泣かない季節

文字数 2,336文字

 少女は帰宅をした。
 高学年に入ったが、まだ小学生だ。
 彼女はどこか神秘的な魅力を放っていた。その姿は、まるで夢の中から抜け出したように、美しく儚げだった。
 華やかな黒い髪を軽やかに揺らしながら歩く。
 その髪は、艶やかに輝き、腰まで美しく伸びていた。目は、透明感があり、まるで星空を映すような深い色をしていた。
 整った顔立ちには、少しの照れと、無邪気な笑顔が宿っていた。
 母親は娘を見て、この娘は美人になると言った。
 父親は娘を見て、今からどこにも嫁にはやらないと言った。
 少女は、何のことか分からなかったが、両親が自分のことを大切に。
 そして大好きで居てくれることは理解していた。
 少女は、手にした絵を見ると嬉しそうに笑った。
 それは、先日描いた自分の絵だった。
 両親と登山に出かけた。
 美しい光景だった。
 その青空は広大で、透明感があり、青さの中にも温かみがあった。風は木々の葉を揺らし、微かに木の香りが漂い、鳥の鳴き声が聞こえる。
 そして、目の前に広がるのは、壮大な景色。
 身も心も風となって、どこまでも駆けていけそうな、そんな気分になった。
 少女はスケッチブックを開くと、鉛筆を走らせた。
 そこには、今見たばかりの素晴らしい風景が描かれていた。
 心が躍り、体が踊り、自然と笑みが浮かぶ。
「上手ね」
 母が優しく微笑んだ。
 少女の心に、温かいものが広がっていく。
「将来は。絵を描く人になるのかな?」
 父が尋ねる。
 その言葉に、少女は大きく頷いた。
「うん! 私、お絵描きする!」
 答える少女の目は、キラキラと輝いていた。
 そう輝いていた。優しい両親に囲まれ、大好きな自然に囲まれて、少女は幸せを感じていた。
 少女にとって、世界は美しかった。
 少女の描いた絵は、コンクールで金賞を取った。
 学校の廊下に張り出され、沢山の人に見てもらえることになった。
 皆が、すごい、上手い、天才だと褒めてくれた。
 少女は嬉しかった。
 もっともっと、素敵な絵を描きたいと思った。
 このことを両親に伝えたかった。
 喜んで欲しかった。
 だが、その日、少女が見たのはリビングで倒れた両親の姿だった。二人は折り重なるように倒れ、苦しそうな表情を浮かべていた。
 床を潮が満ちるように、血が広がる。
 両親は殺されていた。
 なぜ?
 どうして?
 その言葉だけが、頭の中を駆け巡った。
 両親の死を受け入れることができなかった。
 だから、受け入れられない自分を自覚した。
 手から零れ落ちた絵は、血溜まりに落ちた。絵は、たちまち赤く染まる。それは思い出も、夢も、希望も、未来も、何もかも塗りつぶしていく。
 優しかった両親が、もうこの世にはいないという事実が、重く圧し掛かった。
 その瞬間、世界が崩壊した。
 何も見えなくなった。
 真っ暗な世界に閉じ込められた。
 少女は、祖父母に引き取られた。
 それから、何日経ったのか、何ヶ月なのか、それとも数年か。時間の感覚さえ分からなくなった。
 ただ、少女は泣かなかった。
 両親の葬儀の時も、火葬される時ですら、涙を見せなかった。
 口を必死に結び、涙をこらえていた。
 感情を必死に殺そうとしている子供の姿に、周囲が痛ましさを覚えたのは当然のことだった。子供というものは感情豊かであるべきだと、誰もが思ったことだろう。
 泣かない孫娘に、祖母はそっと言った。
「泣いて良いんだよ」
 だが少女は首を横に振る。
「泣いたら、お父さんとお母さんを悲しい存在にしてしまうから。一緒に居られて楽しかった思い出を、悲しい思い出にしたくないから」
 消え入るような声だった。
 自分が泣くことで、優しい両親の存在を汚すような気がしていた。それが許せなかった。
 そして、泣けば、悲しみに押しつぶされそうになることも怖かった。
「そんなことないよ。泣いても思い出は変わらない。楽しい思い出が無くなる訳じゃないよ」
 祖母は、孫娘をそっと抱いた。
 その言葉を聞いて、初めて涙が溢れた。
 涙が流れ始めると、止めどなく溢れた。
 悲しみも、苦しみも、痛みも、全てを流すかのように、涙が溢れ続けた。祖母は、泣き続ける孫の頭を優しく撫でた。
 その手の感触を感じながら、ようやく自分は生きているのだと実感することができた。
 自分の心の中に、忘れかけていた大切なものを思い出した。
 それは、悲しみや苦しみを、ありのままに受け止めること。
 その中で、生きていく力を持つことだった。
 こうして、泣かない季節は終わった。

 ◆
 
 目を覚ますと、木漏れ日から差し込む光が眩しかった。
 公園のベンチに女は座っていた。
 黒いチュールワンピースに、黒のブラウスを羽織り、肩にはストールを掛けている。
 人形にように整った顔立ちをし、髪は黒絹のように艶がある。切れ長の目は、長い睫毛に覆われている。白い肌には染み一つない。
 そんな女が一人で座っている姿は、どこか浮世離れしていた。
 いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
 女は、懐かしい夢を見たと思った。
 もう何年も前のことだ。
 思い出すだけで、胸が締め付けられるような出来事。
 あれから色々なことがあった。楽しいことも、悲しいことも、苦しいことも……。
 だけど、今はあの頃とは違う。
 自分の中で、きちんと折り合いがついているという自信がある。
 だからだろうか、最近は昔ほど夢で両親を見ないようになった気がする。それが良いことなのか悪いことなのか分からないが、今はこれで良いと思っている。
 ふと、誰かに呼ばれた。
 黒い包を担いだ少年が立っていた。
「仕事か口入屋」
 名前で呼んでくれない少年に、女は苦笑いを浮かべる。
「そうよ」
 女・月宮(つきみや)七海(ななみ)は目を細めながら、自分が微笑んでいることに気づいていた。
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