第1話 Bar Noaputeの夜

文字数 1,998文字

 閉店の準備を始める頃、Bar Noapute(ノアプテ)の扉が開く。左右をちろりと目で探り、あまり人がいないことを確認してそそくさとカウンターの中央、苑田芳人(そのだよしと)の前に座りハイボールを注文する。苑田も左右を見渡し客がいないことを確かめ、まあいいかと酒を作り始める。
 この客、公理友樹(こうりともき)は酒を飲む前は分別のある酒乱だ。いつも閉店の30分ほど前に来て、客が多かったり見知らぬ客ばかりだとそのまま踵を返す。結果的に迷惑になることは多くても、苑田は智樹のその姿勢をみれば嫌いになれず、他に客がいなければつい入れてしまうのだ。2杯目に至ればすでに智樹はすっかり酔っ払い、空のグラスをドンと置いた。
「公理さん、そろそろおやめになられては」
「なんで? 夜だよ。幽霊出るかもじゃん。もう1杯だけお願い」
 智樹はそう呟き、いつものようにバーの一番奥の席、苑田から向かって左手側を眺めた。
 当然誰もいない。それが毎度のことだから、苑田は智樹の挙動が気になっていた。あの席はいつも客が座らない。座った客はいつも何か寒いという。その席は空調の真下だから寒いのだ。それにあの辺りの壁はよく湿っているから、結露しているのだろうと思っている。しかし心の底では気になっていて、帳簿整理や休憩時は一番遠い右手側の席に座っていた。
「最後ですよ」
「うん」
 苑田がいつも通り薄く作るのを智樹は肩肘をつきながら眺めた。
「今、やな幽霊に付きまとわれててさ」
「そうですか」
「きっとその辺を彷徨いてるんだよね、今も」
「大変ですね」
「奢るから一緒に酔っ払って家まで送ってくんない?」
「私はお酒は飲めませんよ」
「だからすぐ酔っ払うじゃん?」
 苑田は話が噛み合っていないと感じたが、酔っ払った智樹はいつもこんな感じだ。苑田は自身が酒が飲めない故にBAR店主をしているのと似た矛盾かと考えた。
「ねえお願い」
 智樹の苑田に伸ばした腕はすでに赤い。
「今日はやけに絡みますね」
 するりと躱せば智樹はやけに芝居がかったふうに肩をすくめた。
「だってすげー怖いもん。なんかね、3メートルサイズの顔の幽霊」
「邪魔そうですね」
 苑田は思わず吹き出しそうになるのを留める。智樹は酷く顔をしかめた。
「一飲みにされそうで怖いじゃん。人間の歯って絶対凄い痛い」
 その顔で初めて、苑田は智樹の話が与太話ではないかもしれないと思い直す。智樹が話す幽霊話はいつもどこか現実離れしている。作り話ならよくこれほど次から次に珍奇な話が思いつくものだと思うが、万一本当だったとしたら。
 苑田の智樹の印象は、素直な人間だ。こんな真面目そうな顔で嘘を吐くとは思えなかったし、第一智樹の話にはいつも落ちがない。
「幽霊に噛まれたことでも?」
「今まではないけどさ……」
 智樹の眼の前に置かれたハイボールの氷はカタリと音を立てる。閉店の時間が迫っている。
「いいなぁ。苑田さんは幽霊みえないんでしょ?」
「そうですね」
 智樹は再び奥の席を眺めた。苑田もつられてその椅子を見たが、やはり何も見えなかった。けれどその意味ありげなしぐさが今日はやけに気になった。3メートルある顔に齧られる様を具体的に想像をしてしまったからかもしれない。それは確かに恐ろしく感じた。
 奥の席について聞いてしまえば、例え自分が幽霊が見えないとしても気になってしまうだろう。けれども思わず、口をついで出ていた。それほどには智樹はその席を眺めすぎていた。
「あそこに霊でもいるんですか」
「え?」
「いつもあの奥の席を見ていますから」
「ああ……」
 智樹は困ったように眉を顰める。
「苑田さん幽霊見えないから気にしなくていいんじゃない?」
「公理さんがあんまりにも見るから気になるんですよ」
 智樹は少しだけ目を落としたグラスは随分汗をかいていた。
「あの席には何もないよ、本当に」
「じゃあ何故、あっちを見るんです?」
「それは……」
「私はこの店を掃除して、最後にお茶を一杯だけ飲んで帰るんですよ。気になるじゃないですか」
 智樹は迷うように視線を彷徨わせ、そして小さく頷いた。
「あそこにはなにもない。けど、反対側の奥の席にいる。俺はちょっと怖いから、反対側を見てる」
「え……」
 苑田は予想外の言葉に一瞬固まり、恐る恐るその反対側、つまりいつも休憩に使い、いつも最後にお茶を飲む右側の席を見つめた。けれども何もない。いつも通り。よくわからない汗が一筋、苑田の背中に流れた。
「何が……いるんです?」
「えっと、知らないほうがいいと思う」
「そんな」
「だって見えないんでしょ? じゃあごちそうさま」
 智樹は財布から何枚か札をカウンターに置いてそそくさと店を出た。苑田は再び恐る恐る右手を見たが、やはり何もみえない。けれどもBGMを消せばしんと静まり返る店内がやけに冷たく感じる。今日は在庫のチェックをしなければならない。
 苑田は思わず背中に並ぶブランデーの瓶の一つに手を伸ばした。
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