第3話

文字数 4,157文字

「いただきます」
 料理の写真を撮った幹子が、スマートフォンをバッグにしまい、小さく手を合わせて言った。そう、今はまず、食べよう。
 鶏とカシューナッツの炒め物は、刻んだ三色のパプリカや茄子、きくらげ、玉ねぎが使われていて、見た目にも口の中でも、カラフルで楽しい。
「すっごく美味しいね!」
 幹子の声が、もう一度弾んだ。
「こんなに野菜を刻むの、大変だろうけど、美味しいよな」
 健太郎の声も、今日いちばん軽やかに響く。
「先生とお母さんも、こんな美味しいものを一緒に食べてたんだもん、仲良くなるよね」
「まあ、確かにそれもあるかな。でも、それだけじゃないぞ」
「あたし、ふたりがどんな話してるのか、想像もつかないんだけど」
 健太郎と幹子が、とても自然な様子で、なめらかに話せている。
「いちばん多いのは、自転車とサッカーの話かな」
「えっ、先生も自転車乗るの?」
「乗るよ。こう見えても大会にも出たんだぞ、たまにだけど」
「想像つかない。でも、お母さんも乗るから、確かに話は合うよね」
 お父さんっていうのが、どんなものか知らない。先程の幹子の言葉と、目の前の光景が、ふっと頭の中で重なる。やさしい未来を想像してしまう私は、甘いのだろうか。
「わ、ポテトサラダもすごく美味しい」
「いぶりがっこがすごく合うよな」
「ね、漬物っていうよりスパイスみたい。これ、丼で食べたくなるね」
 食事を始めたことで、幹子の雰囲気が明るくなり、健太郎が少しお喋りになった。美味しいものには、こんな力もあるのだなと、改めて思う。
 皿の右側に乗ったエビマヨも、淡いピンクのソースをまとった、海老の赤とブロッコリーの緑が、優子さん本人のように可愛らしい。けれど、幹子はどういうわけか、それには手をつけようとはせず、健太郎にこんなことを訊いた。
「先生、あたしのエビマヨ食べる?」
「え、何で?」
「あたし、エビマヨって苦手なの。前に食べたことあるんだけど、甘くて脂っこくて」
 健太郎は以前にも、優子さんのエビマヨを食べたことがあり、本当に美味しいと絶賛していた。きっともらうんだろうな、そう思ったのだけれど。
「でもさ、優子さんのは絶品だから、幹子も少し食べてみなよ。それでも口に合わなかったら、俺もらうから」
 彼は、まるで父親のようにそう答えたのだ。
 思わず幹子の反応を見ると、彼女も同じことを感じたのだろう、ぴたりと動きを止めている。
 ……そして。
「じゃあ、先生、お母さん」
 そして、娘はとんでもないことを言い出した。
「このエビマヨが美味しかったら、あたし、先生とお母さんのこと、素直に祝福することにするね」

 聞き間違いじゃ、ないよね?
 あまりの驚きに、私は箸を落とすところだった。
「あのさ、幹子。こんな大事なこと、エビマヨで決めていいのか?」
 健太郎の顔が、急に赤くなってくる。それは、彼だって驚いただろう。突然、こんな爆弾のようなことを言われるなんて。
「だって、あと何ヶ月考えても、絶対、答えなんかわかんないもん」
 戸惑う私たちにはお構いなしで、幹子はさらりと答える。
「でしょ? 卒業しても、先生は先生だし、お母さんはお母さんだし。あたしが先生を大好きとか、大嫌いとかなら答えも出るけど、どっちでもないし」
 だからって、そんなに簡単に決めていいの? 私の問いも、娘はにっこり笑って受け流してしまった。
 いや、もしかしたら、簡単ではないのだろうか。ふと、そんな考えが下りてくる。
 幹子はきっと、嫌だとは言えないのだ。私の幸せを、手折らないために。けれど、クラス担任を父親として迎えるのも、おそらく抵抗があるのだろう。
 私たちはきっと、父親がどんなものか知らない、という十八歳の娘に、難しい選択を迫っている。エビマヨが美味しかったら、というアイディアは、簡単に聞こえるけれど、彼女には絞り出した結論なのかもしれない。
「じゃあ、いただきます」
 幹子はそう言うと、海老をひとつ持ち上げた。
「どうぞ。絶品だよ」
 どうぞ。美味しいよ。
 重なった健太郎と私の声が、どちらも静かに響く。
 自信あるんだねと呟いてから、幹子はそっと、海老を口の中に置いた。そのまま、ゆっくりと噛みながら、私たちの顔を交互に見て。
「……うん! 確かに、絶品だね」
 そして、はっきりした声で言った。
「あたしが前に食べたエビマヨと、全然違うよ。脂っこくも、変に甘くもなくて、コクがあるのにすっきりしてる。これ、いくつでも食べられちゃうね」
「だろ? 絶品だよな」
「うん、認める。エビマヨ美味しいことも、あと……ふたりの、結婚も」
 不意に、幹子の声が揺れた。
 あっ、と思った次の瞬間、その瞳に涙がこみあげてくる。健太郎が慌てて、ポケットのハンカチを探す仕草を始めた。
「先生、お母さんのこと、甘やかしてあげてね」
 幹子はそれを気にもせず、自分のハンカチを取り出しながら、震える声で言葉を続ける。
「お母さん、ほんっとに今まで頑張ってきたの。仕事も、あたしのことも、家事も、いつ寝てるんだろうって思うくらい、頑張ってたの」
 今度は、私の目に涙があふれてきた。
 幹子は、こんなふうに私を見ていたんだ。
「だから、これからは先生が、お母さんを楽しませてあげて。自転車も、これからは一緒に、いろんなところを走ってね」
 私が歩いてきた軌跡は、間違いじゃなかった。
 幹子が小さい頃は、大変と思う暇もないほど忙しかったり、寝不足でふらふらすることもあったけれど、一人娘はいつのまにか視野を広げ、こんなにやさしく育っていたのだから。
「約束するよ、絶対。だから、真理さんのことは、俺に任せていいよ」
 視界が涙で霞んで、健太郎がどんな表情しているのか、見えなかった。けれど、きっと背中をまっすぐにして、真剣に幹子と話している。聞こえてくる声で、それがわかった。
 私は、幸せになろうとしている。
 幸せに、なっていいんだ。幹子がそう、望んでくれているから。健太郎が娘に、約束してくれているから。
 これまで、大変なことはたくさんあっても、私は決して、不幸でも寂しくもなかった。けれど、これからはきっと、もっと幸せになれる。
 素直に、そのことを喜ぼう。そう思った。
 私の軌跡の先にあった、この奇跡を、素直に受け止めよう。受け止めて、これからは、それを無くさない努力をしよう。
 幹子のために。健太郎のために。
 そして、私自身のために。

          ◇◆◇

「私のエビマヨが、きっかけだったの?」
 後日、お店が空いている時間を狙って、私はひとりでCafe Yukoに足を運んだ。
 食事中のカップルが、テーブルに一組いるだけなので、私はいちばん奥のカウンター席と、優子さんを独り占めしている。大きなカップに淹れてもらった、コーヒーも一緒に。
 そうなんですよ、優子さんの神料理のおかげです。私の答えに、彼女は嬉しそうに笑いながら、首を横に振った。
「あのエビマヨのソースね、マヨネーズにケチャップじゃなくて、チリソースを混ぜてるの。すっきりしてるって言ってもらえたのは、そのせいかもね」
 なるほど、秘訣はチリソースだったのか。
「本当は幹子ちゃん、あのエビマヨが不味かったとしても、美味しいって言ったと思うよ」
 絶対に、不味かったということはない。幹子は結局、泣いたり笑ったりしながら、健太郎の海老までひとつもらって食べたのだから。その話をすると、もう親子みたいねと、優子さんは嬉しそうに頷く。
「でも、真理ちゃん幸せそう。良かった、いい結果になって。健太郎くん、真理ちゃんにプロポーズする前から、かなり悩んでたのよね」
 ……そう、なんですか?
「健太郎くんが、ひとりで来た時にね。真理ちゃんが座ってるその椅子で、深刻な表情で考えたり、私に話したりしてたの」
 今まで見た健太郎の表情を、思い出してみる。いろいろな感情を見たけれど、深刻に悩んだ表情は、なかったはずなのに。
「こんな仕事をしといて何だけど、俺は今まで、他人にどう思われるとか、どう見られるとかを気にしたことが、全然ない。でも、今回だけは、真理さんと俺のことを知ったら、幹子がどう思うのかがすごく怖いんです。健太郎くん、そう言ってた。今だから話せるんだけどね」
 そう、だったんだ。
 たとえではなく、胸のあたりが温かくなる。
「でも、本当に頑張らなきゃいけないのは、これからだよね。幹子ちゃんも、お父さんができるだけじゃなくて、初めて社会に出るんだから、悩んだり不安定になったりもするでしょ。真理ちゃん、まだまだあの子を支えなきゃね」
 優子さんは話しながら、カウンターの下から、小さな長方形の箱を取りだした。ベージュの本体に、ピンクのガーベラ模様の蓋がついている、彼女のイメージそのままの箱。
「これ、私から幹子ちゃんにお祝い。ドライフルーツのパウンドケーキなんだけど、真理ちゃんも一緒に食べて」
 わあ、ドライフルーツのパウンドケーキ!
 優子さんが作るものは、スイーツも美味しいのだけれど、これは特に絶品なのだ。以前、ここでいただいた時、幹子が気に入って大絶賛していたのを、覚えていてくれたのかもしれない。
 ありがとうございます、遠慮なくいただきます。お礼を言う私も、きっと溶けそうな表情をしているのだろう。
 優子さん、私たちのこと、これからもよろしくお願いします。自然に、こんな言葉が転がり落ちた。私にとって、私たちにとって、Cafe Yukoは、幸せの出発点なのだから。
「こちらこそよろしくね。ふたりとも、私の大切な常連さんだもん。いつだって大歓迎」
 コーヒー、もう一杯淹れよっか、サービスしちゃう。そう言い足しながら、優子さんはまた、ふんわりと笑った。見ている私まで、やわらかい気持ちになるような笑顔。
 幹子にも、優子さんのような、あたたかい女性になって欲しい。そんな願いが、心の奥から込み上げてくる。
 そして、この願いは、そう遠くない将来、きっと実現するだろう。箱の蓋に咲いたガーベラを眺めながら、私はこっそりと、そんな確信をかみしめていた。

                           〔了〕

             ※Special thanks to Yuko and Yumiko.
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