と言いながらも汐澤は既に外に出る支度を始めている。最初に逢ってからずっと口癖のように面倒だ面倒だと言っている割には己で対処しようとする気概があるところをみると、良識人というか苦労人というか、少なくとも悪い奴ではないのだろうということだけは出逢って一時間足らずのうちになんとなく察知することができた。彼は相変わらず面倒くさそうに眉をひそめながら、私の方に向き直る。
「なぁお前さん、不躾で申し訳ないが、少しばかり俺たちを手伝っちゃあくれないだろうか」
 三対の目が私を見つめる。まだはっきりとはわからないが雰囲気から察するに、私の知らない間にこの街周辺に住む者にとってはよくないことが起こっているらしい。「あまや横丁」と呼ばれるこの地が一体どんな場所なのかは未だよく分かっていないが、そのよくないことに私の同僚やら上司やらが絡んでいそうだとなればじっとしてはいられない。私も

なのだ。
「迷い込んだ人間の中にきっと私の知り合いもいる。彼らがご無礼を働いているとなれば、黙って見ているわけにはいきません。私にも手伝わせてください」
「決まりだな」
 汐澤は私が持っていた牡丹餅をサッと取り上げて菓子箱に戻すと、手早く風呂敷に包んで店の奥に放り投げた。
「急いで『

』たちを捕獲するぞ。ガマたちは手伝ってくれそうな奴を探して片っ端から声かけて来い!」

 そこから夕方頃までのことはあまり思い出せない。いや、思い出したくないといった方が正しいだろうか。私たちは文字通り横丁を駆けずり回り、往来の人々から聞き取った情報を基に私と同様に『匂い』に導かれてやって来た者たちを探し出し、説得して天神の境内に集めていった。案の定、その中には昨夜新年会に参加した私の同僚たちが混ざっていた。混ざっていた、というよりほぼ総数である。最終的に上司を含め私を除いた宴会の出席者全員がこの街の中に迷い込んでいたことが判明した。宴会がお開きになった直後に此処に来たとしか思えない、酒臭さが抜けないスーツ姿の者もいた。私が声をかけるまでは彼らは何もかも上の空といった感じで、呆けた顔をしながらぼんやりと道を歩いていたり、立ち止まって空を見上げていたり、座り込んでいびきをかいていたりしていた。全員どうやってここに来たのか全く覚えておらず、代わりにああ、とかうん、とか間抜けな相槌を返すばかり。まるで何か厄介な葉とか薬とかそういうものを

ような風であった。実質、そうなのかもしれない。あのリキュウと呼ばれた女がアイスクリームに何を仕込んだのかはまだわかっていないが、意識を朦朧とさせる効果があったことは間違いなさそうだ。
 粗方探し終わったと思われる頃には日が傾き、夕方になっていた。我々が息を切らして駆け回った結果、五十人以上の老若男女が天神から迷いこんでこの街を彷徨い歩いていたことが判明した。だが、全員見つかったかどうかはもう分からなくなっていた。
「あとは自力で天神から彼方側に戻ったか、天神を跨がずに横丁の外に出て行っちまったかのどちらかってことになるな」
 心身ともに疲弊しきった顔で汐澤がぼやいた。
「天神を跨がないとどうなるのですか」
「帰ってこれなくなるだろうな」
 さも当然、といった具合に汐澤は答える。何ともない風に放たれた言葉はかえって私をぞっとさせた。
「帰ってこれなくなる何かが街の外には有るのですか」
「あぁ……そうか、結局何も話していないままだったもんな」
 でも、と汐澤は探し当てた人々をすべてくぐらせ終わった天神の裏手の扉を開けてこちらを振り返る。
「何も知らずに帰った方が良いかもしれないな。アンタは他の奴らと同じようにこの横丁に迷い込んだ割には正気を強く保っていられた。それは幸運なことだが、同時に不運なことでもある。アンタが考えている以上に、この世には知らなくていいことが沢山あるんだよ」
 ここから外に出れば、見知った場所に帰ることができる。鳥居をくぐって、横断歩道をいくつか渡れば、自宅に着く。長いようで短かった一日を終えることができる。汐澤の説明では、ここで起こった出来事は一晩寝ればほとんど忘れてしまうという。だが、本当にそれでいいのだろうか。
 同僚たちを探している最中は出来るだけ見ないふりをしていたのだが、この街にはやたらと菓子屋が多いこと以外に奇妙というか異常というか、現実世界で起きているのかわからない事象や人間にしては奇妙な立ち振る舞いをする通行人を実は何度か視界にとらえてしまっている。例えば、顔に能面をつけて歩いている者。例えば、腰のあたりから尻尾が生えている者。例えば、二階建ての建物くらいの背丈の大男や掌に収まってしまいそうな小さなご婦人。例えば、例えば……思い返せば、ただの菓子屋通りは記憶の中で化けの皮をはぎ取られ、絵巻物に出てくるような奇妙な往来に変貌していた。
 離してしまってよいのだろうか、この縁を。
「どうせ忘れてしまうなら彼らを……私を含めた他所者たちをここに導いたものが何か、それを知っておきたいんだが」
 汐澤は今日何度目かの面倒くさそうな顔をした。
「知ってどうする。どうせ忘れちまうのに」
「それは」
 祖母が、あの言葉を耳元で囁いた気がした。
「今、私が知りたいからだ」
「は?」
「記憶は失くしてしまうかもしれないが、今私が感じている不足感は消えるとは限らない。発生元のわからない欲求は原因を突き止めたくなるのが人間というものだろう。そうやって調べていくうちに此処にまた辿り着いてしまうかもしれない。貴方たちに二度とご迷惑をかけないためにも、今知っておきたい。理由としては弱いだろうか」
「……」
「ここに来ることができたのはリキュウ殿の料理を食べたからではなく、リキュウ殿が持っていたあの匂いの発生源を追ったからだ。知的好奇心だけで私がまた同じことをしないとも限らない」
「……」
 長い沈黙が降りた。
 沈黙を打ち破ったのは背後から聞こえてきた鐘の音だった。ごうん、ごうん、と重く厳かな音が五度打ち鳴らされる。音の出所を探してきょろきょろと辺りを見回していると、私の耳にきぃ、という別の音が届いた。汐澤が扉を閉めた音だった。
「知ったらすぐに帰れよ」
 彼が私を案内したのは鐘突き台のある広場だった。先ほど聞こえた鐘の音はここから消えてきたものなのだろう。これは後で知ったことなのだが、ここは住人達から『横丁の

』と呼ばれる町の中心にある場所だという。
 昼間は賑わいを見せていた往来も、今や両手で数えられるくらいまで通行人が減ってしまっていた。店の何軒かはのぼりや立て看板を仕舞い、暖簾やシャッターを下ろし始めている。人の話し声や呼び声もほとんど聞こえなくなり、音の差で耳が痛くなるような静けさが辺りを覆っていた。
「此処に立ちな」
 汐澤は鐘突き台の正面の石畳を指さした。言われるがままに姿勢を正して立ってみる。
「次は何をすればいい?」
「……まだ早いな。少し待て」
 再び沈黙が降りる。辺りには変わったものが特に見られない。待て、というからには

を知るには何か特別な条件があるのだろうか。誰かが持ってくるものなのか。はたまた、その時間になると降って湧いたりするものなのだろうか。私があれこれ考えを巡らせていると、汐澤が例の黒い小箱を取り出して中に入っていた牡丹餅を一口齧った。持っているのに気がつかなかったが、人探しの途中で一度店に戻ったときに持ち出していたのだろう。
「どうしてそれを持ち歩いているんだ?」
 私の質問に、彼はまた面倒くさそうな顔をした。答えてくれないのか、とはじめは思ったが、彼は意外にもあっさりとその理由(わけ)を口にする。
「アンタやアンタの知り合いみたいに此処に理由なくやってくる奴はそう珍しいモンじゃない。日常茶飯事みたいなモンだ。ここに住んでる奴らとか、理由があって足しげく通う奴とかはみんな舌が肥えてる奴らばかり。俺の作る菓子なんて見向きもしない。だけど、」
 何も知らない奴なら? 俺のことも、ここの菓子のことも、この街そのものも知らない、ここに染まっていない奴なら?
「もしかしたらこの街の外には俺の作る菓子を美味いと言って食ってくれる奴が居るかもしれない……分の悪い賭けだが、やらないよりはマシかと思ってな」
「美味いと言ってくれた奴は?」
 汐澤は首を横に振った。私もまた、彼が賭けたうちの一人だったのか。私が牡丹餅を食べるのを拒絶したことをあっさりと容認したのを思い出す。分の悪い賭け、か。
「牡丹餅を持っていないといけないというのは嘘だったのか?」
「それは違う。あれは本当のことで……」
 街の空気が変わったのは丁度その時だった。どう変わったか、と聞かれると説明するのが難しいが、昼間の色々な匂いが混沌よろしく混ぜこぜになっていたものとは明らかに違う何かに姿を変えたのがはっきりと肌と、それから鼻を通して感じ取れたのだ。
 その空気は甘かった。甘ったるいと感じるほど濃厚ではなく、(ほの)かにと表現するほど薄味でもない。店が閉じ、余計な匂いが無くなったせいでこの街本来の空気が香っている、そんな風に感じた。そしてこれは、
「あの時の……!」
 アイスクリームや甘酒からふわ、と香ったあの匂いにとてもよく似ていた。心地よいような、心を揺さぶられるような、あの匂い。それが確かに、はっきりと鼻腔に押し寄せてくる。気が緩んでいたせいか目頭が熱くなり、胸が苦しくなる。それでも吸い込まずにはいられなくて、少し咳き込んでしまう。
「『黄昏香(たそがれこう)』というらしい。横丁以外で発生するという話は聞いたことがない。世界中を探しても、此処くらいでしか起こらないモンなんだと」
 汐澤も深呼吸をして呟いた。
「何が原因でこうなるのかは分からない。けど、すごく気持ちがいいだろ? 苦い苦い現実と比べればずっと甘くて優しい。だから、まるで誘蛾灯のように人も、動物も、それ以外の奴らも皆誘い込まれてしまう。此処はそういうところだ。リキュウはこれをなんらかの方法で自分の作ったものに混ぜたんだろう。嗅がせるよりも食わせる方が影響力は高いと思ったのかもな。実際そうだったわけだが」
「我を忘れるほどに、か」
「そうだ。アンタは多分、この空気を吸っただけだったから正気で居られたんだ。ホント、幸運なこった」
 幸運、という言葉でまたあの祖母の言葉が頭をよぎった。これも私が神の子だったからだろうか。また信憑性が高まってしまう。実に迷惑なことだ。
「満足したか?」
「あぁ、感謝する。でも、まだもう少し待ってくれ」
「はぁ、そろそろ帰らねえと真面目に怒る……」
 私は汐澤の持っていた開きっぱなしの小箱に手を伸ばし、残っていた牡丹餅を摘み上げた。あ、と彼が手を伸ばすより先に、私はそれをひょいと己の口の中に放り入れ、そのまま口を閉じて丁寧に咀嚼した。汐澤の顔から面倒くさそうな表情がするんと滑り落ち、理解が追い付いていなさそうな呆けた姿になって私の次の言葉を待っている。口の中の牡丹餅を噛み潰し、ゆっくり嚥下する。そして私は汐澤に向かって味の感想を告げた。
()()!」
「え」
「何だこれは?! 何が入っているんだ?! 死ぬほど甘いし変なエグみがあるし、あと餅は固いし謎の弾力もある! 後味にも不味さが残ってる! 凄い! 逆に凄い! じわじわ来る!」
「そこまでか? のけぞるほどか?! 流石にその反応は傷つくぞ?!」
「我儘を聞いてくれたお礼にいい感想の一つや二つ言ってやろうかと思っていたのに名状し難い不味さ! フォローの言葉が出てこない! 申し訳ない!」
「うわー! それ以上言うなー! 謝るなー! 分かっている、分かっているからこそ余計に来るものがある!」
「これは本当に親父さんの指南書通りに作ったものなのか?! それがどうしてこの……

になるんだ?!」
「確かに書いてある通りに作ってるんだが、何故かいつもこうなるんだよ!」
「指南書以外に誰かから教わったりとかはしてないのか?」
「無い! 基本的に独学だ! 貧乏だから調理師学校にも通ったことないし、弟子入りも未経験だ!」
「それって商売していいやつなのか?! 訴えられたりしないのか?!」
「この街では大親分が許可してくれれば何だって出来るんだよ! 悪いか?!」
 怒りとか悲しみとか、驚きとか後悔とか。お互いの包み隠さない感情と感情が正面衝突したせいか、気がつけば二人して腹を抱えて笑っていた。こんなに愉快な気持ちになったのはいつ振りだろう。笑いすぎて過呼吸になりかけてしまう。こんな面白いことを明日には忘れてしまうのか。なんと勿体無い。
「ったく、恩を仇で返すようなことをしやがって。次来た時には絶対美味いと言わせてやるからな!」
「あはは……次に来てもいいのか?」
「当然だろ。此処は『菓子を食べ、菓子を買いに来るところ』だ。お前さんがここにうちの菓子を買いたいと思って来れば、ルールには反しない。お前さんがまたこれを食いたいと思っていれば、の話だが……」
 急に語尾が弱まる。『

』探しの中心に立ってあれこれ指示したりしていた時とは打って変わって自信なさげにしているのが気にくわなかったので、私は懐から財布を出して汐澤に店の棚に置かれていた値札の額だけ小銭を手渡した。彼には目を丸くしてそれを受け取ると、明るい表情を浮かべて背筋をしゃんと伸ばした。わかりやすい人だ。
「勿論、ちゃんと金は取るから財布は忘れんなよ。あと、この街の外にも出ないこと。それさえ守ってくれりゃ、アンタは『

』から『

』に格上げされるから何の心配も要らねえ。いや、やっぱりそれなりに危機感は持ってもらわないとな。アンタはまだこの横丁については初心者なんだから」
 汐澤はにんまりと人の悪そうな笑みを浮かべて私の背中を強く叩いた。
「いつでもお待ち申し上げておりますよ、旦那」

 こうして私はあまや横丁との縁を切らずに無事に元の世界に帰ってくることができたのであった。
 そういえば書き忘れていたが、この手記は私があの日──あまや横丁に初めて行った日に是が非でも忘れまいと必死に書き残した日記を基にして、後に得た知識を埋め込み再編したものである。記録として残したことが幸いしたのか、それともあの時既に『

』になっていたからかはわからないが、不思議とあの横丁と縁が切れてしまうようなことはまだ起きていない。私が訪れるたびいつも横丁はお祭り騒ぎのように賑わっているし、汐澤の菓子作りの腕は一向に上達する気配が無い。それでもあの街に行くのが楽しみで楽しみで仕方ないので、向こう側から切られない限りは通い続けるだろう。今のところは大親分様のお怒りにも触れず、何事もなく帰ってくることが出来ているが、次に訪れるときは果たしてどうなってしまうことやら。身の危険に晒されるかもしれないという不安も無くはないが、今の私にはどんなことに直面してもうまくやっていけそうな自信があった。
 理由? そんなもの決まっている。なにせ、お客様(わたし)は神様の子なのだから。
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登場人物紹介

三郷慎次(ミサト)

此方(こちら)出身の人間。偶然あまや横丁への入口を発見する。

小心者で流されやすい性格ではあるが、妙に思い切りがよく頑固なところがある。形から入るタイプ。

汐澤(シオザワ)

和菓子屋「しおざわ」の主人。横丁に迷い込んだミサトを助ける。

口は悪いが面倒見の良い青年。製菓の腕は壊滅的。

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