第3章 雨季の兆し

エピソード文字数 13,041文字

    

 開け放した窓から遠慮なしに入って来る風は湿気を帯びていた。今年も雨季が近づいている。
 窓辺に吊るされた青い薄絹の魔除けがはたはたと舞う。
 トリスタンがいる時、いつも食事は彼の部屋で一緒にとっていた。フェルガナでは大きな屋敷でも食事
用の部屋はない。居室に小さな一人用の座卓を運ばせ、それを食卓とする。今日の夕食はトルハナにトマトの農夫風サラダ、ひき肉を詰めたピーマン、仔羊の煮物、白カビのついたチーズ、蜂蜜漬けのミルクプディングだ。
 スプーンとナイフはぴかぴかの銀製で、柄に葡萄の枝の装飾がされている。カームニルではそういうものを使う食事など縁がなかったが、フェルガナに来る旅の途中で、トリスタンは彼女の手を取って使い方を教えてくれた。
 もっとも、まだうまく使うことができず、スプーンに乗せた肉団子を床に落とすこともしばしばだ。
 トルハナに料理を包む食べ方もうまくいかない。かぶりついた時に、中のおかずがぼとっと落ちてしまう。ルシャデールは膝の上にこぼれたトマトソースを見て、軽くため息をついた。
「すぐに慣れるよ」
 トリスタンはくすりと笑って、立ち上がるとルシャデールの横に座った。
「トルハナは四分の一くらいに小さくして、料理は少なめに包むといいんだ。一口で食べれる大きさにする」
 話しながら、彼はトルハナを取って、手で四つに切ると仔羊の手早く煮物を包んで彼女に渡した。
「ありがとう……」ぼそっとつぶやき、ルシャデールは渡されたトルハナを口に入れた。ちょうどいい大きさだ。
「私もここへ来た最初の頃はうまくできなかったんだ」自分の席に戻り、トリスタンは彼女に微笑んだ。「私が育ったアトルファではムハンという、小麦粉を水でこねて小さい粒にしたものを食べていた。それに魚のスープをかけてね。トルハナのようなパンはほとんど見なかった」
 それを聞いて、ルシャデールはカズクシャンで占ったときのことを思い出した。人買いに連れて行かれるかのように泣き叫ぶ男の子。
「実の親はどうしてるの?」ルシャデールはたずねた。
「うん」
 トリスタンの顔が少し陰る。アトルファという小さな漁村で漁師をしていると、彼は言った。
「私の家は家族が多くてね。母は一番下の弟が生まれた時に亡くなっていたが、子供七人に祖母や病弱な叔父もいた。食べていくだけでもやっとだった。だから父は、先代が私を迎えに来た時、迷わず養子に出すと決めた」
「恨んでないの、親を?」
「仕方なかったと、今は思っているよ」
 侍従がティーポットのお茶を取り換えて来るよう、給仕に指示した。ルシャデールはちらりと侍従の方を見て、再びトリスタンの方を向いた。
「それからずっと、親とは会っていないの?」
「いや、父は何度かここへ来て……養父に金を無心している。それが徐々に、金額も大きくなっていってね。アビュー家にとっては、さしたる額ではなかったが、漁にも出ず、博打ばかりしているという噂も聞こえてきたんだ。それでも養父は、実の親から引き離してしまったという負い目があったからだろう、手ぶらで返すことはしなかった。……代替わりした時に、私が引導を渡した」
 彼は笑ったが、その緑の瞳は寂しげだった。ルシャデールはそれ以上聞くのをやめた。
「少しはここの生活に慣れたかい?」
 侍女とケンカばかりしていることも、耳に入っているのだろう。黙って養父を見る。
「もし……何か困ったことや、嫌なことがあるなら、遠慮なく言ってほしい。君が過ごしやすいようにする」
 ルシャデールはうなずいただけだった。メヴリダのことは気に入らないが、侍女を替えてほしいと言うのは気がひけた。
 これ以上、何を話せばいいか思いつかず、彼女は立ち上がった。
「もう終わりかい?」
「お腹が空かないんだ」
 『ごちそうさま』もなしに、ルシャデールは出て行った。

 給仕が彼女の皿を片付け始める。トリスタンは深く息をついた。そして独り言のようにつぶやく。
「……少しは慣れてくれたんだろうか」
「最初に来られた時の、ひどく緊張した面差しは見られなくなりました。ここの生活自体にはすぐに慣れると思います。焦らぬことです」
 給仕が退出したのを見計らって、デナンが答えた。トリスタンは物言いたげなまなざしを侍従に向けた。
「子供というのはもっと、元気で素直で明るいものだと思っていたんだが……下働きのアニサードのように」
「守ってくれる大人を持たず、一人で生きてこられたのです。御前様やアニサードとは違うと思います」
 トリスタンは考え深げにうなずいた。ルシャデールは何かたずねてもあまり言葉を返さない。彼には少女が何を考えて過ごしているのか、見当がつかなかった。
「御寮様は年齢以上に老成しておられます。いささか斜に構えた物言いをなさいますが、見た目以上に賢い方です。今は、御前様の真情を見据えているといったところでしょうか」
「私の真情?」
「自分が単に跡継ぎとして連れてこられただけなのか、あるいは、跡継ぎなど関係なく実の子のように考えてもらえるのか」
 デナンはそう言って、主人を見つめた。
 十月もの間、子を宿す女と違い、男は実の子でも親子という実感が薄い。「これがあなたの子よ」と言われれば、「そうなのか」とうなずくしかない。まして養子、それもこの間まで見ず知らずの他人だった子だ。もし、跡継ぎのことがなければ、引き取っていなかったのは確かだ。
 トリスタンは黙ったまま侍従を見た。デナンは主人に厳しい目を向ける。
「ごまかしはきかぬものとお考えください。御寮様はきわめて勘のいい方とお見受けしております」

 部屋に戻ったルシャデールはソファに座り込んだ。
「疲れたよ、カズック」
 彼女の足もとに寝そべる狐犬は目を閉じたままフンと鼻を鳴らす。
「親父と飯食うのは、さぞ話がはずんで楽しかろう。」
「嫌味な奴だ」
 アビュー屋敷に来て一週間が過ぎていた。デナンが考えているように、この屋敷での生活には慣れ始めていた。
 余計な負担をかけまいとするトリスタンの配慮だったのだろう、最初の四、五日は何もせずに過ごした。そして、昨日から勉強が始まっている。とりあえずは読み書きということで、隣のカシルク寺院からパクス・ラーサ師が家庭教師として毎日午前に来ることになっていた。
 ラーサ師は寺院の指導僧を務めており、若い僧たちに学問を教えている。その穏やかで忍耐強い人柄はアビュー家の使用人からも敬意を受けていた。
「ああいう人は苦手だ」
「あの坊さんの静かでゆったりした話し方は、妙に人を丸め込む力があるからな。授業をすっぽかそうと思ってもできないだろう?ま、だからこそおまえの家庭教師にしたんだろう。適当な人選だな」
 カズックはそう言うが、ルシャデールは比較的真面目に勉強していた。そのことを褒めたラーサ師に、「暇だから」と虚無的に言った挙句に、「くたばるまでの退屈しのぎの一つさ」などと言い放ったのだ。
 だが、パクス師は驚きもせずに、
「『くたばる』などというお言葉は御寮様には不適当かと存じます。『彼岸に赴く』あるいは『幽明の境を越える』『逝く』などの言い方がふさわしいかと思われます」と、平静に述べた。
 メヴリナとは冷戦状態だ。彼女は最近では必要な時しか近寄ってこない。
 一度、何かの拍子に彼女が言ったのだ。
「どうせ、ろくでもない母親に育てられたんでしょうよ」
 ろくでもない母親……その言葉がルシャデールの胸に突き刺さる。
すぐさま、ルシャデールは彼女に飛びかかった。しばらくもみ合った後で、メヴリダのピンク色の頬には、爪でひっかかれた四本の赤い筋がひかれていた。それからルシャデールのそばには来なくなり、いくらか気が楽になった。
 他の使用人とはあまり関わることがなく、さほど気にならない。
 問題は養父トリスタンだった。
 どう考えていいのかわからない。顔を合わせれば笑顔で声をかけてくれる。戸惑っているのは彼も同じだろうが、それでもルシャデールのことを好きになってくれようとしているのは感じる。
(でも、そのうちきっと、がっかりするんだ。ひねくれ者で可愛げがないし、顔もみっともない……。人に好かれるような子じゃない。期待しちゃいけない)
 ルシャデールは薬草園で時々会う少年の顔を思い浮かべた。
(きっとあんな子だったら、トリスタンとの食事も話がはずむんだろう。その日あったこと珍しい蝶が飛んでたとか、きれいな石を見つけたとか、ありふれたことを宝物のように話すんだろうな)
 妙に気持ちが重苦しかった。アニスのことをよく知っているわけではないが、周りの人に好かれているのは間違いない。妬ましかった。といって、嫌いじゃない。邪気も打算もない、あの笑顔を向けられるのは正直うれしい。
「おい」
 気がつくと、カズックがじっと彼女を見ていた。
「おれの御神体はどうした?」
 ああ、と、ルシャデールは服のかくしに触れた。メヴリダに御神体を捨てられて以来、ルシャデールはそれをずっと持ち歩いていた。
「庭へ行こう、カズック。おまえの御神体を隠すところ探さなきゃ」
「隠すんじゃない、祀るんだ!」
 狐犬が吠えた。

 薬草園はあい変わらず花盛りだ。ジャスミン、生姜、タイム、オレガノ、タラゴン、ナスタチューム、バジルの香りがすがすがしい。名前も知らない草も多い。
 自然の野原のような雰囲気がルシャデールを和ませた。渡る風に髪がなびく。タンポポの綿毛が飛んでいく。それをカズックが追いかけて行った。
(今日は来ないのか……)
 そう思っていたら、ヒバの樹の影からアニスがひょいと顔を出した。
「御寮様、お散歩ですか?」
曇りのない瞳でまっすぐに彼女を見る。好奇心で彩りされた明るい笑みを浮かべて。
「うん」
 ルシャデールもつられて微笑う。
「それ何?」 
 ルシャデールは手提げ籠の中に入っている細長い草の葉を見てたずねた。
「石鹸草です」
 石鹸草はその名の通りせっけんとして使われる。洗濯係の召使に頼まれたのだろう。
 丸く光る樹霊が数個、アニスの周りを嬉しそうに飛び交っているのが見える。まるで、子犬が飼い主にじゃれつくようだ。
「木霊がまとわりついている」
「こだま?」
 アニスはきょろきょろと身の周りを見た。普通の人間には見えない。幽霊を見たことがある者はたまにいるが、木霊まで見える者はごくわずかだ。
「樹の精霊だよ。この庭はいっぱいいる。ほら、あそこにも」
 そう言ってルシャデールが指差したのはレンガ塀のそばだった。そこはシャボンの泡が噴き出すように光の玉が踊っていた。アニスは困ったような顔を振り向けた。
「どうしたの?」
「あの……内緒にしてもらえますか?」
「誰に? 何を?」
「御前様や庭師のバシル親方とかに」
 そして彼は光の玉の方へ歩きだし、振り返ってルシャデールを手招きした。
「あ……」
 小さな柳の木が植えられていた。周りのラベンダーの中で、目立たぬほどの若木だ。
「僕のザムルーズです」
「ザムルーズ?」
「子供が生まれると植える木です」
 カームニルでは聞いたことがなかった。ここフェルガナではそういう風習があるのだろうか。そう思ってすぐに、そんなもの植えるような親ではなかったと気がついた。
「僕が生まれた時に、父さんが柳の木を植えてくれたんです」
 しかし、土砂崩れで家族を失い、その時に彼のザムルーズもほとんど埋まってしまったことを彼は話した。わずかに泥から出ていた枝を持って来たのだという。
「柳は簡単に根がつきます。少し大きくなってから、こっそりここに植えさせてもらったんです」
 家族が楽しそうに食卓を囲んでいる風景が、ルシャデールの頭に浮かんだ。優しそうな母親と頼りがいのある父親……どちらもルシャデールには縁がなかった。
「御寮様はいいですね。トリスタン様のような方がお父様で」
「え……?」
 ルシャデールの顔に戸惑いが浮かぶが、すぐに皮肉めいた面持ちにとってかわる。
「向こうは迷惑してるよ、きっと。私みたいなのをしょうもない子を迎えてさ」
「しょうもない?」
「聞いてるんだろ、私がメヴリダとけんかしたりしてること」
「メヴリダさんは」アニスはちょっとあたりを見回した。「人の気持ちを考えてくれる人じゃないですから……」
 ルシャデールは少年を見た。ちょっと困ったように笑っている。
「根は悪い人じゃないかもしれないけど、何でも自分中心に進める人なので、その……他の人とうまくいかないことも多いんです」
 ルシャデールは頬を少し緩めた。侍女とのことでは、どうせ私が悪者にされてるんだ、とばかり彼女は思っていた。
「しょうもないなんてこと、ないです」
 ミントのすーっとした香りが風に乗って匂ってくる。
「でもトリスタンは、きっと私みたいなひねくれた子より、おまえみたいな子を養子にしたかったと思うよ」
「僕はユフェレンじゃないから無理です。でも、御前様は僕にも優しくして下さいます。具合が悪い時も治して下さいました」
 アニスは屋敷に来てからしばらく雨が降ると具合が悪くなったことを話した。
「ふーん。今年は大丈夫なの? もうすぐ雨季がくるけど」
「きっと大丈夫です」
 アニスは微笑んだが、ルシャデールには彼の心が陰ったのがわかった。きっとまだ不安なのだろう。それを隠して元気に振る舞おうとしている。自分にはない健気さが彼女を落ち着かなくさせた。
「ところで、この屋敷の敷地内でこれを安全に隠しておけるところないかな?」
ルシャデールはカズックの御神体を取り出して見せた。
「この前探していた石ですね。それは何ですか?」
「カズックの御神体だよ。一応こいつは神様だったからね。この御神体は祠にまつられていたんだ。今では拝んでくれる人もないけど。祠も雨漏りはするし、いつつぶれてもおかしくないくらいだった。それで、私がこっちへ来ることになった時、カズックも一緒に来たいって」
「来たいとは言ってないぞ。おれがついてないと、おまえはろくなことしでかさないだろう。お目付け役として来てやったんだ」
「ふん、ちっとはましな生活ができるとふんだからだろう」
アニスはそのやりとりを憧憬のこもった表情で見つめていた。そしておずおずと口を開く。
「あの……隠すところですよね?ドルメンはどうですか?」
「ドルメン?」
「卓状岩ってやつさ」
巨岩をテーブルのように組み合わせた、大昔の遺跡だと、カズックは説明した。
「カミツレ畑の近くです。林に囲まれているので、外から見たら気がつかないかもしれません」
 そういえばそんな林があったかな、とルシャデールは思い出していた。アニスが案内に立ち、彼女は後をついていく。
 庭を西南から東北へと横切る小川のふちにギントドマツが固まってそびえている。銀青色の枝の内側に影を抱き、周囲に植えられているナナカマドやクヌギ、楓などと明らかに違う色合いだ。そこだけ奇妙に静まっているように見える。
 枝の張った木々の中は薄暗かった。奥へ入ってルシャデールは息を飲んだ。
 巨大な岩二つを支えにして、上に平たい天井石を据えている。小さな家ほどもあるだろうか。中の空間は大人が楽に立てる高さがある。
「かなり古いな」
 カズックは巨岩の様子を見回し、鼻をフンフンいわせて匂いを嗅ぐ。
「祭事か儀式のために作られた場所だ。ギントドマツは結界樹といって、魔除け、あるいは魔封じの木だ。悪い『気』は浄化されたようだが、跡がかすかに残っている。わかるだろう?」
 ルシャデールは小さくうなずき、岩壁に触れた。ひんやりとした岩肌から、この岩の記憶が読み取れる。
 石切り場から切り出される大岩。それを運ぶ半身裸の男たち。氾濫した川が家々を押し流す。女の子が生贄にされている様子が見える。女の子の胸から剣を抜く少年。
 両側の壁には、向かい合うように窪みがある。ちょうど祭壇にでもするような大きさだ。波のような模様が刻まれている。
「……こんなとこにおまえの御神体を置いていいのかな?」
「そっちの小さい窪みなら大丈夫だろう」
 よく見ると灯り置き用だろうか、横に小さなくぼみが見えた。ルシャデールはそっと御神体を置いた。
「僕、もう行かないといけないので、失礼します」
 アニスは屋敷の方へ駆けて行った。
「おまえ、あの坊やとはわりと機嫌よくしゃべるんだな」
 カズックが横目でルシャデールを見て言う。
「……そうかな?」
 自分でも気づいていた。きまり悪いので、とりあえずしらばっくれる。
「しかも、皮肉や罵声なしで。どうした?」
 ルシャデールはアニスの去った方をまだ見ていた。
「何か言いたげだった」
 珍しいこった、と狐犬は胸の内でつぶやいた。他人のことを、そんな気遣わしげに見るとはな。

         
「女の子にはかわいそうよねえ」
 西廊棟近くを歩いていたルシャデールの耳に、女たちの会話が飛び込んできた。雪柳の茂みからのぞくと、井戸端で下女たちが洗濯をしていた。
「結婚できないんでしょ?」
 栗毛の髪の若い女がたずねた。
「そう、お坊さんと一緒だってさ。もし破ったら屋敷とか財産すべて没収。坊主頭にされた上で国外に追放されるんだって」
 少し年上の黒髪の女が答える。
「ええー! あたしだったら絶対耐えられない。きれいに着飾るのもなし、好きな男の子とお祭りでダンスすることもなし、幸せな結婚もなし、かわいい赤ちゃん抱くのもなし、なんてさ」
 結婚できないことは最初にトリスタンから聞いていたが、さほど気にしていなかった。自分が将来誰かと結婚して子供を産むなど、想像できなかった。暖かい家庭などはるか遠い世界の話だ。
「その代わり、ぜいたくな暮らしができるけどね。それに代替わりしたら結婚できるんだから」
「でも、その時には四十か五十くらいになっているでしょう?そんなお婆さんになってからじゃ、後添えの口だってあるかどうか……。御寮様だけじゃないわ、トリスタン様だって恋人も作れないんじゃお寂しいでしょうね。お優しくて素敵なのに」
「そこは……うまくやってるみたいよ。ここだけの話、御前様にも」黒髪の女はあたりを見回した。「奥様とお子様がいるって噂よ」
「えっ、そうなの?」
「噂よ。今日だってそこに行ったのかもね。でも、これ本当に内緒の内緒よ。御前様がそれで斎宮院から罰を受けるようなことになったら、私たち仕事なくなっちゃうんだから」
「そりゃそうね」
 二人の女は立ち上がり、洗い終わった衣服を籠に入れて干場に持って行った。

(ふーん……やっぱりそうか)
 別に驚きはなかった。トリスタンに好きな女性がいても、何の不思議もない。たとえ神和師かんなぎしであろうとも。驚きはしないが、急に世界が色あせたような気がした。
(どんな子だろう)
 何歳ぐらいなのか、男の子か女の子か、かわいい子なのか。
 彼女は目を閉じ、意識をトリスタンに向ける。薔薇の花が咲いている。薄いピンクや赤、白、オレンジ。つるばらのアーチもある。どこかの庭だ。
 ふくらはぎに柔らかなものが触れた。カズックのしっぽだった。
「トリスタンに子供がいるとさ……」
「踏み込まない方がいい領域もあることぐらい、おまえはわかっていると思ったけどな」
「うん、でも……」
 おれはついて行かないよ、とカズックは背を向けて去った。
 彼女はしばらくその場で考え込んでいたが、ふいに空を見上げた。雲の流れが早い。空気が湿っている。それは雨の予兆だったが、西側のレンガ塀の崩れへ向かった。

 ルシャデールは道に迷うことがない。カズクシャンの古い町は、迷路のように入り組んでいたが、どんなに遠くに行っても目指す場所へ行けた。というのも、彼女は直感的に道がわかるからだ。行きたい場所を頭に浮かべると、右へ行くか、左へ行くか、それとも直進するか、どこからか答えが降りてくる。
 どうしてわかるかと聞かれても、なんとなくそう思うという程度のあいまいなものだが、間違ったことはなかった。昔、カズックの祠に辿り着いたのも、その直感のなせる技だ。
 ピスカージェンの街を一人で歩くのは初めてだが、今度もうまくいくはずだ。カベル川を渡り、通りに沿って南東方向へ向かう。
 舶来市場の横を通り過ぎた時だった。
「御寮様」
 呼ぶ声に振り返ると、アニスがいた。お使いの途中だろう。青い小瓶を手に持っていた。
「どうなさったんです? お一人ですか?」
 供も連れない外出に不審を抱いているようだ。
「あ……あ、えーとね」
 こんな早く誰かに見つかるとは思っていなかった。しかも、子犬のようなアニスに。上等の服を着ていても、中身は『辻占いのルシャデール』のままだ。今の身分や状況に応じた自然なごまかし方が思いつかない。
「おまえ、秘密は守れるかい?」
『秘密』と聞いて、アニスの顔は真剣な表情に変わる。
「はい、守ります」
「これから秘密の場所へ行く」彼女はとても重大なことのように深刻な顔をしてみせた。「このことは屋敷の人にも、それ以外の人にもしゃべっちゃいけない。わかった?」
 アニスはうなずいた。
「ついておいで」
 茶店、酒場や宿屋などの並ぶクズクシュ地区の繁華街を抜け、ムスタハンの貧民街に入ると、すえた臭いが漂ってくる。薄暗い路地の隅には、ぼろ屑のように寝転がっている者もいる。生きているのかよくわからない。かつての自分のようなみすぼらしいなりの子供が小路を走っていく。絹ものの新しい服を着たルシャデールは明らかに目立ち、通りかかる大人が目を止めていく。
 彼女はちらりと太陽の位置を確認する。どうやらかなり南の方へ来ているようだった。アビュー屋敷はピスカージェンでも北の端に位置するので、街の正反対の方だ。
 ユジュルクに入ると、畑や野原が増えてきた。ロバに乗った老人や、畑作業から戻って来たらしい男などとすれ違う。
 ルシャデールが止まったのは高い土塀で囲まれた民家だった。周りは少し離れたところに農家が二、三軒ある程度だ。大きな道からも外れて人通りはあまりない。
 不安そうにアニスは彼女を見ている。
「御寮様、ここは?」
「聞いたことないかい? トリスタンの……」
 あっ、と、少年は小さな声を上げ、了解したようだ。
ルシャデールは塀沿いに裏の方へ歩いていく。ためらいはない。土塀の崩れたところを乗り越えていく。アニスもついて来る。
 中は薔薇園だった。白やピンク、紅、とりどりの薔薇が咲き誇っている。芝草にはたっぷり水がまかれているようだ。青々して、きれいに手入れがされていた。通路にはベージュ色のレンガが敷き詰められ、つるばらのアーチの奥には青い唐草模様のタイルを飾った四阿(あずまや)もある。
 瀟洒(しょうしゃ)なつくりの家が建っていた。そのテラスの前に、トリスタンがいた。子供を抱いている。まだ一歳になってないだろう。横には栗毛の髪を優雅に結った女性が立っている。彼女に向かってトリスタンが微笑みかけていた。
(まだ、赤ん坊なんだ)
 ほっとしたような、そうでないような。
その時、顔に水滴が当たった。雨が降り出した。
 家から出てきたイェニソールが二人の彼らに気がついた。次いでトリスタンも。
「まずい、行くよ」
 ルシャデールはアニスの腕をつかみ駆け出す。引っ張られるようにアニスもついていく。ルシャデール! と呼ぶ声が後ろで聞こえた。
 四半時ほど走り続ける。ピスカージェンの中央に位置するオデルス広場まで来た時、さーっと雨が降り出し、干し果物屋の店先に雨宿りした。
「あー、苦しい」息を切らし、ルシャデールは呼吸を整えながらアニスの方を振り向いた。「アニス……」
 彼は青い顔をして震えている。声も出さず、うつむきがちに泣いていた。ルシャデールは彼の手を取った。もう一度呼んでみるが、答えはない。というよりも、彼女のことも目に入っていないようだ。ここにない、何か別のものに捕らわれている。
(そう言えば家族を亡くしてから、時々具合が悪くなると言ってたっけ)
 とりあえず屋敷に連れて帰らないといけない。すると急に彼は膝をつき、両手で顔を覆って叫びだした。今までしっかり持っていた小瓶が石畳に落ち、カシャンと割れた
「うっ、ううっ、うわあああー!」
 周りの人が一斉にアニスの方を向く。いったい体のどこからこんな声が出るのかというような、高く響く声だった。
「誰か助けて! かあさん、父さん! ああー!」
 何度も繰り返される叫び。その張り裂けるような声にルシャデールは心臓が止まりそうだ。干し果物屋の太ったおやじも目を大きく見開き、口はあんぐりさせて固まっている。
 ルシャデールは横目で雨が小降りになってきたのを認めた。このぶんならまもなく止むだろう。
「おじさん!」ルシャデールは唖然としているおやじに向かって、高飛車に有無を言わせぬ調子で言った。「悪いけど、私の召使の具合が悪いの。この子を私の家まで連れていくのを手伝って!」
 男は驚いたようだったが、お、おう、まかせときな嬢ちゃん、とアニスを抱え上げて、屋敷まで連れてきてくれた。

「大丈夫ですよ、御寮様」
 ビエンディクが言った。アニスは依然として泣いたり叫んだり、興奮の状態が続いていた。
「以前にもあったことです。今はそっとしておいた方がいいかもしれません。何かあったら御寮様にもお知らせします。わたくしがついておりますので、どうぞお部屋の方にお戻りください」
 アニスの部屋から出ようとしないルシャデールに、暗に、ここは御寮様が立ち入る場所ではありませんと言っているようだった。確かに、召使の部屋のある一角は主人やその家族が立ち入らないものだ。
 見上げると、部屋には天窓がついている。夜空を眺めるのに都合がよさそうだと彼女は思った。ふと、星に向かって祈るアニスの姿が思い浮かんだ。彼は何を祈っていただろうか。
 自分の部屋に戻ると、やかましい侍女もいなかった。カズックがどこからともなく現れる。
「よっ、遠足は楽しかったか?」
「薔薇がきれいだった……」
 カズックには何もかも見透かされているようで、ぶすっとして答えた。
「坊やと会ってしまったのが唯一の誤算か?」
「うん。……そんなに家族を亡くすってつらいものか?」
「家族といってもいろいろだけどな。普通はそうだろう。長い患いの後なら、ある程度覚悟はつくが、いきなり家族全員だ。おまえのおっかさんだって、亭主がいなくなって半狂乱だったんだろ?」
「かあさんが死んだ時、ぶら下がって何やってるんだろう、としか思わなかった。だって、白目むいてるのに、父さんの名前をずっと呼び続けてるんだ。」
 そして、それは今でも続いている。ユフェリにある『囚われの野』と呼ばれるところで。
「かあさんが死んだことはそんなに辛くなかった。私のことなんか、どうでもよかったようだし。面倒な同居人ぐらいのもんだろ。ただ、家を追い出され、寝るとこも食べるものもない生活はしんどかった。今、一応落ち着いた生活をしているから、特にそう思うのかもしれないけど。……だから、家族そろって幸せにくらすってのが、ひどく贅沢なことに感じるよ」
「二度と返らないものは、失う前の何十倍も大きくなるものさ」
 その時、玄関ホールで使用人たちの声がした。どうやらトリスタンが戻ったようだ。半時ほどして、彼はルシャデールの部屋にやってきた。
「ルシャデール、ちょっといいかな?」
 彼女はうなずいた。トリスタンはソファに座った。
「君とアニスがあの家へ来て、それから何があった?」
「何も。屋敷に戻るために歩いていただけ」
「ここ何ヶ月かあんなことなかったんだが」
「突然、思い出したんじゃない? 昔の幸せな頃を」
「……」
「妹がいたって聞いた。だったら、あんな光景を見たことがあるんじゃないかな」
 父さん、母さんが生まれたばかりの妹を抱いて、幸せそうに笑っている。そんな光景。トリスタンは考え込んでしまった。
「別にあなたが悪いわけじゃないだろ」
 まるで大人のような口ぶりでルシャデールは言う。
「それじゃ、君と彼があの家に来たのはどういうわけで?」
「それは、なぜ私があの家を知ったかってこと? それともどうしてアニスが一緒に行ったかってこと?」
「両方」
「そういう女の人がいるってことを、井戸で洗濯していたおばさんたちがしゃべっていた。あまり秘密ってわけじゃないみたいだね。場所は……自分が行きたいところを強く考えると、方角だけは見当がつくんだ。どのくらい遠いかはわからないけど。歩きながら次は右に曲がるとか、まっすぐ行くとか」
「それは便利な才能だね」
「かっぱらいして逃げる時、役立ったよ。アニスには途中でたまたま出会ったんだ。私が一人で外に出ているのを見て、ついて来た。……口止めはしてあるよ」
「ありがとう」トリスタンは深く息をついた。「いずれ折りをみて話そうとは思っていたんだが……」
「何て?」ルシャデールの口調が急に鋭く変わる。「実は内緒で妻と子供がいるんです、やっぱり養子よりは実の子供の方がかわいいです、養子は単に跡継ぎが必要だからもらいました、って?」
 ルシャデールは一気にまくしたてる。どうしてこんなに動揺しているのか、自分でもわからなかった。たかぶる気持ちを彼女は必死に抑える。
(この人にとって、私はただの跡継ぎでしかない。わかってたじゃないか)
「あのひとがあなたの一番大切な人なんでしょ? でも、結婚はしていない、できない」
「あー……」トリスタンはうめき、そして言いづらそうに口を開いた「表向きはイェニソールの妻、ということになっている」
 呆れたようにルシャデールは養父を見ると、冷ややかな笑みを浮かべる。
「仕方なかった。私は結婚できないし、といって独り身の女性の家に私が通うのは、あまりに不自然だ。しかし、いつも一緒にいる侍従の妻ということなら」
「それを、彼女もあなたの侍従も受け入れたんだ」
 トリスタンはうなずいた。
「二人にすまないと思っている。特にイェニソールには」
「ふーん。あなたにとって大切な人ってのは、その程度のものなんだ」
 不実をなじる彼女に養父は一言もない。とげとげしい沈黙が支配する。
(しょせん大人なんてこんなもの。きれいごとを言っても、うそばかりだ)
 ルシャデールは息をつき、いらだちを抑えようと話を変えた。
「アニスはもう大丈夫?」
「うん、鎮静の煎じ薬飲ませて、今眠っているよ。明日の朝にはきっとよくなっている」
「そう」
「適切な対応だったよ。周りの大人に助けを求めて、屋敷に連れて来たのは」
「そのまま捨ててこようかと思ったけど、さすがにそれは大ひんしゅくを買いそうだから止めた」
 皮肉な物言いの中に、微かにアニスへの好意が感じられて、トリスタンは少し微笑んだ。
「今度から外出するときは必ず、大人の使用人を連れて行きなさい。メヴリダじゃなくてもいい。屋敷内にいる従僕なら、忙しくない者が一人や二人いるからね」
「アニスは?」
「アニサードは大人じゃないよ」
「私のことなんか……何も考えていないんだ」
 ルシャデールは唇をかんで上目使いにトリスタンをにらむ。
「あんたは跡継ぎさえいればいいんだ。薔薇園の連中とさえうまくやっていければ、私がここで何を考えて過ごしているかなんて、思いもしないんだろう!」
 呆然とするトリスタンに、ルシャデールは手じかにあったクッションを投げつけた。
「出てって! あんたが出てかないなら私が出て行く!」
 ドアに向かおうとする彼女を養父は押しとどめ、速やかに自分から部屋を出た。
 ルシャデールはベッドに向かうと、布団にもぐりこんだ。
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