第2話 トラップがいっぱい

文字数 13,734文字

トラップがいっぱい

一週間後の夜、アディパパが家に帰ってきた。
「あぢお、ガソリン盗難事件の実態暴露作戦実行だぞ」
アディパパはアディオスの部屋のドアを開くなり声をあげた。
「ガソリン入れてきたの?」
「ああ、ちゃんと山浦石油の防犯カメラに映りやすいように真ん中の給油所があく
アディパパは親指を立てて「これから暴露作戦を実行する」と告げた。アディオスはアディパパに指示されたことを行い深夜を待った。
二人は交代で2階のテラスから駐車場を見張った。先にアディパパが深夜1時まで見張っていた。アディオスは仮眠をとる。その後、アディパパにたたき起こされアディオスが見張った。
 深夜2時半をすぎた。あと30分したら再びアディパパと交代だ。アディオスは生あくびをひとつしてスマホでネットサーフィンを続けた。
 しばらくして通りに人影があらわれた。黒い帽子を被っている。背中には大きめのリュックを背負っている。やがて真田家の前で立ち止まると、周囲を見渡し人の気配がないことを確かめだした。誰もいないことを確認すると、家の近くでおもむろに手動の黒傘を開いた。アディオスはそくざにしゃがんでテラスの壁に体を隠した。駐車場の様子がぎりぎり見える位置まで頭を上げ、様子を見守る。傘はほとんど揺れることなく駐車場内に入り、アディパパの車の横で止まった。
 アディオスは急いで階段を下り玄関でぞうりを履いた。そっとドアを開く。すぐに捕まえれば盗難未遂となる。言い逃れをされることも考えられる。ガソリンを盗ませて現場を押さえたほうがいい。アディオスは作業が終わるのを息をひそめて待った。やがて、黒傘がもぞもぞと動きだした。燃料が入ったポリ容器の蓋を閉めにかかったようだ。アディオスは玄関の段を飛び降りざまに「何してる!」と近所迷惑にならない程度の声で威嚇した。急いで傘の男へとかけよる。男が足もとにパチンコ玉のようなものをばらまいた。踏んで転ばないように足もとをしっかり見ながらすり足で接近する。なんとか転ぶことなく男のもとにたどりついた。「現行犯だぞ」と傘の突起部を引っ張って顔を見る。伸吾だった。
「えっ、ああ、この間ガス欠になったお客さんですね。あれっ、家間違えちゃったなぁ」
伸吾は慌てるふうもなく言った。
「いやいや、このガソリンはこの先の方がガス欠だと連絡を受けて配送してきたものです。入る家を間違えましたな」
権蔵はとぼけて答えた。
「ほう、雨も降っていないのになぜ傘を? 夜に日傘も差しませんよね」アディオスは鋭い眼光を向ける。
「……のら犬対策ですよ。わたしは犬が苦手でして、犬がよってきたら傘で近寄るのを防ぐんです。一度、つきまとわれて失神しそうになりましたから。突然来られると傘を開く手も震える。だから最初から開いているんですよ」伸吾はすらすらと説明を加えた。あらかじめ用意していたかのようだ。
「なるほど。でも給油口のところで傘さしたままじっとしてましたよね。あれはなぜ?」
アディパパは2階にある監視カメラを指して、さも見ていたと言わんばかりにたずねた。
「いや、今から燃料を入れようとしていたんですよ。ほら、これは燃料を入れるためのポンプです。これで車からは戻せないでしょう」
伸吾は手に持った道具を見せる。見ると、たしかに吸引口は太く、車の給油口には入らなさそうだ。横に別のチューブもあるが、吸引装置にはつながっていない。アディオスはチューブを手に取って見た。ガソリンはついているが、このチューブだけで抜き取るのは無理だ。給油口に目をやる。燃料キャップはすでにはめられていた。
「さては吸引装置を給油口の中に隠したな」
アディオスは蓋を開いてみた。口の中は真っ暗でパーツは見当たらない。
「人聞き悪いですねぇ。僕は燃料なんか盗ってませんよ」
「そこのポリ容器にたまっている燃料はどういうことですか」
「これですか? 近所で燃料が空に近いから入れておいてっていう家があってですね。家を間違えちゃいましたね」
伸吾はしらじらしく頭を掻いた。
「伸吾、どうした」
アディオスが声に驚き振り向くと権蔵が立っていた。「おい、唐山さんちは向こうの通りだぞ」と家のある方を指す。
「どこの家ですか。嘘ついちゃだめですよ」
アディオスが抗議する。そのとき玄関の方から声がした。
「夜中に騒々しいですぞ」
アディパパが玄関先に立っていた。アディオスは状況を伝えに走った。ガソリンを抜き取ったことは間違いないが物的証拠に乏しいことを説明する。 
「なるほど、ガソリンを入れる器具はあっても抜き取る道具は見つからないか。万が一に備えて言い訳の道具は準備していたのだろう。誰かの家へガソリンを入れに行くというのもおそらく、伏線を張っていたのだ。唐山とかいう男もグルに違いない。たずねてみても口裏を合わせるに決まっておるぞ」
アディパパはアディオスの耳元で注告した。目は伸吾を見据えている。
「下手なこと言ってると、名誉毀損で訴えますよ。まあ、そちらも不法侵入というかもしれませんが」
伸吾は挑戦的な目を向けてきた。アディパパは口元を緩ませると勝ち誇ったように告げた。
「ははは、実は、後部のタイヤにカメラが仕込んであってな。君の行為、丸見え。まさか回転するタイヤにカメラが仕込んであるなんぞ思わなかったじゃろ」
アディパパはドヤ顔で後部タイヤ上部の外側を指す。そこには黒いカメラが取り付けてあった。伸吾の顔が引きつる。
「伸吾、騙されるな。ダミーのカメラだぞ」
動揺する伸吾を権蔵が小声で諭すのが聞こえた。
「ほんっとに映りますからね。証拠見せましょうか」
アディパパは告げるやいなや、スマホを取りだし何やらアプリをタップした。しばらくして画面を伸吾らに向ける。アディオスも画面が見える位置に動いた。敵を欺くには味方から、なのかアディオスも知らなかった。
「さあ、今から5分前から映像を流しますよ」
アディパパはそういうと、画面を止め、再生ボタンをタップした。伸吾と権蔵は固唾を呑んで見守っている。
「ほら、伸吾さんが登場ですよ」
見ると、傘を差して伸吾が駐車場へ侵入してくる姿が見えた。手に持ったポリ容器が置かれる。ポリ容器によって画面の大半が覆われた。給油口すら見えなくなる。
「燃料入れるときはポリ容器を給油口の真下よりちょい前に置かないと」
アディパパが頬を引きつらせながらぼやいた。伸吾が死角となった給油口になにやら差しこむ音だけが聞こえる。さらに死角となったポリ容器の口に何かが差しこまれる。吸引器具の音がむなしく響く。暗くてポリ容器の中身が増えているのか減っているのかまったくわからない。
「あれれ、残念ですなぁ。給油をしてあげている場面がこれじゃ見えない」
権蔵が顔をほころばせた。伸吾は「これ給油してますからね」と興奮気味に言った。
「うぬぬ、君たちは昨日もうちにやってきただろう」
「いえ、昨日は来てませんけど」
「とぼけても無駄だ。昨日の防犯ビデオは2階のテラスに備え付けてあったのだ。ちゃんとこの黒傘が映り込んでいたぞ」
「こんな黒傘、たくさんの人が持っていますよ。人違いです」
権蔵が口を挟む。アディパパは怪訝な顔をした。
「とぼける気か。実は昨日、後部座席ドアの下に犬の糞があった。わしも踏んだが、実は昨日ここにやってきた者も踏んでいたのだ。そして、翌日、山浦石油に行ったときはっきり見たのだ。伸吾くんの口から犬のウンチがはみ出ているのをな。この足じゃよ!」
アディパパは叫ぶなり伸吾の右足にはかれた靴を手にして裏返して見せた。伸吾がバランスをくずして車のドアガラスにはりつくように手をついた。
「あれ、靴が違う」
アディパパの目が点になる。
「ああ、残念ながら昼間はいてた靴は洗っているからなあ。というか、犬の糞とかうちの近所にも山ほどある」
権蔵は鼻でふっと笑った。次々と証拠が無力化されていく。一転窮地に陥ったアディパパが興奮気味にたずねた。
「それではたずねる。伸吾くん、昨日の夜のアリパイはあるかな」
冷静さを失いつつあるアディパパの口からツバキが飛んだ。
「パパ、アリパイじゃなくてアリバイ。誰かのおっぱいみたいで恥ずかしいよ」
アディオスがアディパパへささやいた。推理に集中するアディパパには聞こえないようだ。
「昨日の夜は……」
伸吾は腕組みをして目を閉じた。熟慮しているのか、すぐに答えない。
「アリパイはないのか?」
「あるよ。自宅で寝ていた」
「それを証明する人は?」
アディパパの指摘に伸吾の目が権蔵に向いた。権蔵から何らかの合図が送られたように見えた。
「自宅の電話に松崎さんから電話があって出た。松崎さんに訊けばわかる」
伸吾の目は泳いでいる。アディオスは権蔵を見た。権蔵はスマホを使って何やらメッセージを送っていた。
「示し合わせちゃだめですよ」
アディオスが注意する。ぎくりとした権蔵がこちらをちらと見てスマホを隠した。
「じゃあ、ずっと家にいた。得体の知れない電話にでた。それがアリパイというのですか!」
アディパパの指摘に伸吾はうなずく。アディオスは再び口パクで「アリバイ」と訂正を促す。極限の集中状態「ゾーン」に入ったアディパパの耳には届かない。
「自宅の防犯ビデオを見るといい。車で出て行く姿なんて映ってませんからね」
伸吾がにやりとして告げた。
「自宅の防犯ビデオがどこの範囲を映しだしているかは本人が一番知っている。逆にいえば死角から出るということも可能ですよね」
「どうとでも。ただ、車で出たという証拠はありませんよね。重い燃料もって歩いて五キロ以上歩いたとでも?」
「燃料タンクを積んだトラックは使ったはずです。盗ったのはうちだけじゃないはずだから。ただあなたたちは一つ計算違いをしていますね。山浦石油の前の通りは交通事故が多い。警察の方で街頭防犯システムが導入されたことは知っとりますか? スタンド近くの交差点じゃよ。それを見れば軽トラの出入りは映っているはず。簡単にくずれますぞ、君のアリパイは!」
息子の表情が凍り付いた。
「寝ていた人間が軽トラ乗ってスタンドを出発し、何時間もしてから戻ってくるなんて夢遊病はないじゃろからな。わしの人脈をあなどるな。警察関係、弁護士関係、医師関係、アパレル関係、いろいろとあるのじゃ」
アディパパは指折りながら知人の職業を挙げていく。
「まあ、送った年賀状は一つも返ってこないけどね」
アディオスは聞こえぬように独りごちた。アディオスの指は一本も折られない。
「どうじゃわしのアリパイ崩しは! 正直に言え、ないのだろ、アリパイは!」
歩道を歩く女性の訝しげな目がアディパパに向く。とたんに早歩きになった。アディオスはアディパパの袖をひっぱり「だからアリパイじゃなくてアリバイ、声が大きいって」とたしなめた。
「今回の事件は、ライバル店舗へのねたみ、ひがみ、うちみによるもの。警察を呼ぶということまではしたくないんだ! 自首してくれ」
「うちみはケガの名称だけど」
アディオスがやんわりフォローする。
「誰にでも間違いを犯すことはある。虚偽のアリパイを正直に認めれば情状酌量してもよいぞ」
「あっ、伝え忘れてました。松崎さんに呼ばれて公園に行きました」
伸吾が頬を引きつらせながら主張した。その横では背中で死角を作った権蔵が何やらスマホでメッセージを送っている。
「だから観念せいっつうの!」
アディパパが熱っぽく叫ぶ背後から赤色灯が近づいてきた。深夜巡回するパトカーのようだ。深夜のためサイレンは鳴らしていない。パトカーは真田家駐車場に近づくとスピードを落とし徐行を始めた。辺りが赤色灯の光で明滅する。風景が赤くなりエマージェンシーを感じ取ったのか、アディパパが周囲を見渡しだし、やがて背後のパトカーに気づいた。
「え、なんでパトカー?」
きょとんとするアディパパ。
「えっ、立ちションがバレた? アイドルの路上ポスターにキスしたこと?」
動揺し過去の犯罪歴を暴露してしまうアディパパ。発言とともに親父としての威厳は失墜していく。パトカーは駐車場のすぐ横で完全に停止する。すぐに運転席と助手席から警察官が降りてきた。生徒指導の怖い先生を目にした悪ガキのように硬直するアディパパ。
「こちらで卑猥な言葉を連呼する不審人物がいるという通報を受けてきました」
運転席の警官が話しかけてきた。見た目20代で長身痩躯の男性だ。
「ひわいな言葉?」
アディパパは眉をしかめる。が、案件が自らの悪事ではないと判断するとふうと息をつき言葉を返す。
「いや、ここにひわいなこという破廉恥な奴はおらんぞ。場所間違いじゃないのか」
アディパパは肩をすくめながら首を横に振った。若い警官は助手席から降りてきた男に伺いをたてる。
「巡査部長、どうしましょう」
「若山くん、わたしに任せたまえ」助手席に乗っていた年輩の男性警官は若山を手で制してアディパパの前に歩みよった。
「変ですね。このお隣からの苦情で、なんとかパイと連呼している不審者がいると通報があって我々は来たのですが」
巡査部長は鋭い眼光を向けてアディパパにたずねる。
「わしはオッパイとか言っとらんぞ」アディパパはひるまず否定する。なんとかパイをオッパイと連想する時点でいかがわしい。パイという言葉にピンときたアディオスが「なんとかパイって多分アリパイって叫んだことだよ」とアディパパの耳元で伝える。
「なんだと? アリパイがアリヤマさんのおっぱいと勘違いされたというのか」
アディパパは目をひんむいて問い返す。
「いや、パパが言ってる不在証明はアリパイじゃなくてアリバイ。パとバを間違えてる」
アディオスの指摘にアディパパは「それを早く言え」と喉元に理不尽な指先突きを喰らわせた。赤色灯に時折照らされる顔から顔色はわかりにくいが、間違いなく顔は青くなっていることだろう。
「わしはオッパイのことを叫んだわけじゃない。パイがついた言葉に敏感に反応してたら、乾杯も失敗も麻雀パイも卑猥な言葉として警戒しないとならんじゃないか」
「まあそう興奮なさらないで。あなたはアリバイをアリパイと間違えて叫んだわけですね」
巡査部長の言葉にアディパパが「そうじゃ」とうなずく。
「ここどどんな話をすればアリバイという言葉を叫ぶことになるのですか? 事情を教えていただけますか」
巡査部長の質問にアディパパはこれまでの経緯を説明した。
アディパパの説明を聞き終えると、巡査部長は権蔵に「そのガソリンはこの車から抜き取ったものですか?」とたずねた。
「いやいやいや、これは近所でガス欠だから燃料入れてくれと頼まれてもってきたものです」権蔵は首を振り否定する。伸吾も同調して首を振り否定した。
「何を言うか。ちゃんとガソリンを盗んだという証拠はあるぞ。まず、タイヤに仕込まれたビデオカメラ」
アディパパは後部タイヤに乗せられたビデオカメラを指す。若山巡査はアディパパが指した場所を見て「こんなところにカメラが」と驚いた。
「カメラの映像はスマホで再生できますぞ。ほれ」
アディパパはスマホを操作し、防犯カメラに取り立ての映像を巡査部長に向けて見せた。
「たしかに給油口に何やら差しこんでおるな」
巡査部長が疑いの目を権蔵らに向ける。
「あれは間違えて給油していたんです。盗ってたんじゃない」
伸吾は首を六度横に振った。
「まあ確かに、映像だけでは抜き取っているか、給油しているのかは確認できんな……」
巡査部長は腕組みをして唸った。
「お巡りさん。わしらが持っとる道具を調べてみてください。こんな細い給油口からガソリンを抜き取ることは不可能ですぞ」
権蔵は不敵に笑みながら抗弁し、持っている給油道具を見せた。持っている自動ポンプの太さでは給油口には入りきらない。
「だから給油口から取り出すための吸引具は給油口の穴に入れて証拠隠滅したんじゃ」
アディパパはプロ野球監督が審判に判定の不服を申し立てるように巡査部長に胸をすりあわせるくらいまで近寄った。
「うぅん、給油口から入れるねぇ。こんなちっちゃい穴に入りますか?」
巡査部長は訝しげに給油口の穴をのぞきこんだ。
「お巡りさん、疑うのなら穴の中を調べてみるといい。絶対に何も入っておりませんぞ」
権蔵は力強く言い放った。威厳のなかに落ち着きも感じられる。虚勢を張っているようには見えない。続けて伸吾が見下すような上から目線で補足する。
「燃料タンクにつながる金属製のフィラーパイプは途中で折れ曲がってます。吸引装置のような棒状のものを燃料タンクまで落とすことは構造上絶対無理ですよ」
伸吾は説明のあと、指を直角に動かし折れ曲がった形状を示した。アディパパの口が間の抜けたようにぽかんと開く。旗色が悪くなってきた。 
「給油口に隠されたわけではないようですな。若山くん、念のため、どこかに放り投げ得られていないか調べてみてくれ」
巡査部長の声に若山はペンライトで辺りを探し出した。巡査部長も車体の下をのぞき込み、ライトをあてながら丹念に何か落ちていないかを調べていく。
5分ほどして若山が「何も吸引装置らしきものは落ちていません」と報告してきた。巡査部長もすでにあきらめたような表情で腕組みをしてうなずく。ちらとアディパパを見た。
「しょ、証拠はほかにもありますよ。盗んだガソリンじゃ」
アディパパはポリ容器を指す。
「だからこれはうちから給油用にもってきたガソリンですって。抜き取ったものじゃない」
伸吾が即答した。
「本当に山浦石油のガソリンなのか?」アディパパが目を細めて伸吾を見た。
「当たり前でしょ。正真正銘、うちの店のガソリンです」
伸吾が声を張った。
「まあ残念ながら、隣の店舗のガソリンと違うということを証明するのは不可能ですけどね」
権蔵が息子の代わりに注釈を与える。その顔は不敵な笑みを浮かべている。
「それが炭酸ジュースということはないのか」
「あるわけないじゃろっ」
権蔵はずるけて見せた。
「色がついていると言うことは?」
「ガソリンなんじゃから無色透明に決まっとるじゃろ」
権蔵はあきれたような表情で答えた。
「あぢお、透明コップを持ってこい」
アディパパがにやりとしてアディオスに告げる。アディオスはコップを取りに玄関から家へ入った。
 アディオスは駐車場へ戻るとコップをアディパパに渡した。
「これにポリ容器の燃料をついでみてください」
アディパパの要請に若山は巡査部長をちらと見た。巡査部長のうなずきを確認すると、黙ってポリ容器から中に入った液体をコップへと注ぎ込む準備をした。巡査部長はしゃがんでコップにライトを当ててスタンバイする。電動の吸引装置の音がなり、ポリ容器から燃料がコップへと注がれていく。みるみるオレンジがかった液体にコップは満たされていく。
「ぬわんじゃこりゃ」
権蔵と伸吾の目が点になった。
「ふふふ、かかったな。実はひそかにこの車に炭酸ジュースを20リットルほど入れておいたのだ。昨晩給油したのはたった5リットル。あとは自宅に戻って注ぎ込んだ炭酸ジュースだったのじゃ」
ほこらしげに腰に手をやるアディパパ。巡査部長は若山からコップを受け取るとライトを当て液体の様子を観察した。
「炭酸のような泡があるな」
若山を呼び寄せコップの液体の臭いを嗅がせてみる。
「ツンとしたガソリンの臭いに混じってオレンジの香りがしますね。オレンジサイダーの香料っぽいですね」
若山は軽くうなずきながら訴えた。巡査部長が権蔵に目を向ける、権蔵はすぐに目をそらした。
「味もこのオレンジサイダーと同じ味がほのかにするはずです」
アディパパは後部座席のドアを開け2リットル入りペットボトルを取り出した。底の方にオレンジの液体が泡立てながら残っている。
「ポリ容器のものと飲み比べてみてください」アディパパが若山にペットボトルを差し出すした。若山は「嫌です」と即答する。
「じゃあペットボトルのだけ飲んで」
アディパパがペットボトルを若山の胸に押しつける。若山はしぶしぶキャップをとって一口だけ飲んだ。
「間違いなくオレンジサイダーです」
若山は証言した。
巡査部長はキャロライン号の給油口を開けると鼻を近づけ、自ら中の臭いを嗅いだ。
「オレンジサイダーと同じオレンジの香りが立ち上っていますね。言っていることは的を射ている。これはどう説明されますか、山浦さん。あなたが自らオレンジサイダーを注入したとか言いませんよね。それはそれで罪になる」巡査部長が険しい目で権蔵を見る。
「くっ、まさかオレンジジュースを注ぎ込むバカがいるとは……」
権蔵は唇をかむ。伸吾は黙ってうつむいた。
「ガソリンにオレンジサイダーを混ぜるバカが世の中のどこにいますか?」
巡査部長は権蔵に詰め寄った。アクセントがついたバカという言葉がこだまする。
「そうです。数千円のガソリン盗難暴露のためとはいえ、車が廃車になるリスクを背負うようなおたんこなすはこの人しかいませんよ」
若山が追従する。おたんこなすという言葉が鮮明に強調された。
「車のガソリンにジュース混ぜるいんきんたむしがいるとは思わなかった……」
伸吾はぼそりと言うとため息をついた。いんきんたむしだけ滑舌ははっきりしている。
「いんきんたむしは頭脳とは関係ありませんから。言うならあんぽんたんです」
アディオスがフォローした。あんぽんたんを強調したことは言うまでもない。さっきまでドヤ顔だったアディパパは続けざまの侮辱発言により渋面に変わっている。
「権蔵さん、伸吾さん、チェックメートですね」
アディパパは車に寄りかかり、威厳をもった表情を作り直し問いかけた。巡査部長が手錠を取りだし権蔵の手首にはめようとする。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ。肝心のガソリン吸入装置がありませんよね。燃料タンクからガソリンを取り出すためには、こっちのぶっという吸引装置じゃ入りませんからね。車からガソリンを取り出すための吸引装置はどこにあるというのです?」
権蔵はまくすように訴えた。
「そ、それは……」
アディオスの目が動揺わかりやすく泳ぎだした。ヘルプを訴える目をアディパパに向ける。アディパパも腕組みをして考え込んでいる。いや、鼻水が垂れているところを見ると、解決したと油断して寝ているようだ。
「そういえばそうだ。バッグの中を探せ」
巡査部長は若山に告げた。若山はバッグの中をくまなく探す。巡査部長も放り投げられそうな範囲をペンライトで探して回る。アディオスも権蔵らを監視しつつ車の下などをくまなく調べた。
「見つかりませんね」
若山がデカい登山用リュックをひっくり返して首をかしげた。
「ちょっと待ってください」
アディオスがリュックを若山から受け取った。
「来たときから疑問に思っていたんですが、持ってきている道具に比べてリュックがデカすぎです。しかも来たときは膨らんでいた。中にパンパンに膨らんだ何かが入っているかのように」
アディオスは中をのぞき込みながら説明する。リュックの中は中から圧力を受けたように膨らみを帯びていた。
「でも何も他には入ってませんよ」
若山が首を横に振って否定する。
「今はここに存在しない何かがあったということではないですか?」
「でも何も放り投げたりする姿は見てないんでしょ」
「放り投げる姿は見てません。ただ、飛ばした物も見えていません。近づいたときパチンコ玉をばらまかれて地面に釘付けになってましたから」
「はあっ? 飛んだ?」
若山はぽかんとしてアディオスを見た。
「風船ですよ。おそらく吸引具は風船にくくりつけて飛ばしたんです。黒い風船でね。パチンコ玉を転がしたのは私を転ばすためというより、目線を下に向けるため、つまり風船んの存在を見せないためです」アディオスは上空を指さして推理を続けた。「風船はそのまま持って移動すると不自然です。かといって駐車場で水素やヘリウムガスを入れるには道具が必要。とすれば最初から入れた状態でリュックに隠しておく必要がある」
「だからこんなに大きいリュックサックを持ってきたというわけですか」
巡査部長が目を丸くしてリュックを見た。
「まあ、吸引器具もそれなりの重さがあるでしょうから、リュックサイズの風船一個で飛ばせる高さには限度があります。明日の朝、近所を探せば木か何かにひっかかっているんじゃないですかね。風向き調べれば風船を探す範囲も絞れます」
アディオスの指摘に伸吾は苦虫をつぶしたような表情をした。
「署で自白してくれますね」
巡査部長は穏やかな口調で告げると、証拠品となるオレンジサイダーとガソリンがコラボしたポリ容器を受け取った。
「真田さん。この車の燃料タンク内のものは入れ替えないでおいてください」
巡査部長の申し出る。
「ポリ容器の液体と燃料タンクの液体が一致すれば実証完了ですからね」
若山が笑顔でうなずいて見せた。手柄を得られたという気持ちが表情に表れている。
「刑事さん、ちょっと山浦さんと話をしてもいいですか?」
アディパパが許しを乞うと、巡査部長は「どうぞどうぞ」と応じた。アディパパは権蔵と伸吾の前に歩み出た。アディオスもアディパパの横に並び山浦親子と相対する。
「山浦さん、どうしてこんなことしてしまったんですか?」
アディパパが優しく問いかけた。
「我慢ならなかったんですよ。向かいの新町石油が」
権蔵がぼそりとつぶやいた。父の言葉を受け伸吾が二の句を継ぐ。
「あいつら、うちの客を次々奪ってこれみよがしに忙しいを連発しやがった」
「チェーン店の強みですよ。近隣のライバル店を潰すためには手段を選ばん。価格もサービスもうんと差をつけ見せつけやがる」
「そしてライバルが潰れた後、悠々と平常運転しやがるつもりなんだ」
「こっちは40年ですぞ。40年の間、地域との信頼をつくり、ノウハウを築き上げてきた。それが、中央の大企業の知恵に押しつぶされるのじゃ」
「俺たちは負け組なんですよ。仕事ではSNSで身に覚えのない悪評を流されて客は離れた。そして貧乏になった俺から勝ち組の友達たちも見放して去って行った。孤立状態なんですよ。ぼっちなんです」
伸吾がうつむいた。
「勝ち組ってなんなんだろね。お金を得ることだけが人の幸せなのか。もらえるお金は雀の涙でも仕事に楽しみ、やりがいを感じられることが人生における幸せ、勝ち組じゃないのか。金持ちだって辛い思いばかりしている者や自分に自信が持てない者もいる。逆に金がなくても毎日が充実している者もいる。幸せ、勝ち負けの観点は人それぞれじゃ。あなた方の考えは単に多数派意見に惑わされてるだけじゃよ」
アディパパが諭すようにいった。
「そう。友達が多いからとぼっちをばかにする人も、見方を変えればかまってちゃんなんですよ。人がいないと落ち着けない寂しがり屋なんですよ。本当に強い人間というのは周りの意見に流されず自分を貫き、少ない人数であっても多数派に立ち向かっていける人なんです。人をバカにするのは多数派が長所を欠点として扱って広めているだけですから」
アディオスも追従した。
「周りがどうあれ、良いガソリンを売るという信念を貫くべきですよ。あなたが成功すれば、周りの見方も絶対変わりますから」
「でももう遅いですよ。罪を犯しちゃったんだから」
伸吾は力なくつぶやいた。山浦親子の様子を見ていたアディパパが巡査部長に問いかけた。
「窃盗というのは相対的親告罪じゃよな」
「まあ、そうですが……」巡査部長がとまどいながら答える。
「なに、そのなんとかシンコクザイって」
アディオスがアディパパにたずねた。頭の中では確定申告という言葉がちらついている。
「親告罪というのは、告訴がなければ起訴できない犯罪、つまりこちらが訴えなければ罪にならないものじゃ」
アディパパが「だったよね」という目線を巡査部長に送りながら説明する。巡査部長は軽くうなずいた。
「小クソがないと味噌できないねぇ」
疑問形で漏らすアディオスの頭には、アディパパの滑舌の悪さがもとで小さい糞で味噌を作るイメージが大勢を占めている。
「たとえば同居した家族、つまり同居親族から盗まれた物は刑が免除されるじゃろ」
「そうだね。家族の物盗んで警察捕まったとか聞いたことないし」
アディオスは腕組みをしてうなずく。
「同じように六トウシンまでがした窃盗も親告罪」
アディパパの説明の途中で若山が「六トウシンじゃなくて六シントウです。六等身はモデル体型で親族の範囲は六親等」と早口で指摘した。アディパパの言い方ではモデル一家は犯罪に問われにくいことになる。
「詳しく言えば、六親等までの血族と三親等までの姻族は親告罪になりますがね」
巡査部長が付け加えた。
「親族がどうのこうのって何関係あるの?」
アディオスが眉間に皺をよせる。アディパパは拳をふりあげ声をあげた。
「わたしは告訴はしないっ! なぜなら真田家と山浦家は親族関係にあるから!」
巡査部長と若山はきょとんとしてアディパパと権蔵を交互に見た。似ても似つかぬ顔だ。
「親族じゃないぞ。わしの父は北海道出身じゃから」
権蔵は自らはしごを外した。続けて伸吾も「ノー親等です」と正直に告白する。伸吾の言葉にアディオスは「脳しんとう?」と小首をかしげた。
 アディパパは「親族ということにしとけ、そしたら救ってやるから」とツバキを飛ばしながら説得する。権蔵は観念したかのように目を閉じ首を横に振った。
「罪は罪です。どんなに抵抗しても力を持った組織には勝てない。しょせんこれが負け組の末路なんですよ」権蔵の目は涙で潤んでいた。
「こうなった以上、ガソリン業界ではやっていけなくなりましたね。父とともに40年守ってきた伝統はここで潰えます。祖父に向ける顔はありませんけど、どうしても我が物顔の新町石油に一矢報いたかった。法律って力のない人間を守るためにあると思ってましたけど、過信して悪用してしまったみたいです。正義はここにはなかった」
伸吾は訥々と言葉にした。
「法はまだあなたたちを見捨ててませんぞ。近隣の住民もな」
アディパパは押し殺した声で告げると巡査部長の方へ向き直り声をあげた。
「巡査部長、仲間内の身の上話を聞いてもらい今日はありがとうございました。お忙しいでしょうから、どうぞお引き取りください」
「はっ? 二人の逮捕は?」
巡査部長が訝しげにアディパパを見る。
「逮捕って、事件は何も起きておりません。うちはガソリンなんて盗まれてませんから。のポリ容器のガソリンも持ち出されたわけではない。盗難が完了してはない」
「でも他の家庭でもガソリン盗難の疑いがあるわけでしょ」
若山が抗弁する。
「ほかの家庭からも被害届は出とらんじゃろ。山浦石油から盗難ガソリンなんて見つからない。証拠はない」
「でもここでガソリンを抜き取ったという事実は変えられない。それは盗難未遂ですぞ」
巡査部長は使命感からか語気を強くした。
「盗難? 抜き取ったかもしれない液体も中身の大半はガソリンではなく腐った炭酸ジュースなんですよ。捨てる寸前の廃棄待ちジュース」
「腐った? 捨てる寸前?」
若山はあせってペットボトルに書かれた賞味期限にペンライトを当ててみた。
「2年前に切れてるっ」
期限切れジュースを一口飲んでいた若山はしゃがみこんで唾を何度も吐き出した。
「刑事さん。今日の出来事はなかったことにしてくれ。でないと、わたしはここでパンツを下ろして裸踊りをしなくてはならなくなる」
「それって脅しですか。というか公然猥褻で捕まりますよ」
若山が苦笑いで答えた。
「わかりました。もともと推理で証明したのも真田さんですから言うとおりにしましょう。今日のところは厳重注意ということでもどります。山浦さん、疑われるようなことをしてはいけませんぞ」
巡査部長の言葉に権蔵は深々と頭を下げた。
「きっと、近所の車の何台かのガソリンが明日の夜に増えてることでしょう」
アディパパは伸吾へちらと目をやり罪の償いを促した。伸吾は大きくうなずき笑みを浮かべた。
「山浦さん、僕の知り合いにちょっと有名なインフルエンサーがいます」
「インフルエンザ?」
権蔵が訝しげな顔をした。
「病名じゃなくてインフルエンサー。SNSを使って情報発信する人物で世間や人の考えや行動に大きな影響力を与える人物のことです。僕の知り合いはカリスマブロガーとも呼ばれていて、弱者の味方でもあるんです。きっと協力してくれるはずです」
「そうなんですか」
伸吾の表情がぱっと明るくなった。
「彼に協力をお願いして客が増える店にする作戦を練ってもらいますよ。以前は廃業寸前のホテルを救った優れものですから」
アディオスはそう言って伸吾の肩をぽんとたたき笑みを見せた。山浦親子は「宜しくお願いします」と深々と頭を下げた。
「地元で築いてきた信用があっという間にくずされる。辛い気持ちはわかります。ま、涙とともにパンを食べた経験のないものに、人生の味はわかりませんからな。まあ、人生はブランコのようなもので、後ろに大きく振る困難というものがあるからこそ、その反動で大きく前に振る幸福にも出会うことができる。この困難を乗り切れば必ず勝利が待ってますよ」
アディパパが穏やかに諭した。
「その言葉信じてやっていきます。ありがとうございました」
権蔵は再び頭を下げると「行こうか」と伸吾の腰をぽんとたたき去って行った。
 アディオスはアディパパとともに去って行く山浦親子の後ろ姿を見送った。角を折れ姿が見えなくなる。
「一件落着だな。よし、あぢお、助手席に乗れ」
アディパパは颯爽と運転席へ乗りこんだ。言われるがままアディオスも助手席のドアを開く。アディオスが助手席シートに座り込むと同時にアディパパは「解決記念の夜間ドライブだ。気分いいぜ」とキメ顔でつぶやいた。エンジン始動スイッチを押す。セルの音だけがむなしく鳴り響きエンジンはかからない。
「パパ、燃料タンク、中身オレンジサイダーだから……」
アディオスの指摘にアディパパはハッとした顔をした。


          おわり
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

真田あぢお  通称アディオス。大学3年生。わけあって5回生。大学内では天然ボケぶりを遺憾なく発揮するが、さらに上を行く父親の天然ボケを前にすると、比較的まともにツッコミを入れる。自称好青年。

アディパパ  本名は真田幸昌というらしい。真田あぢおの父。自らのお金にまつわる事件になると頭の回転がめまぐるしく速くなる。自称イケオジ。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み