第1話

文字数 5,859文字

 自分の右手首。
 腕を持ち上げて、視界に入れるたびに思うことがある。
 青白い筋に沿って刃物を添える想像を。
 リストカット。
 別に自殺願望があるわけではない。
 ただ、手首に沿って刃物を添えるという事が、至極当然の行為であるように錯覚を覚えるのだ。
 左手でナイフを持って、右の手首に押し当て、ぐっと引く。
 ただそれだけの事とも思う。
 きっと血が出るだろう。
 加減次第では致命傷になるやもしれない。
 命をどうこうしようという気はないのだけれど、何故だろう、いつからかそうする行為に対してひどく憧れを持つようになっていた。
 例えば、工作の授業で彫刻刀を初めて持たされた時には、禁止行為とされていた肌に当てるというのに抗う事がとても辛かった。
 木工の授業で小刀という、より刃物然とした形状のものを扱わせてもらった時には何故人に向けてはいけないのだろうと疑問にすら思ったものだ。
 無論、向けるべき対象と思っていたのはいつも自分自身に対してだった。
 鋭利な刃筋を見るたびに、家庭科で調理実習中に出刃包丁を持つたびに、その衝動に抗うのが大変だった。
 刃を肌に当てれば、鋭く手入れをされているだけ、皮膚を易々と切り裂くことだろう。血管を切断すれば血が溢れ、止めどなくあふれ出すかもしれない。体温のぶんだけ流れ出るものは温度を持ち、冬になれば湯気が出るのだろうか。想像は膨らむばかりだった。

 そしてついに今日、僕は長年堪えて来た衝動に許しを与える事にした。
 用意したのは新品の、大手カッター会社の製作した刃の付け替え可能な小ぶりの一刀。10cm程度のそれは、特に不審がられることもなく、雑貨店のレジで購入する事ができた。
 実行に移す場所は以前から色々と考えていた。
 きっと周囲を汚すことになるだろうから、近所で建設が途中のまま何年も放置されている、工事現場を選んでいた。足場も組んだままだし、外からぱっと見ただけだと、中に人がいるとはわからないのだ。
 もしかしたら、自分がこれからやることで、自分を殺害してしまうかもしれない。その懸念はあったけれど、僕の中ではとても些末な事だった。優先順位としてはとても低い。
 死にもしなかった時のために、他に考えたのは衣服が汚れる事だった。切り方にもよるとは思うが、自分の血液がどのように飛び散っていくかは未経験なので想像ができない。なので、一応替えの服と一緒にスニーカーもリュックに詰めて持ってきた。
 あと気にした事といえば、僕が絶命した時以外での場合。存命の場合には後片付けについても考えるべきかとも思った。正直いってそれは面倒くさい。かといって、どこの誰のものとも知れない血痕が人気のないはずの元工事現場におびただしい量を残していれば、いずれ刑事事件になるかもしれない。用意した刃物は付け替えが簡単なものだったけれど、捨てるとしたら余程隠れた場所か、離れた場所にする必要があるだろう。血痕と同じ場所に置いておくのはさすがにはばかられた。
 止血については特に考えていない。そも、僕が手首を切った後、自分がどうなるか。重要なのはそれではないからだ。
 ずっと小さいころから考えていた事だから、計画的なようで綿密ではない。所詮経験の違いで想像が及ぶ面というのは限られるものだ。僕は自分にそう結論づけて、他の可能性を全部放棄している。
 大事なのは、僕が、僕の手で僕の手首を切る。そればかりだった。
 時間は夜。家の人間も周囲の民家からも明かりの消えた、午前2時。
 いよいよ今夜、長年の思いが叶う。

 一度だけ下調べに訪れた時は夏の暑さの厳しい頃だったが、12月の今では夜の静けさに加えて寒さからシンとした雰囲気が工事跡地を覆っていた。草木でもっと雑然感が増しているかとも思っていたが、幸い歩くのに支障が出るほどではない。星の明かりが微かに辺りを照らしているが、生き物の気配が全く無い。想定通り、敷地の中から外の様子が見える事もなかった。つまり、逆も然りという事だ。最高の現場だ。
 僕は足元に気を付けながら、それでもなるべく音を立てないようにより敷地の奥へと足を進めた。
 元は2階建ての民家が建設予定だったらしい。けれど計画は途中で中止になった。大人たちの話によれば、建築基準法にひっかかって、予定の建造物を建てられなくなり、それで建設予定者も資金繰りに困ってしまい、頓挫したのだとか。周辺住民からすれば、草がぼうぼうと茂って虫が集まったりなど迷惑極まりないとのことだったが、僕としてはありがたいことこの上ない。自分勝手に放置した場所を、僕の自分勝手に利用させてもらうのに微塵も罪悪感がわかない。
 1階の部分は壁だけはほぼ出来ていて、ドアなどの立て付けるパーツだけがついていなかった。僕は堂々とそこを通り抜ける。恐らくダイニングにする予定だったのだろう、広めの部屋にたどり着くと、僕は背負っていたリュックを足元に置いた。床板が張られていたが、板と板の隙間から、ほんの少しだけ雑草が顔を覗かせている。生命力とはなんとも逞しい。果たして僕の生命力は、彼らと比べてどの程度のものだろう。
 気持ちが逸る。
 僕の皮膚から解放された血液を行方を考えた。
 きっと刃を押し当てただけなら、引かれた線に沿ってにじみ出る程度だろう。けれど、望んでいるのはそんなものではない。どうせなら激しく噴き出す様が見たい。
 手首から噴水のように飛び散る様を想像してきたが、この部屋中にまき散らしてしまったら、とも思う。別に汚す事に躊躇があるわけではないが、せっかく用意してきた着替えなどにまで付着してしまったら、少し残念に思えてしまうかもしれない。今日は記念すべき日となるはずであったから、僕は替えのスニーカーをお気に入りのナイキにしたのだ。今はリュックの中にあるが、帰り道でソールに自分の血が残ってしまうのを思うと、それだけでせっかくの気持ちが滅入ってしまう。これは選択を誤ったかもしれない。
 なので、僕は一度床に置いたリュックを持ち上げると、壁際に置きなおした。そして、ズボンに差し込んでいたナイフを取り出すと、部屋の真ん中へ戻った。これで想定以上に血しぶきが舞っても、逆を向いていれば早々着替えにはいかないだろう。
「よし」
 あえて僕は口にして、気持ちを入れ替えた。そうしないと、すぐにも自分を切りつけてしまいそうだったからだ。
 ずっと決めてきた。手首に刃物を当てることを。手のひらから90度。付け根と平行にまっすぐに押し当てる。一種の儀式みたいな気持ちだ。そうすべきことで、そうでなくてはいけなくて、1ミリもイメージからずらしてはいけない。
 空想の中でなら、何度切りつけたかわからない。ずっとずっと、やりたかった。長年の、期待のようなもの。
 きっと、今夜手首を切ることで僕はやっと、別の何かに。一歩前へ進みだせるような、そんな気がしている。

 星明り。
 小刀が青白く輝いた。
 手首に押し当てる。
 プツッ、と皮膚に亀裂が入るのと、血液が盛り上がってくるのが同時だった。
 獲物を握った左手に力を籠める。
 右腕の手首に視線を集中する。
 ドクドクと、中から解放された血が後を追って流れ出す。
 熱かった。
 傷口がそうなのか、血が熱を持っているのかはわからない。どちらでもいい。
 ただただ僕は感動していた。
 命が垂れ流しになっている。
 右手の甲のほうへと血が伝う。
 思ってたような、噴水みたくはならなかった。
 それとも、もっと別のやり方をすれば違ったのだろうか。だけど、僕はずっとこうしたかったのだから、正解はなぞっているので問題ない。
 一桁台の気温に微かな湯気が立つ。
 なにもかもが感動だった。

「……あれ?」

 陶酔から覚めたのは、違和を感じてのことだった。
 流れ落ちていく血液が、ちっとも地面に溜まらない。
 それどころか、手首から放たれたはずの血は、傷口もナイフの刃をかなり深めに押し込んでいるのにも関わらず、生まれ続けているのにも関わらず、伝うのに、滴り落ちないのだ。
 イメージでは、切った端から地面に水たまりのような血だまりが出来て、当たり中を鉄の匂いに染め上げる。そんな感じになるはずだったのに。
 血は今も流れ続けている。
 ただその先を目線で追うと、手の甲から指先を伝い、流れる端から凝固していた。まるでつららのようだ。
「寒いから……?」
 そんなはずはない。
 仕組みとしておかしい。こんなの、聞いた事もない。
 だが目の前に起こっている現象に説明をつけてくれる者もない。
 僕はただ茫然と、次第に太さばかりを増してゆく自分の血液が変化する様子をしばらく黙って観察することしかできなかった。

 くらりと貧血を感じてフラつく頃になると、流れ続けていた血も止まりかけていた。出るものがなくなったというべきなのだろうか。
 結局、僕が長年抱いていたリストカットの実行には成功したものの、理解不明の凝固現象によって妙な現象が起こってしまったせいで、期待していたほどの盛り上がりを得ることは叶わなかった。
 傷口からの流血はとりあえずの治まりをみせていた。
「なんだ、これ」
 ただ、凝固した血液は棒状のまま、手に繋がって残されている。
 左手で触れてみると、硬さがある。そのまま握り力を入れてみると、比較的あっさりと右腕からぽろりと取れた。
 そのまま持ち上げてかざしてみるも、薄暗いのもあって、向こうが透けるなんてこともなかった。
 僕は血液の棒――面倒だ、血棒としよう――血棒を振ってみたり、先っぽを床に当てこすりつけてみたりした。ガリガリ、と削れる感触がある。ある程度の硬度があるということだろう。
 それにしても……
「体温で溶けない、木目を削る固さがある……」
 僕は、僕の体から生まれ出た物に対し、疑問とともに別の思いが発生しようとしているのを感じていた。
 もし、この血棒を人に向けたらどうなるのだろう?
 刃物は人に向けてはいけない。
 なら、血液はどうなのだろうか?
 血棒は今、つらら状になり、先を尖らせている。
 もし、人に突き刺したら、人は傷つくのだろうか?
 伝い流れたままに固まった形状をもしなにかしらの加工を加えて、刃のようにしてみたらどうだろう。
 それは人を切りつけるものとなりえるのだろうか?
 考えたら、俄然試してみたくなった。
 まずはよりらしく、鋭利にする必要がある。

 替えの衣類しか持っていなかったので、工事現場に残された瓦礫以外、血棒に手を加える手段がなかった僕は、一旦荷物だけ持って家に帰る事にした。
 より強い熱を加えれば血液の凝固は解けるかもしれない。けど、それをするには液体を収める入れ物がいるだろうし、こんな何もないはずのところで火なんて起こそうものなら、奥まっている場所であるとはいえ人の目につく可能性もある。
 ただでさえ不法侵入、ただでさえ刃物を持って流血をしているなんて現場だ。通報されない保証がない。
 そうなると、せっかく浮かんだおもしろそうな事なのに、消化不良に終わってしまう。これ以上出鼻を挫かれるのはごめんだった。
 血液の再加工が出来なかった場合も考えなくてはならない。物質は一度凝固すると性質を変えるものがほどんどだ。全く同じ現象が再現できるとも限らないが、かといって血棒が同じに構成できなかった場合には、再度身体に血が出来る頃合いを見計らって、また手首を切る必要がある。
「型を作って流し込むか……?」
 一番に思い浮かんだのが、工作の時などに小さな頃から遊びに使った油ねんどだ。あれなら、プラモデルの創作をする際に熱したプラ材を流し込んで固めるのによく使えたし、固めたものを剥がずのにも容易に取り除けるだろう。一番の候補かもしれない。
 次に考えるとしたら、刃となる形状だろうか。
 小刀程度なら、リストカットしたやつをそのまま元型として流用すればいいだろうが、なんとなくそれは憚られる。
「どうせだったら、らしいのを作りたいよな」
 人を刺すための物ならなんでもいいといえばいいが、せっかく血液で作るのだ。
「鎌……とかどうだろう」
 名前を付けるならデスサイズ? アニメの見過ぎかもしれない。けれど、いちばんしっくりくる気もする。
 けどそうなると、大きさが問題だ。
 僕が今日流した血では、地面すれすれまでの長さがあって、小ぶりの刀程度のサイズがあった。
悪魔が持つような大振りの鎌は相当流血しなくちゃ無理だろうけれど、細めにすれば、形もそれなりにできるかもしれない。
 理想とする形はなんとなく決まった。
 貧血気味で身体はまだふらついているけれど、やりたい事が決まったら意欲が湧いてくる。
 手首の傷口を見ると、ナイフの刃を1cm近くぶっ刺したのに赤く線が引かれてる程度で、血は完全に止まっていた。これだったら、地面でこけて膝を擦りむいたほうがまだジクジクと傷が残ってるような気がする。
 ともあれ、今日はもう血を流しすぎたのか疲れた。
 次の行動に移すのは、夜が明けてから。もしくは身体の血が回復した以降にしよう。
 僕は来た時と同じように足元に気を付けながら、元来た道を自分の住まう家へと戻った。

 普段は共働きで両親とも不在であるはずの二人が、何故かこのタイミングで有休消化をし家にいたせいで、僕は計画した血液実験をすぐには実行することができないという日が続いていた。
 工事現場跡地にも、あれからもう3日間以上も行ってない。
 学校の通学の傍らに、視線だけ向けて通りすがら様子を伺ってはいたけれど、ぱっとみる限りでは荒んだ状態のまま誰かが入っている感じもない。
 だから僕は安心して、地道な準備をした。
 まずは、血を取り戻すためにホウレンソウを積極的に食べた。血が出来るという食材はなるべく手を出したけれど、どうしてもレバーだけはだめで、父親が晩酌食べるために冷蔵庫に買い置きをしている、砂肝の七味付けにも隠れて手を出した。血を造るのは大変なんだなぁ、とガジガジ義務的に食べる日を続けながら痛感する。
 その間にも、化学の本を読んだりネット検索をしたりして、同じような症例がないかを調べたりもしたけれど、こちらはいい成果が全くといって上がらなかった。やっぱり、あの晩の凝固現象はかなり特異なものらしい。
 果たして再凝固、または再生産することは出来るのだろうか。
 僕の興味は、すっかりリストカットから血液武器の生成とその効果を得る事へとシフトしていた。
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