前半 血色の風習

文字数 5,201文字

 両親の地元では、花嫁は赤無垢を着るのだという。初めて聞いた時は、白無垢ではないの、と思わず聞き返したが、赤だと言う。

 私は、お盆休みと有給休暇で長めにもらった夏休みを使い、母と一緒に祖母の家に来ていた。

 両親の結婚式についてはあまり聞いたことがなくて、この時はじめて写真をみせてもらった。
 型物と呼ばれる二人並んだ写真の中、父は黒い紋付に縞袴、母は古い写真でも鮮やかな赤を着ている。白い顔以外は、綿帽子も羽織も掛下も、強い赤だ。

 衣紋掛けに飾られた着物もやはり赤だ。少しも色あせていない。
 赤い糸で背中に鶴が数羽舞っている。今にも飛び立ちそうに華やかだ。相良刺繍という高価なものだと言う。

「懐かしいわねえ」
 団扇で煽ぎながら額ににじむ汗をハンカチでぬぐい、母も着物を見ている。
 流れ込んでくる風に混じって、蝉の声が葦簀の中に遠慮なく入ってきていた。座卓の上の麦茶の氷が溶けて、涼やかな音を立てる。夏の音だ。

「孝幸さんの転勤もあったし、あんたは地元で式あげるのを嫌がっていたけどねえ」
 そう言いながら、祖母も懐かしそうに目を細めている。
「そんなこともあったわね」
 お母さんは、苦笑した。何度も言われた文句だったのかもしれない。

「お母さんは、大学はよその土地に行ったんだっけ。戻ってきて式をこっちであげたんだね」
 両親は同じ市の出身で、母が大学を卒業するのとほとんど同時に、お見合いをして結婚したそうだ。

 父はすでに転勤が決まっていて、私が生まれるずっと前に土地を離れたので、私はこの土地をあまり知らない。
 夏休みやお正月などに、母に連れられて祖父母の家に来ることはあるけれど、父の両親とはあまり会ったことがなかった。

「そうでもしないと、こんな田舎出て行けないじゃない。でも、お母さんも、ウェディングドレスが着たかったわ」
 そんなにここを離れたくてたまらなかったのだろうか。母は私の方へ手を伸ばして、髪に触れた。

「彩は髪も長いから、自毛で日本髪ができるし、きっと似合うわ」
「花嫁だもの。結婚式で困らないようにずっと伸ばしてたの」
 私はわざと得意げに言った。

 この暑い夏の最中、私は学生のころから四年間付き合った彼と結婚する。

 はじめ結婚式は父と母の里で、その土地で有名な神社で行うように言われ、私も彼もひどく渋った。
 私は華やかなチャペルやウェディングドレスに憧れていたし、彼の両親は今住んでいる土地の人だったし、会社の人や友人を呼ぶことを考えると、現実的ではなかった。

 そう訴えても、私の両親それぞれの実家から、お披露目はどうしても祖父母のいるこの土地でと言われた。
 だから職場の人や友人を招いた結婚式や披露宴は今住んでいる町でするけれど、その前にこの土地の神社で式をして、近くの大きなホテルで食事会をすることになったのだ。

 友達は、神前式も教会式も体験できていいじゃない、と言う。
 でも風習だとかしきたりに慣れない私には、こういった集まりはとても堅苦しく感じる。それは夫となる人と、ご両親も同じだろう。都会人の彼らには気が重いに違いない。
 花嫁の遠縁まで親戚がずらりと揃う中、彼らは家族とごく身近な親戚だけだ。母は、こういうものから逃げたくて、都会の大学へ行ったのだろうか。

「まさか、こんな真っ赤な着物を着ることになるとは思わなかったけど」
「珍しいでしょ」
「うん、聞いたことはあったけど、写真を見たのははじめて」

 以前、結婚式場のプランナーが言っていたけれど、最近は和装も型にはまらないことも多いのだと言う。
 芸能人の影響や、オリジナルということにこだわって、ドレスのトレーンのようなレースのついた羽織を好む人や、オーガンジーなどの透けた素材の綿帽子をつける人もいる。
 白無垢を嫌がる花嫁もいるそうだ。白は「嫁いだ家の色に染まる」という意味だから、現代の女性は反発を覚えることもあるらしい。

 それでも赤無垢、というのは初めて聞いたし、まさか両親の里でそのような変わった風習があるとは思わなかった。
 私にはとても異質なことに思えるけど、目の前の着物は、儀式の衣装にふさわしいような、軽々しく扱えない存在感を持っている。

「孫にはやっぱり、赤無垢を着てもらわないとね」
 同じようなことは、父の祖母も言っていたそうだ。

 白無垢でも、祝いの赤いさし色を入れた赤ふきで着ることがある。
 だけどこの赤無垢は、魔除けなのだと言う。

 昔この土地には鬼が棲んでいて、花嫁行列が通ると、花嫁を襲って食ってしまうことがあったのだとか。白は純潔で無防備すぎ、鬼の色にも染まるのだと、赤を着るようになったらしい。
 邪悪なものから守ると言う花嫁のベールと似たものかなと思うと、そう変でもない気がするけれど、やはり花嫁の色ではないかなと思ってしまう。

「妖怪なんて、友達に言ったらびっくりしてたけど。今の時代まだそういう風習があるんだって珍しがってた」
 やはり友人達は「伝統って感じでいいじゃない」と目を輝かせていた。でも自分の立場だったら私と同じように苦笑するに違いない。彼は気味悪がっていた。あからさまではなかったけれど。

「妖怪じゃなくて、鬼だよ」
 祖母は小さい子を叱るように言う。

 改めて、型物写真を手に取って見る。
 自分の準備のために色んな花嫁さんの写真を見たけれど、白い色は楚々としていて、初々しかった。あまり若くない人だって、輝いて綺麗だった。
 けれどこの写真は、やっぱりなんだか異様だった。頭の上から爪先まで鮮やかに赤い花嫁衣装は、華々しいのと同時に、どこか不穏で、妖怪じみているとすら思う。


 突然ガタガタと大きな音がして、私はびくりと肩を震わせた。
 桐の一枚板で作られた座卓の上で、ピンクゴールドのスマートフォンが震えている。

「びっくりした。電話?」
 母も驚いた顔で、私のスマートフォンを覗きこんだ。ディスプレイに、電話をかけてきた相手の名前が光る。
 慌てて飛びつくようにした私に、母は苦笑する。私は、バッグにしまっておかなかったことを後悔した。

「照れないで、出ればいいのに」
「ちょっと外出てくる」
「お山には行かないようにね。花嫁さんなんだから」
「分かってる」
 まだ震えている電話を握りしめて、私は玄関へ向かった。
 サンダルをつっかけて、日差しの強い外へ出る。日傘、とよぎったけれど、やめた。

 祖母の家を出ていくらかも歩かないうちに電話の震えが止まる。私は少しほっとして、スマートフォンを見る。
 不在着信一件。留守電はなし。

 私はひどいしかめっつらをしているだろう。大きくため息をはく。
 母や祖母の前で明るく笑っていた顔が再現できない。自分の結婚なのに、どうして自分の親にむけて気を遣わないといけないのだろうと思うと、理不尽な気持ちでいっぱいになる。

 再びスマートフォンが震えた。今度は短く三回だけ。
 ディスプレイには、友人の名前が表示されていた。学生時代からの女友達からのメッセージだ。
 内容は分かりきっているので、私は電話を握りしめ、そのまま歩き続けた。


 田舎の空は高くて広い。
 白い雲もうず高く伸び、緑の山々の上で真夏の空は鮮やかなコントラストだった。
 舗装されたアスファルトの道は照り返しで熱いけれど、私の住む町のように焼かれる強さはない。
 雄大な景色の中で私は、のんびりと穏やかにすることもできずに、手足をぎこちなくしてせわしなく歩いている。

 足は自然とひときわ大きな山へと向かっていた。母に「行かないように」と言われた山、幼い頃からいつも、近寄るなと言われていた場所だ。
 人があまり立ち入らず鬱蒼と木々の茂る山は、幼心にも恐ろしく、一人で来たいとは思わなかった。

 ここはいわくのある場所なのだと言う。祖父母は不吉を恐れ、母は娘が迷子になるのを恐れたのだろう。
 近くを通りかかり、迫りくるような木々を恐怖と興味で見上げた私を、母は強く叱責した。強く握られた手や、引っ張られた痛みや、母のいつになく鋭い声を覚えている。

 祖母にも母にも、女の子は来てはいけない場所なんだと何度も言われた。特に、花嫁は。
 でも私は今、誰にも会わずにすむところに行きたかった。行くなと言われる場所にこそ行きたかった。

 山へ入る道は唐突に始まっていて、アスファルトの脇に、人の足で踏み固められただけの細い道が伸びている。
 山道に踏み込むと、強い日差しは濃い緑に遮られて、幾分か暑さが和らいだ気がする。
 地面を踊る木漏れ日も涼やかで、肌に当たる風もひんやりしているけれど、道が険しくて汗がにじむ。髪をまとめず背に流しているせいで、首筋がじんわりと暑い。

 私は黙々と登り続けた。迷うかもしれないなど考えもせず、ただ道を進む。
 どれだけ歩いただろうか、息も切れて汗だくになって一休みしたいと思った頃、道は終わっていた。

 木漏れ日の下、道の先には、木で造られた古ぼけた鳥居があった。
 見て、ゾッと鳥肌が立った。汗をかいた肌が冷えるようだった。そんな異様な重苦しさが、ここにはあった。
 朱い色はなくて、苔がはえて緑かかった黒ずんだ色をしている。踏み固められた土の参道が伸びる奥に、ひっそりと古い祠が建っていた。その横にはずっしりとひときわ大きな木が枝を広げている。

 鬼がいる、という山だった。
 これは鬼のための祠だ。花婿は、花嫁を迎えに行く前に、ここに寄って鬼に祈るのだと言う。
 花嫁を奪わないように。

 私は信心深いタイプじゃない。それでも、禁忌がここにはただよっていた。――それでも、今の私にはそんなもの、どうだっていい気がしていた。

 鳥居をくぐって、参道を歩く。
 大人が二、三人手を広げて囲めるか、というようなその大木の陰にある祠は雨風にさらされて、鳥居と同じように湿気を吸って変色した木と、緑の苔の鮮やかさが、年月を思わせる。
 その色合いは、もう木の一部になってしまったかのようだ。だけど、小さいのにどこかじっとりと重い空気があった。

 握りしめたままのスマートフォンが、ぶるぶると震えた。静かな山の中、マナーモードのバイブレータの音ですら大きく聞こえる。ディスプレイに、名前。
 私はため息をつき、強く気持ちを込めて息を吸い、そして諦めてスマートフォンの着信ボタンをスワイプした。
 言葉を発するのに、さらに一つ息を吸う。

「もしもし」
「……彩?」
 一拍遅れて、相手も声を返した。低い、静かな男性の声。

「そうだけど。今外なの」
 なるべく普通に応えたつもりだったけれど、我ながらぎこちない。ざわざわと葉擦れの音が彼にも聞こえているだろうか。

「ああそうか。悪い。明後日、そっちにつく時間を知らせておこうと思って」
 うん、と私はただ頷く。
 昼の一時には駅に着くから、ご飯はお弁当ですませるから、と告げる彼に、うん、とただ応える。余計なことはあまり話したくなかった。

「なあ」
 そっと、彼は言う。
 電話越しにも優しい声。私は何も言えず、ただため息を返す。
 穏やかで好きな声だった。大きな声を出さず、静かに話すのが好きだった。その声で彼は言う。

「こうするのが一番なんだから。元通りに、ちゃんとするのが一番なんだから。ご両親も悲しむだろうし。彩だって人に知られたくないだろう」
 いつもの言い聞かせる声。彼は私が何か不快なことをしても怒ったりはせず、そっと注意をしてくれる人だった。
 私が、自分が悪いのは分かっていても、拗ねて謝れずにいるのを、根気強く待ってくれて。

「……まだ怒ってるのか」
 だけど、よく言ったものだ。
 まだ、とは、よく言うものだと、不快感に胃が殴られるようだった。
 目の前が一瞬黒くなり、顔から血が引いてくような感覚。暑さも手伝って、うまく息ができない。

「なあ、彩」
 応えない私に、電話の向こうから心配そうな声がする。いつもの、私を受け入れ続けてくれた声。
 だけど今は、よくそんな声が出せるものだとしか思えない。自分の顔が歪んでくるのが分かる。

「ねえ、本当にもう連絡取ってないの」
「……なんで」
「またメールが来たの。さっき着信があった直後に」
 友人からのメールは、謝罪と言い訳だらけだ。一体どんな言い訳が通ると思っているのか、笑ってしまう。

 私の婚約者は、私に指輪を贈ったその裏で、私の友人と浮気をしていた。
 大学の頃の友人で、卒業して就職しても頻繁に会っていた、親友と思っていた友達だった。
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