散った後の桜

文字数 2,172文字

 隅田川の河川敷に、一人佇む。
 季節が春になったお陰で、向こう側の桜が植えられた場所では花見客たちが騒いでいる。墨色の水面には淡い色の桜の花びらが浮かび、観光客を乗せた船が生んだ波にもまれて、墨色の川の水を被って汚れて行く。その姿はまるで人間が命あるものとしてこの汚い世の中に産み落とされ、穢れた存在に変化してゆくのにとても似ている 
 そんな光景を見下ろせる場所に、僕は居た。行き交う花見客たちの間を抜けて、あちこちで繰り広げられる饗宴の声を耳にしながら、様々な食べ物やアルコール飲料の臭いを感じながら僕は人気の無い方向へと歩いて行く。本当なら何処かで缶ビールの一つでも買ってよかったのだけれど、まだ日が高いからそんなことはしたくなかった。
 学生時代の同じ時期、僕は紗香と同じように花見客でにぎわう飛鳥山公園を歩いていた。そこを選んだのは僕の住むアパートから、都電荒川線に乗って二つ目の駅だったから。西巣鴨の駅で待ち合わせする時、久しぶりに乗る都電に紗香の目は輝いていた。
 僕と紗香はコンビニで缶ビールとサラミのパックを買った。そして飛鳥山公園に入って、他の人達の邪魔にならない所でビールを飲んだ。話の内容は今後の事、履修している科目がどうこうと言う当たり障りのない内容だった。
 でもその時の僕は幸せだった。こうやって紗香と桜の木の下で過ごす時間が永遠に続いて欲しいと切に願った。淡い色の桜が僕の気持ちを表していたというか、僕の心が桜色に染まっていたのだと思う。紗香はどうだったか分からないけれど。

 それから僕と紗香は大学を卒業して、紗香は印刷会社に、僕はオートバイ用品の販売をする会社の店舗スタッフとして就職した。以前ほど親密な付き合いにはならなかったけれど、同じゼミ生だったメンバーと会う機会や、二人だけの時間を作って色々楽しんだ。場所はダーツバーだったり、僕の部屋だったりいろいろだった。会う時間が減っただけで関係は続くと思っていた。
 二年ほど前から、僕と紗香が会う機会が減っていった。理由は分からなかった。僕の勤める会社は特に客層の変化はなかったし、紗香の勤める印刷業界も去年になるまで大きな変化はなかった。
 ある晴れた春の休日、飛鳥山公園久しぶりに紗香に会うと、彼女は突然別れ話を切り出した。僕は正直混乱して、なんでそんなことを切り出すんだと聞き返したが、紗香は別れて欲しいとの一点張りだった。
「僕が嫌いになったのかい?」
 僕は紗香にそう質問した。感情の昂ぶりを抑えるのに必死だったから、それ以上の言葉は思いつかなかった。
「そうじゃない。他に好きな人が出来たの」
 紗香は伏し目がちに申し訳なさそうに言った。恐らく事実だろう。僕より魅力的な相手が現れれば、その相手に意識が行ってしまうのはごく自然な事だ。
「理由はそれだけかい?」
 僕はそう質問した。紗香は何も言わずに頷いた。
「わかった。ありがとう」
 僕はそれだけ言って、紗香の元を離れた。自分でも拍子抜けする位に呆気ない、桜の花が散るような別れだった。美しい季節が終わり、桜の花はそれまでの姿を変えその役目を終えて別の何かに変化する。そんな気分を味わった。

 それから一年が経った春の日。テレビが東京の桜が満開だとはやし立てる頃、僕は自分のバイクの後ろに乗ってくれる紗香が居ない事を意識するようになった。背中越しに感じる紗香の気配と体温が恋しくなったのだ。仲のいい女友達は二人いたが、まだ深い関係にはなっていなかった。まだ僕の中に紗香が居座っていたのだ。
 ある日の午後、僕は自分のバイクであるホンダのシャドウ400に乗って高島平から赤羽を目指していた。またいつもと同じように紗香が居ない事を嘆きながら交差点に差し掛かり、左折レーンに入り信号待ちに捕まると、隣に一台のルノー・メガーヌが停まった。
 珍しい車が並んだなと思って様子を見ると、メガーヌのリアシートには、ベビーシートに座った子供をあやしている紗香の姿があった。僕は驚いて心臓が飛び出しそうになり、声を上げかけたが我慢した。運転席には、僕より少し年上で芯の強そうな男が一人座っていた。
 信号が青になる。僕は左折して、直進しミラー越しに離れて行く紗香とその家族を見送った。その様子はまるで五枚一組の桜の花から、花びらが一枚離れていくような、儚くて繊細な何かが欠損する光景だった。

 そうしてちぎれた花びらになった僕は、この日本社会と言う汚れた川の水面に浮かぶ一枚の桜の花びらだ。花を咲かせた時は美しくても、散れば只のゴミに成り下がってしまう。
 もし許せないものがあるとしたら何だろう?僕から紗香を奪っていた年上の彼だろうか、それとも僕自身だろうか。正直分からない。あえて言うならば、桜の花の様に、美しく咲いても最後は汚れたゴミになってしまう、人間と言う生きものだろうか。紗香は桜の花として誰かの心に残り、形あるものを残せたけれど、僕は風に乗って散った花びらなんだ。だから僕は、桜の花を見ると紗香の事を思い出す。
 だから僕は桜の花が許せない。短く空虚な美しさを、永遠に続くかのように偽るから。

 


 
                                   (了)
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