第3話

文字数 11,160文字

素朴な質問としていざ七重性/七階層としての世界はいいとしてもだ、ことの根源にして源泉、真の原因体にてあられるところのその神様ってのが、どうして下層もいいとことしての、こんな辺鄙にして極小の

人格神

顕現(けんげん)

?。この辺の

、ちゃんとベルゼにては言及されてある。そこの掲載翻訳も是非やらねばと意識はされてはいるのだが、ちょっと先に、その前に、前哨戦としてものを、やらせていただきたく思います。

……先に忘れないよう言っておくと、あくまでもイエスの登場、降臨、このドラマ、あの事実こそが、

。この一事において、よって、過去におけるあれやこれやの神話や言説は、迷妄とししてのその域を脱し、改めて正解を意識することが可能になったのだ。彼を通して

、真実の、

、過つことなく、一切ブレることなく、到達することが可能なった。これへと通じるゲートが、我々人類の前に、それが誰であろうとこ関係なく、初めて、開かれたのだと云っても過言ではない。

大事なのは、このことに、理論理屈はまったく必要がないんだってこと。

、彼の語ったことのみを絶対の真実だと思って、見なして、そのうえでアプローチするならば、初めて、すべてが、足りる、ようなる。言葉のそのままに、彼は、我々人類にとって、間違いなく一つ、一条の、決定的にして絶対的なる

存在だったのだ!。

彼イエスなくしては我々はどうしても迷妄においてのその暗愚にとらわれざるを得ないんだ。どんだけどんなに頭が良くって賢くても、正解としてのその座標軸はわからない。見つけられない。彼なくしては間違いなく五里霧中としてのその状態にあるにしかなくなる…。

さて閑話休題。以下に並べた三枚の写真は、冒頭にて述べた神たるものに関しての一つの

、お話したく用意したるもの。ことの辻褄合わせ、これこそを目的としたもの...。

簡単に、いやメチャクチャ乱暴に云うと〜、各階層、その世界間たるものは、あわせ鏡としてのその関係と同じなのだ。世界スケールを、まったく違えての、鏡像的反映、その数珠つながり。似て非なるってことは当然なんだが、似てるとこのみで、このモデルを、ご了承を給わりたい。







まずの考察検討内容は、自分たちが現在生きて存在しているのは、はたまた手前なのか、それとも鏡の中の奥なのか?。これはどっちだっていいと思う。それよりも奥が曖昧なること、不明瞭であるってことの事実の方が大事だ。離れれば離れるほど、そちら側に関しては、

、からなくなってしまってる…。



ならば当然にこの絵をもまた登場させねばならないってことで、もってきたのだが、今回のコレにおいては右端のが重要だ。それは見かけのいては、全然違ってるってこと。あるゆるすべてにおいての

、それは、それらは、

、意識を持った、それを伴った、生命なんだってことのみに、なるのではないだろうか?。

こっからは簡単。もう結論を端折らせてもらう。各階層としての各世界においては、本源としての神が、同じく転写されてしまってあるのだ。本来からすれば、それらはすべて同体、自身としてのその写し身、分身、たしかにあくまでも虚像にはすぎないが、それでも立派に独立した存在体であると、その階層においては、そう、なってしまう。

あんまり参考にならない例えではあろうが、自身の意識を、体内においてのとある

移動させるってことは可能なのだ。性器部、みぞおち、腹、

、胸部、心臓…。そこに、今自分は在る、いるんだとすることは意外と簡単。そこにおいての働きを様子を状態を体感として感じる理解するにおいてはことはいたく有効。特に不調であると感じるときには特に…。

さて、もうお察しのことではあるとは思うのだが、この地球上にて、神が直接顔を出されるときには、そのやり方は、この次元階層に、転写投影されてある自分としてのその写し身において、そこに意識を移して、ご介入を、執り行われているって寸法なのだ。














こっからは

としてのお話し。至極

としての話をする。

その目的ってやつも、ここで先に、ここにて話しておくならば、本質的にして重要なることはそんなに数あるってわけではないんだ。あらゆるすべてを考察するにおいても、基礎としておさえておかなければならないことを飛ばしては、おろそかにしては、無下にしては、無視してでは、なんの成果も期待できないってこと。

まずはこんなのから話をしよう……。

神は、ご自身を、我ら人類に、証しする際には、「わたしゃ〜

」であるって発せられたんだ。「I am that I AM」。今、こうして、お前の前に、顕現して

私なのだと。モーゼは、それを、

ダイレクト

、感知感受直感してた。自分と比べて、圧倒的なるまでに巨大にして偉大なるものとして。本質的に神聖なる

だとして…。

彼が夢現の状態なんかではなかった、むしろ、おっそろしく、気合の入った、まったくの正常なる覚醒状態であったであろうことは、この自分が保証するw。とにかくこういったことが稀に人においては起こる。起こってきてる、ことなんだ…。

さて、こっからが面倒くさい。この在るがままだとしての存在が、”神”なんだとさ。これ以上でもこれ以下でもないんだ。これ意外においては、ことのすべては、ひとのキャパを超えている。なんであろうが臆見でしかない!。それにしかならない!。なぜならば認識においてのアウトレンジにおわすものだから。推論においてのただの思い込み。希望的には、聖霊の導き、関与があった上での理解、理論構築であることだ…。

モーゼには、既に、本来的には、必要が、なかったではあろうが、彼がことにおいての報告を、ことの説明を、事後に、一般大衆に向けてするときには、どうしても主格においての固有名詞としてのもの、

、どうしても必要となってた。

         God = What it announced itself as I am that I AM

これだけじゃだめだった。どうしてか?。Godって言葉が、あまりに包括的で、概念的に過ぎるから…。いや、I やら We

関係性を、

と樹立する、明確化する、絶対化する為には!。我らとして、

、する、必要がどうしてもあった、あるのだ!。名付けの効能効力ってやつを一回考えてみれば

。いや、考えておかなければ

。このことに関しては、ここでは触れない。とにかく

人間には自分としてのファーストネームだけは、絶対に教えてはならないってことだけは、ここでお伝えしておく…。

自らが属する集団、これにとっての神なのだ、としての制限をかけるが名付けの意味、意義。ならばこれは民族指導霊としてのものになる。それを知った理解した上で、名付けたもの勝ちなのだ。他の民族部族国家集団においては、我らは感知せず...。それはそのことはそのものたちの領分、それの勝手になる。*なに云ってんのか分からないであろうから、正しくしての神的存在を、認識して、それとの関係を結ぶといった一事がすべて。これが大事なのだ。あとのことは知らない、関係ないものとして放っておけばいいだけのこと。ただこれだけのはなし...。

とにかく、両者間においての縛りを明確化する為にも、

、それに対しては必要だった。これがヤハウェやらエホバだったってことを、自分としては云いたかったまで。

追記:
我らは、

ってことで、対象に関して、制限を、制約を、設けることができる。この辺のことをもって、イエスを通してのみで、対象が明確に、一点に絞られる、絞ることができるってことで、ありがたい、クリティカルなこと(会心の一手)だってことで、喜んでるわけさ。

話はここから少し外れる。神たるものは、斯様に、斯く様にて、在るが、在れるがまま、としての存在なのだよってことなんだ。主格、自意識、自我人格、自己意識としての部分は置いといて、これとしての意味を、

、探すならば、「自然だー!」って、ことになってくる。

のが自然。”然”ってのは見たまんま、見た通りのってことで、要は、そもそもからして、そこに、人による

介在する、介在できる余地など、ないんだ。まったくない…。それは、向こう側にあるものであって、また我らを取り込んでて、生かしてくれて在る存在状態で、究明が為されるべきもの…。だがだ、決して下に見れるものではまったくない。それは永遠に窮め尽くされることなど到底ありえない世界、ひとの狭量なるマインド単体のみにてでは、まったく歯が立たない霊妙にして神秘なる成り立ちとしての彼岸となってる。

自然に関してを、

、理解する、してゆくってのが、まずの正解。ミクロとマクロの両面にて…。その、それらすべてを貫通してある最大公約数としてのものは、関連性を見出すこと統合することが可能になる考えは、それらはずべての正体は、神である!と、結論としては結ぶのが、するのがいい。あらゆるすべての個の集まり、その全体をもって、また最終的に、一個の主格、一つの意識の現れとも、なるのだと…。








この二枚のうちの上のものは、最近どうしても神を表す絵を決めなくちゃならなくなって、そんで選んだもの。ひげを生やした蓄えた老賢者ってのは嫌だったんだ。あんなもんは、方便もいいとこ、完璧にお子ちゃま向けの例えでしかない…。

これが気に入ったのは、目が複数あるとしても、一なる者としてあるんだよってことを構成をもって表してくれてるから。そしてその視座が天空に置かれてるってことも。たくさんの目をお持ちだってこと、これは重要だ…。いい…。

マトリョーシカちゃんたちは、これまでにも何度も何度も引用させてもらってる。不思議なことに、どうしたものなのか、順次、転写体としてのものでしかないにも関わらず、各自、自己としての意識(我はこの領域の守護者、責任者、つまりは神である)と、その主幹となる管轄領域を持ってる。これは部長さんには部長さんとしての、課長さんには課長さんとしてののモデルで、十分、間に合うだろう。

今回のにおいては右端が重要だ。みんな見てくれその外形がまったく違ってる。当然に大きさをもって表されてあるスケールってのも違ってる。あの【絶対太陽】として語られてあった存在を、その存在は、左右

としてのものだと考えるのがいい。大きさはあまり問題ではないと思う。どちらをもって起源とするか?起源であったのか?、

なのか?

のはなし。

仮にことの始まりが左端の一番ちびっこいのであったとしても、事後のことの展開において形成された、創造されていったその世界のその宇宙の支配者としてのモノたちも、まったく同じ神だってことにはなる。みんなの協働共時発現において一なるものとして機能してる……。


こっからは

、蛇足、ただのおしゃべり


Re: As above , So below 「上なるが如くにして、下もまた然り…」

類似性、類型性が認められますっと。なので類推としての思考をもちいることができるんだっと。ならばだ、この我等とすれば、下としての

、まずは

知る必要がある。それをよっく知って理解したならば、するならば、我らにとって彼岸となる上位としてのその世界についても、ある程度は知ることが、憶測することが、可能になる。できるんだよっと…。

上の話ともなれば、一個の会社を思うのがいい。非情に、いや非常に優秀なる会社。歴史もかなりある。長き時を経てきてるってことにもなれば、一つの前提を置かなければならない。時の流れに従ってどうしても避けがたくして起こってくる試練としての変化ってやつを乗り越えてきてるものなんだってこと。これは大変に難しい、いや、基本、不可能なることになるんだ…。だから、日本国ってのはかなり立派、なんだ。そんな会社はいろんな部署を抱えている。それらのどれにも長ってやつはいる。その部署の責任者ってやつが。いい会社の特徴は、それらの誰もが会社を背負っているってことの責任感において仕事をしてる。「個にして全であると、全にしてまた個でもある」と。全体最適化って視野が各個においての目標となってる…。

閑話休題。ではなぜに、そんな実際の生活において関わりのない天上としての世界のことを理解する必要がなるのだろうか?。そんな夢現かハッキリしないことに、関わる

、無駄なのではないのか!?。このことの原因というか動機は、ひとが苦しんで生活してあるからだ。ひとが苦しむ、悲しむ、困窮欠乏することが

、そういったニーズは、基本起こってはこないのではないだろうか…。

もしくはだ、やけに余裕ができちゃって、

としての、好奇心それの満足のためのみにってか…。自分としては、できれば後者がいいな〜。だって、前者においては、きっとことにおいて必要になる、余裕ってやつが、

、ないのであろうから…。

苦しんでいるからこそ、色々考えてしまって、そんで余計なものを、価値なき物語を、理屈を、編み出してしまう。語っていってしまう…。こんなのを自分は私小説と呼ぶ。こんなもんを世に出しても害にしかならなと思うのだが、歌も芸術も本も映画もこんなんそんなんばっかし。苦心惨憺の思いをして、やっと掴んだ、やっと理解したことのみが、表現されるをもって、世に出ていってくれてる、これのみであれば、いいんだけどね…。

私小説としての、それでしかない作品をもって、稼ごうと、しのごうと、世に打って出ようと、みんな必死だ。

、このことを可能にした。結果、これまでは地下に封じ込められていた魑魅魍魎のたぐいとしての人間たちが、大挙地上を大手を振って、歩けるように、稼げるように、なったしまった。しまっているのだ。

妖怪ー悪霊ー悪魔、異界ーダンジョンー地下迷宮、これら関連の作品の多いこと多いこと…。すべて今を生きてある人間のことでしかないし、現実の反映でしかないと自分なんかは見てる。まったくもって善くない兆しだ。良品は売れると稼げるようにやがてにはなると思うんだけどな〜…。脱線になるけど、良品としては作品は、過去において、山ほど結晶化されてある。ありがたい話、ことだ。それらを、より洗練度を高めて、設定を代えて、モダナイズドされた形で、その余地もまた山のように残されてある、世に、放流放出してくれればいいだけの話なのだが。

人間が覚える感じるてあることに、過去も未来も、まったく関係ない。いいことはいいこと。感動することに関しても同じ。またそれらに対しての飢えも、また、まったくおんなじであるはずなんだが…。スペクタキュラーにして大掛かりなSFが流行る、お好みなら、佐藤史生の「夢見る惑星」をやればいい。もし、完璧に、丁寧に、要点を逃さぬ形で、完成することができたなら、とんでもない称賛を全世界からもらい受けることになると、思うんだが。そうれはもう確信としての事態なのだ。「エースをねらえ!」でもいいかも知れない。www。



世界は人間にとっては単に三領域しかなくって、それも実際に活動できるのは地表のみ。その下の地下はソリッドでぎっしり詰まってるけど、人間にとってそこは生活領域には基本なり得ない。残りの空中はそこは鳥類にとってのみの活動現場になる。人間には悲しいから絶対に手が届かない。さて天においてのことともなればそれはもう非現実この上ないはなしとなってくる。なっちゃって、いるんだ。

天と比べれば、地獄のほうが、今を生きてある人間等にとっては、現実的なものとなる。無理すればなんとか手が届くので。石油だって、資源だって、宝とすべきものは、そこに埋まってるではないかと。でもそこに向けての志向は、やがてにおいては間違いなく地獄としての世界に、ヒットすることになる。宝を守ってあるドラゴンも間違いなく生息してあることであろうし、なによりもプルート、いやプルトニウムがその証拠ではないか!。結果、ろくなことにはならない。ある種のトラップとしてのものなのだ。地下としての、その世界は…。

追記:
ちょっとした脱線にはなるのだが、自分においての一つの仮説を披露しておきたい。地球という間環境がどうしたものなのか出来すぎてるんだ…。そう思わざるを得ないんだ…。見かけにおいての月と太陽の大きさが同じなことからしておかしいんだ。端折るといさかいが起こるようすべては仕組まれてる。金がたいへん貴重にして希少なるもので、これの自然合成がいかに難しいことなのか!。それがだ、地表近くに、それも

まとまりをもって、点在してるのはどうゆうことなのか?!。これは確率論的にはあり得ないはなしなんだ。また、なぜに石油としての資源が大量にそれも中東の地下にて蓄えられていて、あったのか?。あそこは火薬庫なのだ…。

おそらくは知的生命体が文明を築くべく、その為にこそ、整えられてあったまでのはなしなのだ。なんらかの意志が、その思惑が、あったればこそのできあがり。当然に核爆弾の発明もシナリオの内に入ってた。

あり得るべくしての、そのただ一つの道を、人類は歩んで来きてるまでに過ぎないのだ。宇宙におけるあらゆるすべての

、同じ構成、その整い、その環境に、その状態になってる!。当然に、サタンとしてのなにかも、そこの地下には落とされてしまってる、はず!。なぜそう思うのかと云うと、二極からの作用力、その誘引の力が、進化を促進させる原動力になってるから。

結論的には、滅びゆくか?それとも正しくしての進化のジャンプを

行い得るか?の試練が、試験が、課題が、強制的にぃ〜をもって、環境そのものにおいて備わってしまってあるまでのだ。主は、子らを甘やかされるようなことは決してされない。厳しく鍛える、たくましく育てるが基本ポリシーになっておられる。ご自身に似たものになるようにと…。

ただこの地球においての場合では、確かに、イレギュラーとしての事態が、災難が、かって、あって、しまって、あったるのかも、知れないが…。ものごとを転倒、あべこべ、倒錯的にで、捉える、考えたがる

、どうしたものなのか、いつのころよりか、ついてしまってる……。追記終わり。


生きる上において味合う、免れなくし、避けがたくしてのその苦しみ苦難は、生老病死であると、「SO!」誰かさんはおっしゃいました〜っと。老病死にまつわるはなしなのは分かるけど、最初の”生”そのものがそうだってところは中々に理解しづらい、理解

。そこんところのにおける核心的な話しは、その事実は般若心経に譲るとして、問題は後半の残り三つに関してだ。老いること、老いて、

、内部の調和が病原菌や細菌等にって狂わされて機能不全になってしまうこと。生を保つべくしての機工がそのシステムが崩壊して、停止してしまう。灰燼に帰するを、して、しまわざるを、得ないこと…。

ここんところはすべて、物質たるものにおけるその制限に関わってきてる。ことの変化は河の流れと同じくして、変遷変化は、絶対に留めおくことなどできないものなのだと。基本、どうしてものなのか、死は、いやなのだ。嫌い、おぞましい、堪えきれない、我慢できない、忌避として感情がそのホースが、あらゆるすべての内部におけるセンターから自動的に即時即応にて、込み上げてきてしまう。当然に、頭においてもそれは嫌だ。なぜって、すべてが、すべての過去が、台無しになってしまうからだ…。

死は無秩序としてのものだ。もうなんの役にも立たない。それのみならず、周りに対しては更なる被害を、腐敗を、つまりは病原菌を撒き散らすことになる。だからこそ余計おぞましい、おぞましく感じてしまう。腐敗してゆくその体を正視できるものが、果たしているのだろうか?。

片や、ひとには惜別においての感情、思いってやつがある。馴染んだ慣れ親しんでたその存在が欠損することは、少なからず、大いにダメージになる。自分が生きて暮らしている世界の、それを構成してあるその大きな歯車の一個が、失われてしまったのであれば、事後に引き起こされる影響は決して小さくはない。最愛としての誰それであれば、世界崩壊としての、その体験にもなるわけさ。だから、

、怖い、恐ろしい、そして、

…。

自分にとっての他者のみならず、この自分さえもが、ことの当事者となることからは逃げられない。この事実を、日々意識してるものがいるであろうか?。99.999...%

。見ないよう意識しないようしてる。じゃないと、自分として、いま安楽に落ち着いて過ごしているこの世界が、その内面世界が、揺らいでしまうことに、なってしまうではないか…。実際の死が訪れるまではそういったことは極力考えない考えたくはない!。でもこれは、欺瞞、でしか、それとしての態度、でしか、ないはな〜……。

*おそからくは、

そうしてる。ではなにが?。本能…。
*業法の一つに絶えず自分の死を死ぬことを意識する、覚悟してあるってのがある。
*今日は死ぬにはよい日だで一日を生きるっと。これはインディアン流。


死は脅迫観念としてある。日常、意識はしていなくとも、それはやっぱり、拭い難くして絶えず意識の裾野においてでは、ひかえている。封印、抑圧、隠蔽されてあったとしても、即座に、意識上にては浮かび上がって、これる、跳ね上がってくるもんなんだ。極論になっっちゃうんだろうけれど、どっかでこれ、この事実に対しては決着をつける必要性がある。責任ある大人となるためにはだ。死に対しての恐れを、意識的に乗り越えるって作業。どっかでバンジーやるにしかないんだ…。

コンプレックスは、混乱、としての事態だ。整理整頓がちゃんとできてないとパフォーマンスが極端に落ちる。生そのものにおいても同じで、頭の中においてが、ちゃんと整理ができてないと、その意識は朦朧としたものに落ちる。自覚がなくとも、落ちてあるんだ。だから、解決が、必需としてある問題は、それらとしての問題群は、それなりに、

、解決して、しまわ、なければ、ならない。自分

で…。

事実の前には、やはり、限りなく同じ事実としてのナニカをもって立ち向かうにしかない!。
そんなこと意識するのはおよしなさい、意識することこそが間違いだよととの考えもあるが、これは…、これでは、間違いなくスッキリしない!。

意識において得心すべきは、その選択肢は、いまんところ二種のみ。変化流転してあるその現実を河に見立てて、永遠永劫に流れ続けてあるまでの河であると見立てて、それと同化してあることを救いであると納得し、潔く、受け入れてあるまでとする。死するべきときが来たのであれば、ただ渡るまで…。この事実の前では、いらぬ抵抗としての観念を、立ち上げることこそが間違いであると。いたずらにパニクってなにがどう変わるというであるのか!。

もう一種は、キリストに関してを、彼の話しにおいてを、どう、受け止められるのか?だ。新約は単なる記録文でしかない。その記録を事実であると、読んで、得心、し得るのか?。まともに健全に発達した知性を、持ち合わせているものであれば、作り話、創作物なんかではないってことだけは分かる。ならばだ、その記録をすべて事実と踏まえた上で、更にこんどは、語られてあるその言葉を自分なりに理解、消化する必要がでてくる。これをしない限りは、せん、限りは、巨石鑑賞にしか、ならない!。「なんかえらいものがあるな〜」で、ただ、終わる。

ここが試金石だろな。ことの理解においては、自分なりの人生が関わってくる。その内容、真剣度、重みこそが関わってくる。うまくいけば…、そいうであることを祈って云うのではあるが、その更なる切実さ、説得力、重要性、奇跡に、驚くことになるであろう。すると、あの辺の、天国等にかんしての、いたく非現実な話しまでもが、現実性を帯びてきてしまうことになってしまう…。

ブッダもそうではあったではあろうが、イエスはもう決定的に光明となりうる存在なのだ。

なぜならば、ひとにおいてはどうしても勝ち得ない、絶望しか味わい得ない、物質性においての制約、縛りを、さらには、ひとのこころのあさましさ、狭量さ、頑なさ、迷妄なること、そしてそれらの寄せ集めとしての社会が持つ、傲慢さを特徴としてなる強権権力体制、卑怯卑劣をもってなるそのシステム支配!、この二種、二領域において、勝利することが、勝利したことが、語られて、しまって、あったのだから。

端的には、飢餓、飢えにおいて...。そして、体内と精神におけるその不調、内部システムにおけるその狂い、アンバランス、乱調におけるその是正、その修復、改善。根治こそを成し遂げられてあった...。そして、これこそが決定打となるのだが、死でさえ、死としての消滅としての事態でさえ、自身においてと、また他者においての場合にて、克服してあることを証明されてあったと、報告が為されてしまってあるのだから...。

人類史に於いてでは、これまでに、だれも、成し遂げることが適わなかった、できなかった、根本的な問題においての、その解決が!、彼において、始めて、克服されて、しまって、あったのだから。彼が

一般としての人間と、まったく変わりはなかったんだってことこそが重要になる。

それは、そのことは、求むれば、

、できることなんだよって、ことに、なったんだ。

イエスはご自身としての状態を、神と一体であると語られてある。これは例えとしてのはなしなんかではなく実際その状態であるとのご自覚であった。だからこそ神通力が使えてもあったのだ。つまりは、ことの実証が、そのときにおいての現場にては、披露されてあった。

で、あるならば、あったのであれば、我らにはもう神の名前、その固有名詞は一切必要でなくなる。在るがままのその神を、一般名詞のみにてで、とらまえてあればいいだけの話になる。ただし、イエスの名のみは残る。これをマジックワードとしてでしか、本核、本丸へのゲートは、ひらかれることはないのだから……。

    最後は、ここ日本においての信仰のあり方においての、ついての、助言でもある。

       大事なことは、リアルとしての、真実なる神に、おすがりすること、

                これを信仰してあること……。




それはそうなんだろう

、一抹の不安がよぎるのは、この神は、決してひとのエゴにおいての望みを、叶えることは、なされないであろうってこと…。もし、あくまでも現世におけるその利益を、強く、しこたま、あえぐようにして求めているのであれば、きっと、失望されることになる。間違いなくなってしまう…。求めるべきなのは、やはり、愛なのだ。それを与えること、受け取ることにしか、真の満足が、伴うことには決してならない。絶対ない。

あとのことは、ことの事実に従って、黙ってついてくるまで。
それもあくまでも付属的、副次的にで……。






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