「近代」的な国のエセ科学

文字数 1,612文字

 万能だと排斥される。どのグループにも入れない。
 経験のない人々にはわからないだろう。恵まれた凡人は、万能なことをうらやましがる。どこにでも入っていけるものだと勘違いしている。
 実際には、オールマイティーだと、どこからも受け容れられない。受けるのは排除、ヘイトである。有能な人はひがまれる。天才は、孤独を選ぶのではなく、孤立させられるのである。

 そう私は昔から思い知らされて生きてきた。なぜなら、なにより私がオールマイティーな存在で生まれたから――。

 *

 私はインターセックスだ。私の場合は遺伝的に、どちらでもあり、どちらでもない。見た目も、人格も、超越的な存在だ。そう、「普通の人間」ではない。

 インターセックスだからといっても人それぞれ、社会的存在としてのジェンダーや、自己認識としての性自認も、さまざまにある。インターセックスであっても、おそらく数のうえでは女性や男性の人が多いのだろう。インターセックスだからといって、戸籍や旅券の性別欄にインターセックスの項目を付け加えて強制するのは間違いだ。

 ついでに言えば、それに比べれば同性婚反対などという問題が無意味なのがわかるだろう。同性だとか異性だとかいう概念自体が幻想なのだ。異性婚に固執する人々というのは、生殖機能で家を継がせることばかり考えているから、生殖器官で婚姻を定義しようとするのである。

 ――話を戻そう。
 私の場合は常に、どちらでもあり、どちらでもない。私のジェンダーを言い表すのは難しい。超越的なものなのだ。ノンバイナリーではあるのだが。
 日本社会では、私には、性自認の概念だけではなく、社会存在としてのジェンダーも用意されていない。しかし見た目も特別なので説明のしようがない。男にも女にも見えない、中途半端だが表現する言葉のない、「気色悪い」存在とされてきた。社会的に「差別だ」ということになる概念もないから、批判もされないし、そもそも加害者に自覚が生まれる余地もない。それに比べると例えば、アイヌ差別だってコリアン差別だって半世紀以上前から社会的に認知されていて非難されてきただろう。そういうのがないのだ。世の中に、これがイジメだという自覚がない。
 だから私には属するところがない。排斥されてきた。トイレも、風呂場も。
 公衆浴場に行っても、女湯に入るわけにはいかない。だから男湯に入ったら、オッサンに絡まれてトラブルを起こされさえする。常に危険と隣り合わせだ。そしてついには「もう来ないでいただけますか」と言われた――入館拒否である。
 トイレも、女性用に入るわけにはいかない。だからといっても、男性用に入ると、すれ違う男どもからジロジロ見られ、そして、絡まれる。例えば女性的な人が立ち小便をするためのトイレも、日本なんかには存在しない。
 私には、銭湯も、トイレでさえも、用意されていない。
 個室しかない。その個室でさえも――。

 公衆トイレの個室を女性専用でなくしたら、お金目当てな気質でも知られる封建的な「保守派」の勢力が社会の分断を煽る。
 立ち小便用部屋があっても、である。男性大便用個室が混雑することは少ない。女性用個室を区分せずに統合すれば、リソースの有効配分になり、女性の方が得をするケースが多いはずなのに。
 しかし、少なからぬ女性もその煽動につられる。結局は、既得権益をもっていることを当たり前と思っていて、奪われたくないということなのだ。ちなみに今に始まったことではなく昔からフェミニズムはよく、このようにして仲たがいし潰れてきた。

 そういう、近代的で現在的でない「保守派」の日本人は、コンビニトイレですらも男性用個室と女性用個室にしてしまう。私の個室は存在しない。
 日本人はワガママだから、こんな簡単なこともわからないのだ。

 昔には、近代エセ科学の二元論はなかっただろうに。

には窮屈な

である。和國(やまと)も下劣になったものである。
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