第1話

文字数 1,998文字

 “夫”は今日も残業だ。
 夕食を終えた彼女は、日本製のプレイヤーにDVDを入れ、スイッチを押した。
 モニターにペンギンたちの可愛い姿が現れ、日本語の解説が流れた。
 日本製のインスタントコーヒーを飲みながら、彼女は画面を眺めた。
 DVDデッキもインスタントコーヒーもここでは高価で一般人は簡単に買えるものではない。だが、“夫”はこれらを容易く入手し、彼女に与えた。その他、たくさんのブランド物の服やバック、宝飾類を買ってくれた。
 何でも手に入れる彼は超能力者、念力使いのように思われた。
 今、彼女は日本でスナックのホステスをしていた時とは比べものにならないほど贅沢な生活を送っている。
 彼女は日本生まれの日本人だ。
 天涯孤独のため養護施設で育った。退所後、身を寄せるところがなく困っていたところ、スナックを経営している女性と知り合い、その店で働くことになった。
 数年後、常連客の一人に一年間、韓国で働いてくれと頼まれ、彼女はソウルに発った。
 だが、着いたのは平壌だった。
 彼女は同行者に、話が違うと文句を言ったが、“一年したら帰してやるから取り敢えず働いてくれ”と言われた。
 普通の国と異なる体制でパスポートも手元にない状況下、自力で帰国するのは困難と思い、この言葉を信じて、この地で働くことにした。
 だが、一年経ったが帰国は叶わず、その期限は二年、三年と延長され、そのうちウヤムヤになってしまった。
 その間、ママと連絡を取りたいと何回か言ったが、これも無視された。
 彼女のここでの仕事もホステスだった。
 “お客”は、この国の最高指導者とその取り巻きだ。
 彼女は、彼らの飲み会で働いた。同僚の現地の女の子たちは、緊張していたが、彼女はそうしたことはなかった。
 日本への帰国を諦めた頃のある日のことだった。いつものように、指導者同志が酒飲み競争を行ったが、その時の賞品は望みを何でも叶えてやるというものだった。
 普段だと、酒豪の指導者同志に適う者などいなかったが、その日は彼以上の酒豪の男がいたのだった。
 さすがの指導者同志も降参してしまい、音を上げた。
 勝った男は彼女を指しながら「あの女を下さい」と言った。
 指導者同志が快諾すると、彼は礼を言いながら彼女を抱え上げ、その場を去った。
 こうして、彼女は“夫”と暮らすようになった。
 “夫”といっても正規に結婚したわけでもなく、外からみれば内縁関係になるだろうか。
 彼は殆ど在宅せず、彼女は単に夫の家に住んでいるだけの状態だ。
 それは彼女にとって有難いことだった。ホステスの仕事もしなくて済むようになり、気楽な一人暮らしになったのだ。。
 仕事は特に無く、近所の百貨店やホテルのティールームなどへ行って日々を過ごした。
 また、時々、“夫”の配偶者として、各種公演などに参席した。
 こうした中で何人かと顔見知りになり、時々、言葉を交わすようになった。大したことを話すわけではないが、ある程度の“情報”を得られた。
 21世紀を過ぎて14、5年経った頃だろうか、自分と同じように日本から連れて来られた男性二人を帰国させるという提案を日本側が断ったという話が耳に入った。
 風聞に過ぎないので詳細や真偽のほどは分からないが、この二人は親族が無く、また世間に“名を知られていない拉致被害者”のため帰国されても日本政府側にメリットがないと判断されたためだといわれている。
 日本に待つ人もなく、誰にも知られていない自分も同じ立場になったら、断られるのだろうなと彼女は思った。その上、裕福な特権階級の自分が日本に戻ったら反感を買うのではないかとも考えた。
 親に捨てられた自分は、祖国からも見捨てられたように感じた。その瞬間、悲しさと虚しさが胸に押し寄せてきた。
 如何に豊かな暮らしをここは自分の居場所ではなかった。だが、もうこの地以外には身を寄せる場所はないのだ。
 その後も淡々と彼女は日々を送っていた。
 ある日、市内の非公設市場で短波放送が受信出来るラジオを入手した。以後、深夜こっそりと日本の対北放送「さざなみ」を聴くようになった。
 受信状態は良くないが、日本語や日本の歌を聞くことで気持ちが少し安らいだ。
 こうして十年近く経ったある日、いつものように「さざなみ」を聴いていると、驚くべきニュースが流れた。
 日本の民間団体が、帰国を拒まれた拉致被害者二人の帰国を促す要望書を政府に提出したというものだった。
 日本の国民は自分たちを捨てていないのだ。
 続いて、ラジオから自分の名前が呼ばれる声がした。   聞き覚えのあるものだった。彼女が勤めていたスナックのママだった。
「…長い間、放って置いて本当にごめんなさい。ぜったいに帰国できるようにするからね…」
 日本に自分を待ってくれる人がいるんだ。彼女の胸は熱くなった。
 この日から彼女の心に仄かな明かりが灯ったのだった。
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