文字数 13,726文字




 港にやってきて、『トナカイ号』の姿を始めて目にしたとき、興奮のあまり私は息もできなかった。ナンシーは巨大な船体を不安そうに眺めたが、彼女がなぜ不安を抱くのか、私にはまったく理解できなかった。
 明るい灰色の全長数百メートルの船体が桟橋につけられ、私たちが乗船するのを待っているのだ。イモムシのように細長く、幅は大型貨物船にも負けない。船尾には巨大なスクリューが4つ、ぐいと突き出している。この鉄の塊が水深200メートルの水圧に耐え、潜水したまま北極の氷下をくぐり、たった6日でカナダに達してしまう。まるで水中の特急列車だ。こんなものを目にしてニコニコしないナンシーのことが、私にはさっぱりわからなかった。
 乗船手続きが始まった。旅行カバンはすでに預けてあったので、手ぶらで列に並ぶことができた。順番が来ると、ナンシーは、自分と私のパスポートを係員の前に差し出した。係員は2冊まとめてページをめくり、顔を上げて私たちを見た。
「ナンシー・メイスンと、ジュリエット・コラム?」
「私がジュリエット」私は手を上げた。
 係員はナンシーとちらりと目を合わせ、かすかに微笑み、パンパンと2回スタンプを押して、パスポートを返してくれた。「よい航海を」
 航海。
 私たちが今から経験するのは、まさにその名にふさわしいものだ。これから数日間、私たちは太陽を目にすることも、地上の空気を吸うこともない。イギリスを離れて一度外海に出ると、次に浮上するのはカナダの沿岸なのだ。
 乗船した後何が起こったのか、あなたに想像がつくだろうか。乗船客の中では私が一番年下だった。艦長が使いを寄越し、私をセイルに招いてくれたのだ。招きに応じてもよいか、その表情を探ったが、ナンシーはあきらめた様子でうなずいた。頭痛がするので少し休むと言って、ソファーに座ってしまった。
 若い航海士に案内されて、私はセイルへ通じる階段を元気よく上がっていった。船内は暖かく、床も天井もすべてが鉄でできていた。機械が動いているブンブンという音が、常にどこかから聞こえている。セイルは船体の一番高い場所で、塔のようにぐいと空に突き出している。その頂上には屋根もないが、潜水せずに水上を走るときには、ここが司令室になる。
 艦長はもう待っていた。私を温かく迎え、すぐに握手をした。艦長はジョンズという海軍退役者で、戦争中も潜水艦に乗り、ドイツ艦隊をきりきり舞いさせた話は私も聞いていた。そんな人に会えて、とても光栄な気がした。
 それだけではない。私はこれから、この船に出港の合図を出すのだ。艦長はそのためにセイルに呼んだのであり、だから精一杯元気な声でかっちりやろうと心に決めた。
 とも綱はすでにほどかれていた。私を除いて、客たちは全員客室にいる。潜水艦には窓がないので、外を見ることができないのだ。トナカイ号と比べるとおもちゃのように小さいタグボートが2隻取り付き、桟橋から引き離しにかかっていた。スクリューを全力で回転させ、小さいなりに最大の力を出している。トナカイ号はゆっくりと陸を離れた。巨大な船体はいかにも重々しく、私は胸がどきどきした。
 振り返って私を見つめ、艦長がにっこりした。そのときが来たのだと知って、私はしっかり息を吸い、大きな声を出した。
「針路000。エンジン4分の3。直進ようそろ」
 そばにいた乗組員が復唱した。「針路000。エンジン4分の3。直進ようそろ」
 乗組員の声は伝声管を通って船内へと伝わっていき、すぐに返事が返ってきた。
「こちら発令室、針路000、直進、了解」
「こちら機関室、エンジン4分の3、了解」
 スクリューが回転し、船尾で白い泡が立つのが見えた。船体はゆっくりと動き、まわりの小さな船を押しのけるようにして、防波堤の隙間を通り抜けた。こうしてトナカイ号の航海が始まったのだ。
 セイルに立ったまま、私は眺め渡した。ここは本当に高く、ビルにしたら何階分だろう。下に見える船体はソーセージのような形で、長く広く海を押さえつけている。波ですら、まわりから押し寄せるというよりも、遠慮してこっそりと形ばかり船腹を洗っている感じだ。これほど大きな潜水艦はかつて存在したことがないし、今後も作られることはない。
 名残惜しいが、艦長がうながすのと、高い場所で風に吹かれることにも耐えられないので、船内へ入ることにした。鉄の階段を降りて、巨大な蜂が飛び回るようなブンブンいう音の中へ私は戻っていった。
 中央廊下に出ると、もう揺れをほとんど感じない。部屋へ戻ると、ナンシーが不機嫌に迎えてくれた。ソファーに座ったまま、じろりと振り返るのだ。だがそんなことは無視して、私は部屋の中の探検に忙しかった。バスルームや2つある寝室、化粧室や戸棚の中などすべてのドアを開けてまわった。そのたびにバタンバタンと音がするので、ナンシーはさらに不愉快そうな顔をした。
 ナンシーは私の家庭教師だ。父の仕事の関係で6歳から外国暮らしをしたので、その私の教育のために雇われていた。イギリスに戻ってからも、私の家に住み込み続けた。それが今回またカナダへ行くことになり、父だけは一足先に旅立ったが、後を追う私たちのために奮発して、父がこの船の切符をプレゼントしてくれたのだ。ナンシーはともかく、私はうれしくて飛び上がった。
 ナンシーは独身だが、背が高くやせて肩肘張った感じで、家庭教師という言葉から想像するイメージにいかにもぴったりだ。何年も一緒にいるが、私は好きではなかった。いつか結婚することがあるとしても、どんな男の人がこの人を好きになるのだろうという気がした。
 ナンシーを理解してもらうには、エピソードを一つ紹介するだけで十分だ。あるとき私たちはヒマラヤに近い山奥の小さな村に住んでいたが、私とナンシーが外出から帰ると、なんと家の窓が破られ、何かが押し入った跡があった。破られた穴の大きさから、動物の仕業なのは明らかだったが、私が止めるのもきかずナンシーは玄関の鍵を開け、家の中へ駆け込んでいった。そして体長1メートルを超える山猫が台所で食料をあさっているのを見つけ、叫んだのだ。
「この泥棒猫め、汚れた足で人の家に入るんじゃない!」
 あれはとても凶暴で恐ろしい山猫だと後で村人が教えてくれたが、ナンシーの剣幕に驚き、食べかけのハムを残して、さっと逃げていった。その後ろ姿に向かって、ナンシーはわめき続けたのだ。
「人の家を汚い足で汚すんじゃない。この野良猫め!」
 ナンシーとはそれぐらい常識を外れた人だったが、それでも私は何とかうまくやっていた。もちろんそれは、私の大いなる努力のおかげだった。
 そのナンシーと一緒に乗り込み、トナカイ号の航海が始まったが、港を出ても夕食までは何も起こらなかった。時間になったので、私たちは食堂へ出かけた。ナンシーは精一杯おめかしをしていた。夕食には艦長や航海士も同席するので、その中の制服姿の格好いい男が目当てだったのかもしれない。
 ナンシーのもくろみ通り、私の席は艦長や船員たちと同じテーブルにあった。保護者ということで、ナンシーも隣に座った。固いしかつめらしい表情をして感情を隠していたが、彼女もうれしそうではあった。
 食事が始まった。風景を楽しむことができない旅なのだから、船内の設備は充実していた。楽団のいるラウンジやバーや劇場があり、映画を上映していないときには、小さいが専属の劇団もいて、客たちの目を楽しませた。出し物は軽いラブコメディーが多かったが、見に行くことはナンシーが許可しなかった。許可が出るのはシェイクスピア劇のときだけで、私はあくびをしながら見ていた。
 その他にも船内には、小さなものだがプールとテニスコートがあり、私は時々出かけた。ナンシーは運動が嫌いなので、いつも部屋にこもって読書をしたが、実はページなどほとんどめくらず、口をぽかんと開けて昼寝をしているだけだと私は知っていた。
 そうやって、船内の時間は過ぎた。何も起こらず、とても穏やかだ。原子炉は相変わらずブンブンいうが、何かが故障することもなかった。北極点パーティーが近づいたので、私はうきうきした。
 北極点パーティーとは、船が北極点の真下を通過するときに行われるパーティーで、艦長が主催した。船は今、北極の分厚い氷の下、100メートルのところを航行していた。艦長の話では、北極の氷は下面が平らで、それこそ無限に続く天井のようにどこまでも青白く伸びているそうだ。ベッドに入った時など、私は部屋の天井を見上げ、このはるか上に氷の平原があり、白熊やペンギンたちが遊んでいるのだろうかと思った(北極にはペンギンがいないことを私は知らなかった)。
 北極点パーティーが近づくと、さすがのナンシーも顔がほころんだ。船員の中にハンサムな男でも見つけたのかもしれなかった。セイルで握手をして以来、私は艦長とは親しくなり、ときどきは発令室へ入れてもらい、舵輪に触ったり、ヘッドフォンでソナーの音を聞いたりした。もちろん機関室へも入った。
 原子炉は見上げるように巨大な円筒形の釜で、太い鉄のパイプが何百本もからみ付いている。あの中を冷却水が流れているのだと艦長は教えてくれた。冷却水は原子炉室の外へ導かれ、大きさといい四角い形といいビルにそっくりな熱交換器を通ってタービンにつながっている。このタービンがまた巨大なもので、機関車を4つ合わせた大きさがある。これがスクリューを回転させているのだ。



 北極点パーティーで着る物について、私とナンシーは相談を始めた。ナンシーは、一番いい水色の絹のドレスを着るつもりだと言った。私は、仕立てあがったばかりでまだ一度もそでを通しておらず、着るのが楽しみで仕方のない学校の制服を身につけることにした。カナダに着いてから入学することになっている学校だ。
 ナンシーはいい顔をしなかったが、私はそうすると言い張った。ナンシーは意外なほど簡単に折れた。少し驚いたが、若い航海士たちのことで頭がいっぱいで、実のところ私のことなどどうでもよかったのだろう。
「北極点パーティーは今夜の6時から行います」と、ある朝とうとう艦長が発表した。予定では7時ちょうどに北極点の真下を通過するということだった。
 制服を引っ張り出し、私はベッドの上に広げた。眺めているだけでわくわくした。それが、この服にそでを通すことができるからか、北極の真下を通過するからなのか、自分でもよくわからなかった。
 パーティーはにぎやかに始まった。食堂のテーブルが片づけられ、仕切りの壁が取り除かれ、ラウンジと合わせて広い一つのホールのようになり、楽団も演奏を始めた。劇団員たちも着飾り、いくつか歌を披露した。時間などあっという間に過ぎ、艦長が時計の針に気がついたのは、7時5分前のことだ。
「乗客のみなさん」艦長は大きな声を出した。「少しの間お静かに願います。本船はまもなく北極点を通過いたします」
 客たちの間から歓声が上がった。調子に乗って私が口笛を吹くと、ナンシーがにらんだ。
 全員が時計を眺めた。ラウンジの壁には大きな時計が設置され、針は6時57分をさしている。電気時計で、秒針はカチカチとではなく、モーターのように滑らかにすうっと動く。さらに60秒進んで、58分になった。もう私たちは、北極点のすぐそばまで来ている。息詰まるような興奮を感じ、私はナンシーと顔を見合わせた。船体をゆるがせる大きな音が突然聞こえたのは、その時のことだった。
 床が大きく揺れ、何人もが倒れた。電灯も消えて真っ暗になり、人々のざわめきと、グラスが倒れる音がそこに混じった。電灯はすぐにまたついたが、明るさは以前の半分もない。非常灯だと気がついた。
「どうした?」艦長が叫んだ。
 誰かがそれに返事をする前に、明かりが完全に戻ってきた。乗客たちは立ちつくしている。駆け出す足音がいくつも聞こえ、すぐにラウンジには船員は一人もいなくなった。客室係だけは残っているが、客たちは不安そうに顔を見合わせている。
 客室係たちが飲み物をついでまわったが、受け取る人はいなかった。ブンブンいう規則正しい音はまだ聞こえたから、原子炉はちゃんと動いている。だがそれ以外はまったく静かだ。客たちも、時々ぼそぼそと不安そうに言葉を交わすだけだ。5分ほどして艦長が戻ってきた。ラウンジに入ってきて、客たちを見回したのだ。
「何が起こったのだね?」客の一人が言った。
「この船は何かと衝突したようです」
「氷山と?」
「違います」艦長はゆっくりと首を振った。「何かもう少しやわらかいものです」
「クジラですの?」若い女が言った。
「それは違うでしょう、お嬢さん」艦長はにっこりした。「正体は今、部下たちが調べているところです。本船は停止していますが、ご心配なく。特に大きな被害は受けていません。航海はすぐに再開できます」
 艦長の声と顔つきは自信に満ち、人々の不安を鎮める力があった。楽団がまた演奏を始め、劇団員たちは歌い始めた。いつの間にか艦長はまた姿を消し、船員たちも戻ってこなかったが、やがて予定の時間になり、パーティーは終了した。
 みんな部屋へ戻ることになった。まだ空腹だったので、テーブルの上に残った料理を少し皿に盛って、自分の部屋へ持って帰ることにした。ナンシーは目をむいたが、私は知らん顔をした。
 10時を過ぎても、船が動き出す気配はなかった。いつの間にか原子炉の音はずっと静かになっている。食べるだけ食べて、ナンシーとは口をきかずにベッドに入った。ナンシーは、不安そうにため息ばかりついている。だが私は、目を閉じるとすぐに眠ってしまった。船の運命などまったく不安には思わず、明日の朝目を覚ませば、原子炉はまたいつものようにハミングをし、船体を力強く前進させているに違いないと思っていた。これは一時的な停滞だろう。カナダに着くのがせいぜい何時間か遅れるだけの影響しかない。
 子供っぽい楽天主義かもしれないが、最新の技術で作られたこの船をそれほど信頼していたのだ。不快な夢に悩むこともなく眠り続けたが、真夜中すぎ、名を呼ばれて私はそっと起こされた。
 ナンシーの声だ。目を開くと寝室のドアが開いて、居間の明かりがうっすらと差し込み、ナンシーが顔をのぞかせていた。
「何なの、ナンシー」
「ジュリエット、ちょっと起きてくれる?」
 ナンシーの声はいつもより固く、ちらりと不安になったが、私は毛布をはねのけた。カーディガンを着込んで、寝室を出た。時計に目を走らせると、午前3時を過ぎたところだった。
 居間にいるのはナンシー一人ではなかった。驚いたことに艦長までいたのだ。パーティーのときと同じ華やかな制服姿だが、ひじや肩にしわが寄り、袖口には黒い油のしみまでついている。
「起こして悪かったね、ジュリエット」艦長は口を開いた。帽子を脱ぎ、わきのテーブルに置いた。初めて気がついたのだが、艦長の頭のてっぺんは丸くはげていた。
 腰かけるようにと艦長が合図をしたので、私はソファーに座った。ナンシーが隣にやってきて、私の手を取った。
「ジュリエット、よく聞いてほしいんだ」艦長は言った。しゃがんで高さをあわせ、私の目をまっすぐに見つめた。
「ええ」
「船はあれからまだ動いてはいないんだ」
「そうね」私は見回した。原子炉の音はまだ小さく低いままだ。航行中のあのにぎやかさはない。
「船はまだ引っかかったままでいるのよ」ナンシーが言った。
「氷の下で? 何に引っかかっているの?」
「それがわからないんだ」艦長は弱々しく笑った。「潜水艦には窓がないからね。外の様子を見ることができない。船をバックさせようと何度も試みたが、だめだった。なんだか知らないが、衝突した相手にしっかりとはまり込んでいる」
「誰かが外に出て調べたら?」
「それもだめなんだ。人が海中へ出ていくためのエアロックは2カ所あるが、どちらも使えない。左舷のエアロックは外部で何かが引っかかり、どうやってもドアを開くことができないんだ」
「右舷のは?」
 艦長はつらそうな顔をした。「完全に破壊されて、使い物にならない。衝突のショックで船体は右に折れ曲がり、ちょうどエアロックのあたりにしわが入っている。使用するのはとても不可能だ」
「じゃあ、どうするの?」
「私たちは完全に閉じ込められているのよ」ナンシーが突然大きな声を出した。「船は引っかかったまま動けない。エアロックは2つとも使えなくて、何に衝突したのか、外で何が起こっているのかもわからないのよ!」
 両手をあげ、艦長は何とかナンシーを黙らせた。手をそえてソファーの背に寄りかからせたが、まるで空気が足りないとでもいうように、ナンシーは肩を大きく動かして息をしている。私は、水の上に飛び出した魚を連想した。
 艦長は立ち上がり、廊下へ通じるドアを開けた。すぐ外に船医が待機していて、居間へ招き入れられた。看護婦もいて、手を取ってナンシーを立ち上がらせ、廊下へ連れ出した。ナンシーはおとなしくされるままになったが、部屋を出ていくとき私を振り返り、「私たちは北極の氷の下に閉じ込められたのよ、ジュリエット」と言った。
 艦長がそっとドアを閉めて、二人きりになった。外の廊下をゆっくりと足音が遠ざかっていく。
「それで?」私は艦長を見上げた。
「これをごらん」ポケットから取り出した紙を広げ、艦長は私に見せた。
 トナカイ号の設計図だった。白い紙に青インクで描かれたものだが、この数時間のうちに書き込まれたのか、鉛筆や赤ペンの文字や数字がいくつも見える。その数の多さと乱雑さから、事態がいかに絶望的なのか伝わってくるような気がした。
「私は何をすればいいの?」
 私がそう言うと、艦長は大きくため息をついた。「ここを見るんだ」
 艦長の指先は、図上のある場所を指さしていた。



 10分後には私は部屋から連れ出され、中央廊下を歩いていた。艦長の話を私は承知したのだ。それ以外に方法のない絶望的な状況であることは私にも理解できた。発令室を通り抜け、私はまだ一度も足を踏み入れたことのない区画へ連れていかれた。内装がなくて鉄板で囲まれただけの部屋だが、学校の教室を二つあわせたぐらいの広さがある。明かりも少なくひどく暗いが、ごたごたいろいろなものが置かれているのはわかる。まるで倉庫のような場所だ。
「ここは部品置き場だよ」艦長が言った。
「部品?」
 私は見回した。木箱に納められていたり、カンバスで包んであったり、そのままむき出しだったりするが、何百もの部品が、壁に作り付けの戸棚に収められたり、そのまま床に置かれていたりする。
「ずいぶんたくさんあるのね」
「大きな船だからね。必要となる部品は何千とあるのさ」
「へえ」
「そういう部品を、どうやって船に積み込むかわかるかい?」
「ううん」私は首を横に振った。
「港に停泊している時には、普通の貨物と同じようにクレーンでつり上げて、甲板にあるハッチから乗せる。だが何かの事情で、潜水中に部品を受け取る必要があるとしたら? その時のために、部品専用のエアロックがもう一つ用意してあるのさ。部品専用だから、本当に小さなやつだがね」
「どのくらい小さいの?」
「このくらいかな?」艦長は手でやってみせた。
「そんなに小さなエアロックだから、子供しか通り抜けることができないのね」
 部品用エアロックは、部品倉庫のすみにあった。そばへ行くと、工具が床の上に散らばり、数人の船員たちがいて、空気パイプを扉に取り付ける作業が終わったところだった。海中に出て、私はこのパイプを通して呼吸することになる。
 別の船員たちが現れた。何人かで協力して、見慣れない人形のような形のものを運んできたところだった。明るい茶色のゴムでできていて、中身はなく、しぼんだ風船のようにぺちゃんこになっている。私が着る潜水服なのだ。最も小さなサイズのものを調節して、それでもブカブカだが何とか私の体に合わせる。私がかぶるヘルメットを抱えた二人の船員が、その後ろを歩いてくる。金色にきらきら光る金属製で、丸い形のガラス窓がいくつかついている。後頭部からは、長い空気パイプをお下げのように引きずっている。
 艦長が最後にもう一度私の意思を確認し、船員たちが取り付いて、私に潜水服を着せた。つま先から肩まですっぽりと覆うものだが、ごわごわして動きにくく、驚くほど重かった。私の手足の長さに合わせてたくし上げ、金属のバンドで留めてある。サイズが違いすぎるので、靴の中には丸めたタオルを詰め込んだが、手袋はそうはいかないので、私の指はゴムの筒の中で泳いでいた。艦長が思いついて、作業用の分厚い手袋をさせてくれたので、少しはましになった。
 ヘルメットをかぶると、私は歩くどころか、立つことだって不可能になった。船員たちが抱え、エアロックの中へ運んでくれた。空気パイプをソケットにつなぎ、それが隙間なくしっかりと接続されていることを何度も確かめてから、艦長はOKのサインを出した。すでに私は、ポンプから送られてくる空気を吸っていた。私が凍えないように暖めてあるが、どこか油くさい。潜水服には電気式のヒーターがあって、ぽかぽかと暖かかった。
 私は、本当に子供用の棺ぐらいの大きさとしか言いようのないエアロックに身を横たえていた。ヘルメットのガラス窓越しに艦長が心配そうにのぞき込むので、私は歯を見せて笑った。艦長はヘルメットをとんとんとたたき、何かを言ったが、私には聞こえなかった。艦長は船員たちに合図を送り、エアロックの扉がゆっくりと閉じた。
 扉が閉まると、私は小さな箱の中に完全に閉じ込められた。光一つない真っ暗な場所だ。死んで棺に入れられ、墓地に埋められるのはこんな感じだろうかという気がした。だが10秒もたたないうちにカチンという小さな音が聞こえ、モーターのうなりとともに、反対側の別の扉が開き始めた。海へ直接通じる外側の扉だ。
 扉と壁の隙間から、外の薄明かりが漏れてきた。滝のように猛烈な勢いで飛び込んでくる海水に追い立てられて、空気が外へ逃げ出していった。もしも船外から見ている人がいたら、きっと泡が派手に立ち昇るのが見えたことだろう。
 一瞬のうちに、私は全身を水に包まれた。強くではないが、水圧で体が締め付けられる感じがある。だが潜水服の内部には空気がちゃんと送り込まれている。大丈夫、問題はない。
 扉が開ききるとそっと手を伸ばし、私は船体のへりに指をかけた。分厚い氷を通して差し込む青白い光の中へ、私はゆっくりと出ていった。



 まわりは薄青く、すべてが蛍光灯の光で照らされているかのような眺めだった。頭上には白い氷が覆いかぶさり、まるで天井のようだ。この天井は、見渡す限りどこまでも広がっている。トナカイ号の灰色の船体は、港で見たときとは違って、なんだか縮こまって、おもちゃのようにちゃちにしか見えない。
 重りを入れて調整して、私の体は海水と同じ重さにしてあった。だがそれでもまだ不十分で、私は体が浮かび上がるのを感じた。しかしそれも、手すりにつかまっていれば、どうということはない。手すりにそって体を引き寄せ、私はゆっくりとエアロックを離れた。後ろには長い空気パイプを引きずっている。
 私はへさきへ顔を向けた。トナカイ号が何に衝突したのかを見るためだ。海水はガラスのように透き通っているので、はっきりと見ることができた。驚きのあまり、私は口をぽかんと開けた。私の目の前には塔があったのだ。
 あれは本当に塔と呼ぶのがふさわしい。それ以外の呼び名は思いつかない。もちろん地面の上に立っているのではない。何百トンもの木材を使って作った巨大なビール樽のような形で、水中にそびえているのだ。幅も高さも数百メートルある。それが静かにたたずんでいる。この塔は、沈んで海中に座り込んでいるのではなく、よく見ると水に浮き、頂上は氷の天井に届いているが、一番下は海底から離れている。浮力で浮かび上がろうとしているが、氷によって頭を押さえられているのだ。
 何のためにここへやってきたのかも忘れて、私は見上げ続けた。この巨大な塔の横腹に、トナカイ号は衝突しているのだ。木の壁を突き破って、へさきをめり込ませ、身動きが取れなくなっている。
 氷下になぜこんな塔があるのか、誰が何のために作ったのか、もちろん見当もつかなかった。ずいぶんと古めかしく、作られたのは一世紀や二世紀の昔ではない。だが水温の低い北極のことだから、これまで腐ることがなかった。
 塔と船の様子を観察し、艦長たちに報告するために、私は船内へ帰った。手すりにつかまり、エアロックへ戻りかけたが、最後の見納めに、もう一度振り返って見上げた。そして真相に気がつき、ヘルメットの中であっと声を上げたのだ。
 これは、陸上の建造物が何かの理由で海中へ滑り落ち、それが北極まで流され、氷の下に閉じ込められたのではなかった。これは北極の氷下で作られ、その中に人が住んでいたのだ。これだけのサイズだから、かつては人口は何百人もいた。なぜなら…
 なぜなら、塔の上半分が、なんと空気で満たされていたのだ。塔の下半分は完全に水中にある。だが上半分は空気、つまり泡の中にあったのだ。この塔の上半分をすっぽりと包むほどだから、世界に存在する最大の泡だ。あの中でなら、人間は正常に呼吸ができるに違いない。あの塔は泡に包まれているのだ。
 あなたが氷下にいて、息をふうっと吐き出したと想像してほしい。あなたの口を離れた息は丸い泡になって、水中を昇っていく。そして最後は氷に邪魔をされ、へしゃげた楕円形になってそこに張り付くだろう。北極は広く、夏でも氷原は何千キロも広がっているのだ。その泡は、永久にそこにとどまり続ける。
 その泡が、とんでもなく巨大だとしたら? ならば内部に建造物を作り、何百人もが生活することだって不可能ではない。
 トナカイ号に戻り、ヘルメットを外した後で、私は見てきたことを報告したが、艦長たちは信じなかった。空気の調整が悪くて幻覚を見たのではないかと、船医とこそこそ相談を始める始末だった。
「ウソじゃないわ。本当に見たのよ」私はとうとう大きな声を出した。
「それで、船の様子はどうなっていたのだね?」議論するのが面倒になり、艦長は言った。
 紙とペンを用い、私は図を描いて説明した。「トナカイ号は、この塔の横腹に突き刺さっているのよ。かなり深くめり込んでいるわ。左舷のエアロックが開かないのは、大きな柱が邪魔しているからなの。右舷の外板にしわがよっているのも見えたわ」
「どうすれば脱出できると思う?」船員の一人が言った。
「塔を壊して、穴を広げるしかないわ」
「爆破か…」船医がつぶやいた。
「少しならダイナマイトを積んでいますよ」機関長が言った。
「信管は?」と艦長。
「あります」
 潜水服を脱がされ、私は木箱に腰かけて休憩した。船医はつきっきりで、私の血圧や体温を計った。温かい茶を飲ませ、チョコレートを食べさせてくれた。私の目の前では、ダイナマイトの準備が始まっていた。
 だがトナカイ号は戦争に使う船ではない。積んでいるダイナマイトの量など知れていて、一目見てがっかりするほどでしかなかった。筒のように細長いが、量にするとせいぜいコーヒーカップ一杯分だ。だがこれで何とかやるしかなかった。
 信管は万年筆のキャップほどの大きさで、とがった先端をダイナマイトの先に差し込むようになっている。そのしっぽからは電線が伸び、電池やスイッチに接続される。
 爆薬は30分ほどで出来上がったが、私の目から見ても感心しないシロモノだった。ダイナマイトと信管と電池を組み合わせ、全体を防水テープでぐるぐる巻きにしてある。そこから長い電線が伸び、点火スイッチにつながっている。
 だがこの電線が問題だった。船内のどこを探しても、十分な長さの電線を見つけることができなかったのだ。何とか見つけたものを全部つなぎ合わせても、やっと100メートルにしかならなかった。つまり私は、海中で爆薬を仕掛け、そこから100メートル以内のどこかに身を隠す場所を見つけなくてはならない。そしてスイッチを押し、爆破が行われる。
 再び潜水服を身につけ、私は船外に出た。手の中に爆薬をかかえている。邪魔になるので、電線はぐるぐる巻いてある。爆薬の仕掛け方については、機関長が説明してくれた。若いころは軍の工兵で、そういうことには詳しい人だった。トナカイ号のへさきがめり込んでいるあたりを私はできるだけ正確に記憶し、紙に描いて説明した。それをもとにして機関長は、爆薬を仕掛ける場所を決めたのだ。
 機関長は、左舷のエアロックを押さえつける木柱を爆破することに決めた。それは塔全体を支える大黒柱の一つだったが、それを壊せば支えを失ってバランスが崩れ、トナカイ号のへさきをワニの口のようにはさんでいる部分が崩れ落ちると考えたのだ。
 だが今だから言えることだが、機関長のこの考えは完全に間違っていた。地上にある普通の建物であれば、あのやり方でよかった。穴の周囲は崩れ落ち、トナカイ号は自由になっただろう。だがここは水中なのだ。物体は重力ではなく、浮力によって支配されている。支えを失った部分は下へ崩れ落ちるのではなく、水面へ向かって『崩れ上がる』のだ。塔がすべて木でできていることを忘れてはならない。
 爆薬を仕掛けるのに時間はかからなかった。甲板に沿ってこわごわと近寄り、手をかけて数メートルはい上がり、私は仕掛けたのだ。電車の車体ほどもある太い柱同士が組み合わさる部分があり、わずかだが隙間もあり、そっとそこに差し込んだ。電線を伸ばしながら、私はゆっくりと後ずさりをした。
 身を隠す場所はすぐに見つかった。トナカイ号のセイルが、運良く100メートルほどさがったところにあったのだ。鉄でできた丸い柱のような形は、私が背後に隠れるのに好都合に思えた。
 私はセイルの背後に体を落ち着けた。空気パイプは長く、ここにも十分届いた。私の手の中には小さな四角いスイッチ箱があり、指でちょんと弾かれるのを待っている。箱の底からは長い電線が生え、トナカイ号の船体にそって伸び、へさきが開けた黒い穴の中へ消えている。私は深呼吸をし、人差し指を伸ばし、スイッチをしっかりと押した。
 水中とは、思っていた以上によく音を伝える場所だ。爆発音はとても大きく、一足飛びにやってきて、潜水服越しに私を強く揺さぶった。トナカイ号も激しく揺さぶられ、振動が足元を通して伝わってきた。爆破された箇所は無数の泡に包まれ、何も見えなかった。だがセイルの影から身を乗り出し、私は見つめた。
 やがて泡が消え、水のにごりも薄れた。船体の揺れもおさまり、目をこらすと、私が爆薬を差し込んだ箇所に大きな穴が開いているのを見ることができた。トナカイ号がはまり込んだ穴は、倍ほどに大きくなっている。船体に傷がついた様子もない。
 喜びのあまり、私は声を上げかけた。だが突然どこかから別の音が聞こえ、船体が再び振動を始めたのはその時だ。クジラが集団でほえるような大きな音だ。音に合わせて船体もびりびり揺れ、それだけでなく、一秒ごとにその揺れが激しくなってくる。
 何が起こっているのかわからず、私はキョロキョロするしかなかった。もう揺れはあまりにも激しく、立っていることができなくて、私は手すりに力いっぱいつかまった。音と振動が船の下からやって来ることに気がついた。首を伸ばしてのぞき込み、事情がわかって私はぞっとした。
 塔の横腹に突き刺さっているのだから、トナカイ号の下にもまだ何層もの階が存在し、それらはすべて浮力により、水面へ向けて常に強い力を受けている。それを大黒柱が押しとどめていた。だが爆破によって、その大黒柱が失われたのだ。各階には簡単にヒビが入り、バラバラになり、トナカイ号へ向かって一気に押し寄せたのだ。
 何十トンの重量がぶつかったのか、見当もつかない。船腹には、船体で最も重要な竜骨という部品が走っている。塔の残骸は、そこへまともにぶつかった。一つ一つが自動車ほどもある100個以上の木片に続けざまに衝突され、強くたたかれて、船の外板にヒビが入った。ヒビはみるみる成長し、長さを伸ばしていった。気密が破れ、裂け目から空気が噴き出した。私の身体ほどもある大きな泡が、ものすごい勢いで上へ昇っていく。
 そして最後に、大型トラックほどもある特大のカケラが姿を現し、魚雷のように向かってくるのが見えたのだ。思わず身体を固くし、私は手すりにしがみついたが、そんなものではもちろん不十分だ。ついにそれが衝突した瞬間には、船体はまるで荒馬のように揺れた。手が離れて、私は勢いよく水中へほうり出された。
 ゴム製の空気パイプは、一瞬で千切れ飛んだ。トナカイ号から吹き出す滝のような泡に押され、すさまじい勢いで、私は水面へと押し上げられた。塔の壁面に沿って、ロケットのように上昇していったのだ。よく壁に激突しなかったものだ。
 私は、明るく輝く氷の天井がどんどん近づいてくるのを見ていることしかできなかった。あそこにたたきつけられるのだろうかと、とても恐ろしくなった。だが、私が覚えているのはここまでだ。突然、嫌と言うほどの勢いで何かに衝突され、背中に強い痛みを感じたが、その後のことはまったくわからない。


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