第1話

文字数 2,588文字

「いっそあっちの世界に行ってしまおうか…」
どんよりした空の朝、駅のホームでぼうっと立ちながら、男は思った。起床、満員電車、残業、満員電車、就寝、起床、満員電車、残業、満員電車、就寝、起床…これが男の生活の全てだった。彼は、この嫌気がさすほど変わり映えのしない日常を心の底から憎んでいた。

「仮想世界に移住しませんか?」
彼の目の前の広告にはこう書かれていた。仮想世界とは、コンピュータ上につくられたデジタルな世界のことだ。この仮想世界への移住が始まったのは、今から5年前の2034年のことだ。この年、人間のデジタル化技術が発明され、移住が可能となった。

この広告をぼうっと眺めながら、男は仮想世界への移住についてぼんやりと考えた。もっとも、彼が移住を検討したのはこれが初めてではない。むしろ何度も考えたことがある。しかし、その度に彼は移住を躊躇してきた。魂の不可逆性が彼を踏みとどまらせるのだ。

魂の不可逆性とは、人間をデジタル化すると、デジタル化されたオリジナルの人体の活動が永久に停止するという命の性質だ。つまり、オリジナルの人体は死ぬ。その代わり、オリジナルと全く同じ外見と記憶、思考パターンをもつ人間が仮想世界に現れる。そして、仮想世界の人間を現実世界に甦らせることはできない。

男は、この不可逆性を恐れていた。それが単なる死としか思えなかったからだ。もちろん、仮想世界にデジタル化された自分が現れはする。しかし、果たしてそれは本当に自分なのだろうか?自分のコピーに過ぎないのではないか?

ガタンゴトン―――
仮想世界について考えを巡らせているうちに、電車がやってきた。電車は今日もまた溢れんばかりの人を乗せていた。
「いや、やっぱりやめておこう。」
自身を満員電車に押し込みながら、男は今回もまた移住を諦めた。

「おはようございます。」
男は会社に着くと、覇気のない挨拶をした。周りの者には「…ございます」ぐらいにしか聞こえていないだろう。今でこそ、このような挨拶だが、新入社員の頃は違った。その頃は元気に挨拶をしていたものだった。しかし、周りの社員が覇気のない挨拶をする中で、自分だけ元気よく挨拶するのが次第に恥ずかしくなった。また、馬鹿らしくもあった。そしていつの間にか、彼の挨拶にも覇気がなくなった。

「柿崎君、ちょっといいかな?」
出社早々、課長が男を呼び止めた。
「はい、課長、何でしょうか?」
「昨日提出してもらった資料なんだけど、いくつか気になることがあって…」
課長の指摘はいつも些細なことだった。例えば、この言い回しは良くない、もう少し頑張っている感じが欲しい、グラフの色はこちらの方が良い、などだ。

しかし、これらの指摘に対応したところで、部長に資料を見せた時の反応が良くなるわけではないことを柿崎は知っていた。部長が気にするのはもっと本質的なことだ。前提となる事実は何か、その事実に証拠はあるのか、結論が導かれるまでの論理は確かか、などだ。部長に資料を見せると、そういった観点で多くの指摘を受け、資料を作り直すことになる。課長の指摘のような些細なことを気にしている場合ではないのだ。

とはいえ、課長のゴーサインが出ないことには、資料を部長に見せることはできない。
「ご指摘ありがとうございます。今日中に修正します。」
柿崎は渋々、課長からの指摘に対応することにした。もちろん顔には不満の色を出さない。表面上は有り難く指摘を受けとめるふりをする。これがいつものやり方だ。

課長からの指摘、意義の見出せない会議、そしていくつかの差し込みタスク―――これらに対応しているうちにあっという間に定時になった。今日ぐらいは定時に帰ろうと、荷物をまとめて席を立ったその時、
「ごめん、柿崎君、さっきの資料のことなんだけど…」
課長が声をかけてきた。今日も残業確定か…柿崎はうなだれた。

残業を終え、柿崎は帰路についていた。いつもの駅のホームで、いつもの満員電車を待っていた。その顔には隠しきれない疲労の色が出ていた。
「よお、柿崎じゃないか!久しぶりだな!」
突然、横から声がした。
「お、おう、篠田か!久しぶり…」
篠田は柿崎の高校時代の親友だ。しかし、大学卒業以来、徐々に疎遠になっていた。キャリアに圧倒的な差をつけられたからだ。篠田は大学卒業後、ベンチャー企業を立ち上げ、5年で軌道に乗せた。メディアにも多数取り上げられ、今や有名人だ。それに対して柿崎はというと、一介のサラリーマンである。しかも平社員だ。柿崎は篠田が活躍すればするほど、篠田に引け目を感じるようになった。そして徐々に会うことが少なくなっていった。

「浮かない顔してるなあ!最近楽しいことがないのか?」
「そ、そんなことねえよ。ただ…」
「まあまあ、細かい話はいいのいいの。実は俺、面白いものを持ってんだ。興味あるか?」
「なんだよ?」
「これだ。仮想世界の無料体験チケットだ。」
「…無料体験ってどういうことだ?一度仮想世界に行ったら、もう現実世界には戻って来られないんじゃないのか?」
「柿崎、お前、ニュースを見てないのか?最近、仮想世界を擬似的に体験できる装置が開発されたんだよ。擬似的と言っても、体験するのは本物の仮想世界だ。仮想世界を見て、歩き、そこの住人と会話することもできる。ただちょっとばかりの不自由はあるが…まあ、ちょっと体験してみる分には十分だろう。この装置に俺の会社の技術が使われていてね、それで無料体験チケットを持っているというわけだ。」
柿崎は篠田に関連するニュースを意識的にか無意識的にか避けてきた。装置のことを知らないのも無理はない。
「なあ、柿崎、ちょっと気分転換に仮想世界でものぞいてきたらどうだ?きっと楽しいぜ。ほらよ!」
篠田は柿崎にチケットを手渡してきた。
「じゃあ俺はこれから大事な会合があるんで失礼するぜ。また今度飲みに行こう!その時は仮想世界の感想を聞かせてくれよな。それじゃ!」
「おい、ちょっと待…」
篠田は瞬く間に人ごみの中に消えていった。

仮想世界を体験できる―――柿崎には思ってもみないことだった。彼は魂の不可逆性こそ恐れていたものの、仮想世界で経験できるであろう非日常には大いに興味を持っていた。篠田が言っていた「ちょっとばかりの不自由」が気になるものの、もはや好奇心に抗うことはできなかった。
「よし…行こう!」
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