後半 赤い記憶と欲望

文字数 4,983文字

 別の友人が、すごく迷ったんだけど結婚する前に知った方がいいと思う、と言って、携帯で撮った写真を見せてくれた。
 仲良く手をつないで飲み屋から出てくる二人。見たくもなかったキスの写真。さすがにこの後追えなかった、と友人は言っていたけれど。

 問い詰めると彼は浮気を認めて、謝罪した。すぐに、簡単に、大袈裟な謝罪をして、私をなだめた。
 わがままな私を言い聞かせる、いつもの態度で。

 別れるべきと思った。もし自分ではなかったら、別れなさいと言ったと思う。
 友人もそう言った。戸籍を汚す前に別れるべきだと。

 けれどお互いの両親に挨拶もした後で、式場も契約していて、ドレスも選んで、友人にも職場の人にも知らせた後だった。
 私は別れたいのだろうかと考える。分からない。浮気する男は何度でもする、婚約期間にできるような男は、絶対にする。だけど分からない。
 二人で式場をまわって、ドレスを選んで、あの華々しくて誇らしくて楽しくて浮かれていた時間。あの裏で彼らは、私を裏切っていたのだ。

 めちゃくちゃに泣いて謝った友達は、親友だと思っていた友達は、私をどんな目で見ていたのだろう。
 プロポーズされて、結婚が決まって、ブーケはあげるからね、と浮かれて話していた私を、本当はどんな目で見ていただろう。
 私を嘲笑って、楽しんでいたのだろうか、少しでも申し訳ないと思っていただろうか。例えそう思っていたのだとしても、少しも許せるとは思えない。私が馬鹿みたいで憐れで、絶対に別れてやるものかとも思う。

 人に知られて困るのは私ではなくて、裏切った彼なのに。
 きっぱり捨てて、二人のしたことを人に知らしめて、辱めるのが彼らにとっての罰でもあるのに。
 友人の謝罪のメールは全部取ってある。どうしてやろうか、とずっと考えている。もしかしたら彼は、友人をかばうために私を誘導しているのかもしれないとも、思うけれど。

 でも何より、裏切られた絶望が胸の内を黒く塗りつぶして、怒りで震えて、だけどみっともなくて、ただただみっともなくて、婚約者と親友に裏切られるなんて、見栄と未練と憎悪でぐちゃぐちゃになって、何もできずに話は進んでいく。

 そして母と祖母の、あの赤い着物を見る顔を目にしたら、何も言えなくなってしまう。
「たまたまだよ。まさか、会ったりするわけない」
 彼は驚いた声だ。
「……信じられない」
 驚くなんて、そんな資格彼にはない。
「信じられるわけないじゃない!」
 私は耐えられなくて、大きな声を出した。
 じゃあ、やめるか、と彼は言わなかった。私も言わなかった。



「うるさい」

 唐突に左の耳から声がとびこんで、私は驚いて右耳から携帯を離した。反射のように電源ボタンを押して、電話を終える。

 禁忌の山に、この祠に、人がいるはずがない。
 だけど鳥居の下に、木漏れ日で斑になった男性が立っていた。暑くないのか、真っ黒な着物を着ている。見たところ若いのに、珍しい。
 驚いた私の顔をみて、相手も目を見開いた。

「裕子」
 聞き覚えのある名前だ。私は少し考えてしまった。ざわざわと風に揺れて木が鳴る。

 ああ、お母さんの名前だ。
 知り合いだろうか。地元でお母さんの知り合いなら、もっと年上の同年代の人ばかりの印象で、違和感を覚える。
 お母さんの友達の息子さんとかだろうか。

 土を踏みつけて、着物の男性が歩いてくる。近くで見ると、綺麗な顔の人だなと思う。目も髪も、濡れたように黒い。
 観察して、私は息をのんだ。
 その頭には角がはえていた。


 さわさわと風に葉の鳴る音がする。蝉がうるさく鳴いている。

「そんな訳がないか」
 男性は、間近で私の顔を見て、奇妙な表情をした。諦めのような憐みのような。

 そんな訳がない、とは私の言いたいことだ。
 だけど間近でみたその頭には、やはり二本の角が生えている。そして少しも汗をかいていなかった。私なんて汗でメイクは剥がれて、髪が肌に貼り付いてみっともないのに。

 こんな場所で、冗談のような格好をしている人なんて、無視するべきだと思った。だけど私はもう、そんな理性の声なんか聞きたくなかった。

「……それ、本物?」
「人間は私を見るとそう言う」
 彼は苦笑した。触ってみろ、と言う。身をかがめて頭を出した。さらりと黒髪が揺れる。

 ずいぶんと気軽なひとだ。いや、鬼なのか。
 見ず知らずの男性の頭に触るのは躊躇ったけれど、私は母の名を呼んだこの人に興味を覚えて、手を伸ばした。柔らかい髪が手に触れる。

 間近で見たところ、何かで固定しているようすはなかった。指先で角に触ってみる。ひんやりしている。握ってみると、固い。取れるだろうかと思って、引っ張ってみた。

「痛い」
 少し苛立った声で、私はハッとした。
「あ、ごめんなさい」
 私は慌てて手を離した。本物だ、と思った。力を入れて引っ張ったのに取れない。

 鬼の話を聞いたばかりだからだろうか、彼との電話で気持ちを揺さぶられたばかりだからだろか、私は鬼のことにあまり驚かなかった。いや、驚いたけれど、いるんだな、と思った。
 あまりに普通にそこにいて、人と同じような姿形だったからでもあると思う。ああ、喉が渇いたな、と思うのと同じくらい、普通にそこにいた。

 絵本などで見る鬼はもっと恐ろしげだったけれど、ここにいる男性は、恐ろしい空気などまるでなかった。
 婚約者の彼のように、穏やかな空気すらあった。

 ――ここは、鬼の祠だ。
 真夏の、明るい日差しの木漏れ日の下で、その鬼は立っていた。

「誰かと待ち合わせ?」
 彼は母の名を知っていた。同名の別人かもしれない。
 鬼はどう見ても若いし、母の知り合いとも思えないし、聞き間違いかもしれない。――けれど、花嫁をとって食ったという鬼が彼なら、見た目よりずっと年をとっているのかもしれない。なにせ、鬼なんだから。
 それに私の母は、極端に私がここへ近寄るのを嫌がった。

「昔な」
 鬼は現れた時と同じ唐突さで、私から離れた。
 踏み固められた土を歩き、ぼうぼうに生えた草を踏みわけ、祠の苔など気にせず、もたれて座る。鬼の祠に。



「ねえ、鬼って人を食べるの」
「人間は私を見ると、同じことを言う」
 鬼は笑った。
「昔はよく食った。今は人を食うと面倒なことが多いから、前ほどは食えなくなった」

 昔とはどれほど昔のことなのか。
 あまりにもさらりと言うので、冗談のようだった。それがかえって真実のようでもあった。

 でも恐くなかった。変質者を見た時のような、不可解な物を見た時の怖気も起きなかった。日が頭の上にあって、静かで、私はすでに婚約者のことで正気をなくしていたのかもしれない。
 私を食べるのかしら、と少し思ったけれど、この鬼にはそういう不穏な空気が少しもなかった。

「お前はなぜ怒っていた」
 鬼は私の手のスマートフォンを見ながら言う。電話が分かるなんて、昔話とは違うな、と思うとやはり妙で、おかしい。

「わたし、結婚するの」
 思ったよりもするりと言葉が出た。
「でも私の婚約者は、他に恋人がいたの。だから、怒ってたのよ」

 母にも、誰にも言えなかったのに。知らせてくれた友人にも相談などできなかった。二度と言わないでとそれきり、誰にも言わなかったのに。
 鬼は鼻で笑った。

「人間は嘘をつく」
 そういう生き物だ。そんなことで怒るなど馬鹿げている、と思っているようだった。
「人と約束をしたことがあるの」
 鬼のくせに、と思った。鬼は私を見て、唇をゆがめる。

「昔ここで人間の女と会った。毎年夏になると現れる女だった。ある年、また翌年来る、その時一緒に行くと女は言った。だが来なかった」
 それだけのことだ、と鬼は言った。
「人は裏切る。言葉を鵜呑みにするなど馬鹿げていると思った。だが、もしや、とも思った。俺はここにいたが、女は来なかった」

 待っていたとは言わなかった。待っているとも言わなかった。
 だが鬼が、待つとはなしにでも、待っていたことなど分かる。もしこの鬼が昔語りの鬼なら、少し、数十年気にかけるくらい、大したことではないのかもしれないけれど。

「まだ待ってるの?」
 鬼は答えなかった。母の名を呼んだ鬼。私がこの山に来ることを、ひどく恐れた母。
 ――女の子は、特に花嫁は近づくなと、きつく言いつけられるこの山に現れたという女の人は、どういうつもりだったのだろう。

「お前も、赤い着物を着て嫁ぐのか」
 鬼は、母の花嫁姿を見ただろうか。
「そうよ」
「他の土地では、花嫁は白い着物を着るものだろう。なぜお前たちは、赤を着る」
 赤は祝いの色。赤は魔除けだと、母は言った。
 鬼に襲われないための魔除けだと。

「赤い色、恐くないの」
「赤は血の色。赤を恐れて、人が食えるか」
 それはそうだ。妙に納得した。

 だけど人々は魔除けと信じて、願いを込めて、あの衣装を娘に贈るのに。
 憐れなくらいに無力だ。鬼自身は、彼のための魔除けなんだってことすら知らないのに。むなしくてかわいそうだ。
 ――私も。疑うことなく彼を信じていた自分が、何故だか重なる。かわいそうだ。
 昔は花嫁が襲われたので赤無垢を着るようになったと言うけれど、鬼は面倒を恐れて襲わなくなっただけなのかもしれない。

「知らなかったの。あれはみんな、あなたへの花嫁だったのに。花嫁が襲われることが多かったから、鬼へ差し出す花嫁も用意するようになったのよ。だから、よそとは違うの」
 風が流れて、汗に濡れた私の髪を重たく揺らす。涼しげな鬼の髪はさらさらとなびいた。

 私は短い参道を歩いて、祠のそばに立つ。地面に座って祠にもたれる鬼が見上げてくる。その涼しげな瞳を見返した。

 じんわりと汗がにじむ。これは、暑いから。ただそれだけ。ああ喉が渇いたなと思う。暑いから、それだけ。

「ねえ、約束の人は待っても来ないよ。わたし、あなたと行くわ。嘘ではない証しに、赤い着物を着てあなたに嫁ぐ」
 ――私も鬼に嘘をつく。人間だから。

 黒い気持ちがずっと心の底に淀んでいる。私はずっと憎悪の中を漂っていた。その憎悪の底から、手を伸ばす。

 鬼は穏やかに私を見ている。
 鬼はとても若く見える。だけど昔話のまま生きて、昔の約束を何十年も覚えている鬼は、ただただ年寄りなのかもしれない。
 だから木のように穏やかで、枯れた目で私を見る。婚約者の彼の、意志を隠す穏やかさとは違う、意志の見えない深い目で。

「だから、花婿を殺して、花嫁を奪ってもいいのよ」
 あれはお飾りなんだもの。



 髪は結いあげて日本髪に。目を伏せて、赤い目張りを施される。ひやりとして筆がくすぐったい。
 見慣れない鏡の中の自分を見ているうちに、美容師は私の唇に真っ赤な紅をひく。水化粧をした白い顔の中で艶々と光っている。

 なんだか、狐みたい。少しおかしい。
 赤い着物に赤い綿帽子、白い顔が浮き上がるようだった。ますます、妖怪じみていると思う。どこか禍々しさすら感じた。

 やがて花嫁の家に、花婿が迎えに来る。
 祖母が出迎え、私は母に手を引かれて玄関を出た。そこに黒羽二重の紋付き袴を着た彼がいる。
 彼は土地の風習にならって、鬼の祠にお参りをすませてきたはずだった。私はこれから、迎えに来た彼と一緒に、地元の大きな神社へ向かうのだ。土地の人たちは長い花嫁行列を楽しみにしているそうだ。

 赤に染まった私を見て、彼は少し奇妙なものをみるような顔をしたけれど、目が合うといつものように微笑んで「綺麗だよ」と言った。
 本心などしまってしまえる、そういう男だ。

 私は笑顔で、ありがとうと応える。私も本心を心の中の祠にしまう。もう黒い感情は私の中にはない。

 彼の着物が白だったらいいのに、と思う。
 黒羽二重の紋付きではなくて、白だったら良かったのに。さぞ美しく赤く染まることだろう。

 そんなところを想像しながら、私は晴れやかにこの家の門を出る。
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