第1話

文字数 2,948文字

「まあ、お母さんに彼氏がいるのは、何となく知ってたけどさ」
 いつもより早口で言いながら、幹子は隣にいる私と、テーブルの向かい側に座った、健太郎の顔を順番に見る。
「でも、よりによって、何で三沢先生なの」
 そして、私ではなく、彼にその問いをぶつけた。
 Cafe Yuko。窓の大きなこのカフェは、健太郎と私にとって、大切な居場所だ。山小屋をイメージしたウッディな内装と、ピンクの花束の水彩画が、店内の空気をやわらかく包んで、居心地の良さをかもし出している。
 空間にゆとりを持たせた店内には、四人がけのテーブルが三つと、カウンターに椅子が三脚。今夜は珍しく、私たちしかお客がいない。
「よりによって……そうだよな。幹子からはそう見えるよな」
 健太郎は、私の恋人としてでも、そして幹子の担任教師としてでもない、不思議な表情をしていた。浮かんでいるのは、困惑。きっと鏡を見たら、私も同じなんだろう、そんなふうに思う。
「悪いことじゃないのはわかるよ。先生は独身だし、お母さんだって、あたしが三歳の時にお父さんが死んじゃって、それからはずっと、ひとりだもん。それはわかる」
「頭ではわかるけど、納得できない、ってことか?」
「違うよ先生、納得できないっていうか、ん……そういうことじゃなくて」
 健太郎から目を逸らし、幹子は両手で、水が入ったグラスを包み込む。伸ばしかけの髪が横顔を隠すせいで、娘の気持ちを察することはできなかった。

          ◇◆◇

 健太郎に初めて会ってから、もう少しで丸二年が経つ。高校二年生になった幹子のクラス担任として、彼が私たち保護者に、着任の挨拶をした時が最初だった。
 中肉中背の、どこにでもいそうな四十代前半のおじさん。私はまず、同世代のくせに、そんな印象を抱いてしまったのだけれど。
「C組を担当させていただきます、三沢健太郎と申します」
 初めて聞いたその声が、びっくりするほど、深く透き通っていた。
 鼻にかかったり、かすれたりということがまったくない、まっすぐに届く声。それなのに、もっと聞いていたいと思うほど、耳にやわらかい。そんな声は初めてだった。
 それまで私は、娘を育てるのに精一杯で、男性に目を向ける余裕など、びた一秒ないような生き方をしてきた。だから、健太郎の声を初めて聞いたとき、心が揺れた自分自身に、正直、驚いていた。
「声が素敵な先生? いいじゃない、それって」
 そんなことをママ友に言えるはずもなく、初めて話を聞いてもらったのは、Cafe Yukoのオーナー、優子さんだった。
「声って重要だよね、絶対。真理ちゃんがどきどきするの、何となくわかるなあ」
 でも優子さん、どきどきって言っても、いい声って思った、それだけですよ。言い訳をしながらも、私は顔が熱くなるのを自覚していた。
「それでもいいじゃない、真理ちゃんはずっと、仕事に子育てに頑張ってきたんだから。やっと、周りを見る余裕ができてきた、ってことだと思うよ」
 優子さんはそう言うと、これはサービスねと、とても美味しい紅茶を淹れてくれた。
 けれど、その時は、彼女に話した以上の気持ちなど、まったく抱いていなかった。幹子の担任といっても、それほど会う機会もないし、三者面談や保護者会以外では、個人的に話すことも、多分ない。
 きっと、幹子が卒業を迎えた時、そういえばこんなこと思ったっけ、と笑い話にするのだろう。そう予測してもいたのに。
 まさか、その卒業を控えた二年後の今、幹子に再婚の承諾を求めることになるなんて、想像したこともなかった……。

          ◇◆◇

「でもさ、先生とお母さんがつきあってるなんて噂、ぜんっぜん聞いたことないんだけど」
 グラスを両手に包んだまま、しばらく黙っていた幹子が、再び口を開き、私の物思いを引き戻した。
「だいたい、親の誰と誰が不倫してるとか、そんな話は、みんなにバレてるもん。でも、ふたりのことは、噂になる気配もなかったよ」
 一瞬、隣の私に目を向けてから、幹子はまた、促すように向かい側の健太郎を見る。娘なりに、母親ではなく、担任教師から話を聞こうと決めたのだろうか。
「それは、先生……いや、俺と真理さん、じゃなくて、お母さんは」
「普通に話していいよ、先生。俺って言っても、お母さんのこと、真理さんって呼んでも」
「ああ、じゃあ、そうだな。俺と真理さんは、外で、ふたりきりで会ったことがないんだ。いつも、ばらばらにこの店に来て、食事して、ばらばらに店を出る。そういうつきあい方をしてきたから、噂にならなかったんだろうな」
 とんとんとん。カウンターの奥の厨房から、かすかに聞こえてくるのは、包丁がまな板を奏でる音だ。優子さんが食材を切っているのだろう。
「ここだけ? ふたりで遊びに行ったりとか、なかったの?」
 この問いだけは、私に向かって飛んできた。うん、このお店と学校以外で、先生に会ったことないの。そう答えると、幹子は不思議そうに首をひねる。
「わかんない。ただ、ここで一緒にごはん食べるだけの関係だよね? それって、つきあってるって言えるの?」
「それは、俺にもわからない。俺が真理さんに言ったのは、つきあってじゃなくて、結婚してください、だから」
「それって、お母さんに、つきあってもいないのにプロポーズしたってこと? 学校とこのお店でしか、会ったことないのに?」
 なにそれ。唇の動きだけでそうつけ加えて、幹子はまた、健太郎と私を交互に見る。
「先生とお母さんが初めて会ったのは、先生がうちのクラスの担任になった時だよね? 二年の春」
「ああ、そうだよ。俺が着任の挨拶した時」
「じゃ、初めて二人で、このお店に来たのは?」
「着任してから、三週間くらい後だったかな。俺が日曜に、たまたま見かけたこの店に入ったら、真理さんが来てたんだ。偶然にね」
 健太郎と知り合う以前から、私はこのカフェが大好きで、何度か幹子を連れてきたこともある。彼が初めて、このお店に入ってきた時、私はカウンターで、ちょうど手が空いた優子さんとお喋りをしながら、ナポリタンのパスタを食べていた。
 あ、中田幹子ちゃんのお母さん。彼は、私の顔を見て、すぐにそう言った。最初は、最初の最初は、お互いに娘の担任と、生徒の保護者、それだけでしかなかったのだ。
「あたしには、わかんないよ」
 幹子は呟くように言い、水のグラスを小さく揺らす。
「先生のことは、あたし、嫌いじゃないよ。お母さんにも、あたしが就職したら、今度は自分の幸せを見つけてほしいと思ってる。でも」
 でも。その次の言葉を、健太郎と私は待った。
「はっきり言って、わかんないの。二年間も担任でいる先生が、今度はお父さんになりますよって言われても。だって先生は先生だし、それにあたし、お父さんっていうのが、どんなものか知らないんだから」
 ……幹子。
 ごめんね、幹子。
 お父さんっていうのが、どんなものか知らない。その言葉に、大袈裟でなく、胸のあたりがぎゅっと痛くなる。
 私は、幹子の気持ちをあまりにも無視して、自分だけが幸せになりたいと願っているなのだろうか。そう思うと、身体の芯がねじれるような気持ちだった。


                   〔第二話へ続く〕 
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