第8章 オルタナティヴ指向

文字数 6,642文字

八 オルタナティヴ指向

You've got a great car
Yeah, what's wrong with it today?
I used to have one too
Maybe you should come and have a look
I really like your hairdo
I'm glad you like mine too
I see we're looking pretty cool
So what do you do?
Oh, you're waiting tables too?
No I haven't heard your band
Because you guys are pretty new
But if you love vegan food
Come over to my work
I'll have them look you something that you'll really love
Cuz I like you
Yeah I like you
And I feel so Bohemian like you
Wait
Who's that guy, just hangin at your pad?
He's looking kinda sad
Oh, you broke up?
That's too bad
But I guess it's fair
If he always pays the rent
And he doesn't get all bent
About sleeping on the couch when I'm there
Cuz I like you
Yeah I like you
And I'm feeling so bohemian
I feel so bohemian like you
And I want you
Please
Just a casual thing
Cuz I like you I like you I like you
Whoo-hoo-ooo
(The Dandy Warhols “Bohemian Like You”)

 小林秀雄が、最初に、本格的な批評を書いた対象はアルチュール・ランボーである。一九二六年に最初のランボー論を発表している。当時、ランボーを研究する企ては日本のアカデミズムでは許されていない。フランス文学の研究者であれば、とりあえずジャン・ラシーヌあたりを論じなければならない。けれども、彼はパンクだから、そんな慣習には従わない。

 中原中也の友人は、『地獄の一季節』を次のように訳している。

俺はありとあらゆる祭りを、勝利を、劇を創った。俺は新しい花を、新しい肉を、新しい葉を発明しようとも努めた。俺はこの世を絶した力も獲得したと信じた。扨て、俺は俺の想像と追憶とを葬らねばならない。芸術家の、話し手の一つの美しい栄光が消えて無くなるのだ。

 小林秀雄は粟津則夫や篠沢秀夫のように訳しはしない。「正確さ」など眼中にない。ランボーのパンク性を示すのだ。この翻訳でのフランスの詩人は、パティ・スミスやジョニー・ロットンといったパンク詩人の先行者である。「ランボオが破壊したのは芸術の一形式ではなかった。芸術そのものであった。この無類の冒険の遂行が無類の芸術を創った。私は彼の邪悪な天才が芸術を冒涜したとは言うまい。彼の生涯を聖化した彼の苦悩は、恐らく独特の形式で聖化したのである。あらゆる世紀の文学は、常に悲運の天才を押し流す傍流を生む。けだし環境の問題ではないのである。ある天才の魂は、傍流たらざるを得ない秘密を持っている。後世如何に好奇に満ちた批評家が彼の芸術を詮表しようと、その声は救世軍の太鼓のように消えて行くだろう。人々はランボオ集を読む。そして飽満した腹を抱えて永遠に繰り返すであろう。『しかし大詩人ではない』と」(小林秀雄『ランボオ』)。

 『モオツアルト』(一九四六)でも、この姿勢は貫かれている。モーツアルトの人生をたどり、曲に言及しつつ、早熟でパンク名天才の孤独を書いている。「確かに、モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる(略)彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺っていないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当り前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない」。

 モーツァルトは、ベートーベン以前である。そのため、伝記的事実とたどり、自己表現として作品を生み出したと捉えることには無理がある。かの天才は、下品で卑猥なことが大好きなスカトローグ、あるいは王侯貴族を庇護の下に芸術活動する時代と新興ブルジョアジーの経済力を背景にしてフリーの芸術家が可能になった時代の狭間に生きた音楽家である。器楽曲にしても、オペラにしても、落書きの多い譜面上の曲はシンプルにして、繊細で高度な芸術性を備えている。「モーツァルトという人物は、当時知られていたあらゆる音楽形式において、経理部長が社内メモを素早く処理するような手さばきでディヴェルティメントを仕上げることのできる、こちらがうれしくなってしまうほど頼もしい芸術家だったのです。しかし、ある意味では、それが彼の問題でありました。モーツァルトの作品には社内メモのようなものが多すぎます」(グレン・グールド『経理部長モーツァルト』)。
  
Er war ein Punker
Und er lebte in der großen Stadt
Es war in Wien, war Vienna
Wo er alles tat
Er hatte Schulden denn er trank
Doch ihn liebten alle Frauen
Und jede rief:
Come and rock me Amadeus

Er war Superstar
Er war populär
Er war so exaltiert
Because er hatte Flair
Er war ein Virtuose
War ein Rockidol
Und alles rief:
Come and rock me Amadeus
Amadeus, Amadeus...

Es war um 1780
Und es war in Wien
No plastic money for me
Die Banken gegen ihn
Woher die Schulden kamen
War wohl jedermann bekannt
Er war ein Mann der Frauen
Frauen liebten seinen Punk

Er war Superstar
Er war populär
Er war so exaltiert
Because er hatte Flair
Er war ein Virtuose
War ein Rockidol
Und alles rief:
Come and rock me Amadeus
Amadeus, Amadeus...
(Falco “Rock Me Amadeus”)

 さらに、生きている間はわずか一枚しか売れなかっただけでなく、美術史上、最大のトラブル・メーカーの一人であるビンセント・ヴァン・ゴッホを手放しで評価する。小林秀雄は、一九五一年に発表した『ゴッホの手紙』において、発狂して自殺したこの画家に賛辞を惜しまない。全編を通して、感動を抑えきれない小林秀雄の姿が次のように伝わってくる。

 熟れ切った麦は、金か硫黄の線条の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剥ぎ出ている。空は紺青だが、嵐を孕んで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管弦楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、鳥の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた──僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は、或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。

 小林秀雄は、ゴッホの手紙を引用しつつ、その人生と作品、先行する画家や同時代の画家との違いを描き、最初のパンク画家という称号を与える。「書き続けて行くにつれ、論評を加えようが為に務め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた事である。手紙の苦しい気分は、私の心を領し、批評的言辞は私を去ったのである。手紙の主の死期が近づくにつれ、私はもう所謂『述べて作らず』の方法より他にない事を悟った」。

 初期の小林秀雄は、挑戦的に、オルタナティヴな作品を書いている。アフォリズム集『アシルと亀の子』シリーズは、そのタイトルも含めて、斬新である。これだけでなく、アヴァン・パンクとでも呼ぶべき作品を試している。

 小説と批評というジャンルの分類を解体するものも少なからず発表している。『Xへの手紙』(一九三一)は架空の人物Xに宛てられた書簡スタイルの批評である。小林秀雄は自分自身に「俺」を使い、Xを「君」と呼び、友人に話しかけるように、書いている。順序立ててはいないものの、過去に経験した事件や出来事、今の文学・思想シーン、批評を含めた文学に関する自分の考えを率直に次のように告白している。

 俺は今も猶絶望に襲われた時、行手に自殺という言葉が現れるのを見る、そしてこの言葉が既に気恥しい晴着を纏っている事を確め、一種憂鬱な感動を覚える。そういう時だ、俺が誰でもいい誰かの腕が、誰かの一種の眼差しが欲しいとほんとうに思い始めるのは。

 俺が生きる為に必要なものはもう俺自身ではない、欲しいものはただ俺が俺自身を見失わない様に俺に話しかけてくれる人間と、俺の為に多少はきいてくれる人間だ。

 俺の興味をひく点はたった一つだ。それはこの世界が果たして人間の生活真情になるかならないかという点である。人間がこの世界を信ずるためにあるいは信じないために、何をこの世界に附加しているかという点だけだ。この世界を信ずるためにあるいは信じないために、どんな感情のシステムを必要としているかという点だけだ。

 母親は俺の言動の全くの不可解にもかかわらず、俺という男はああいう奴だという眼を一瞬も失った事はない。

 人間世界では、どんなに正確な論理的表現も、厳密に言えば畢竟文体の問題に過ぎない。修辞学の問題に過ぎないのだ。簡単な言葉で言えば、科学を除いてすべての人間の思想は文学に過ぎぬ。現実から立ち登る朦朧たる可能性の煙に咽せ返るような様々な人の表情に過ぎない。

 社会のあるがままの錯乱と矛盾とをそのまま受納する事に耐える個性を強い個性という。彼の眼と現実との間には、何等理論的媒介物はない。彼の個人的実践の場は社会よりも広くもなければ狭くもない。こういう精神の果てしない複雑の保持、これが本当の意味の孤独なのである。

  告白が日本に入ってきた際、作家たちはそれを私小説にしてしまったが、告白は、本来、『Xへの手紙』のような主観性が強く知的な作品を指す。発表された当時、これに続く作品は現われなかったけれども、戦後になって登場したいわゆる観念的な小説群には、むしろ、この作品の影がある。『Xへの手紙』は先駆的な小説である。

 他にも、ウィリアム・シェークスピアの『ハムレット』に出てくるオフィーリアである。この作品はハムレットに宛てた遺書として書かれた『おふえりや遺文』(一九三一)は、さらに、エキセントリックな作品である。

 彼は、『土佐日記』の紀貫之のように、女性の口調を真似て次のように書いている。

 何も、妾は気違いの真似をしようと思って笑っていたわけではないのです。どうぞそれは信じて下さい。室に這入って鍵をかけて、それから……それから、こうしてもう夜で、こうしてもう夜で、こうして何やらわけもわからず書いています。あとは、夜明けを待てばいいのです。こうして字を並べていれば、その中に夜が明けます。夜が明けたら、夜が明けたらと妾は念じているのです。夜が明けさえすればみんなお終いになる。何故って、そうなったんだもの、はっきり、そうだと、わかるんだもの、どうぞうまく行きますように。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………おや、おや、点々ばかり書いていて、どうする気でしょう。女の手紙には、必度、点々があるものだ、と。あなたはおっしゃる。ありますとも、点々だって字は字です。あなただって、気違いは気違いです。早くクロオディヤス様をお殺しになるがいい、妾は知りません、何んにも知りません。……ああ、あなたは何と遠い処で暮らしていらっしゃる。

 吉本隆明も、江藤淳も、柄谷行人も、女性のような語りで作品を記してはいない。蓮実重彦が草野進として批評を公表しているものの、ここに見られるローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』ばりのアヴァンさには欠ける。ニューヨーク・ドールズがアンドロギュロス風に着飾っていたように、この語りはスチーム・パンク的な混成主体にほかならない。彼はちょっとしたモボのレトロ・クールを感じさせてくれる。

Take me now baby here as I am
Pull me close, try and understand
Desire is hunger is the fire I breathe
Love is a banquet on which we feed

Come on now try and understand
The way I feel when I知 in your hands
Take my hand come undercover
They can稚 hurt you now,
Can稚 hurt you now, can稚 hurt you now
Because the night belongs to lovers
Because the night belongs to lust
Because the night belongs to lovers
Because the night belongs to us

Have I doubt when I知 alone
Love is a ring, the telephone
Love is an angel disguised as lust
Here in our bed until the morning comes
Come on now try and understand
The way I feel under your command
Take my hand as the sun descends
They can稚 touch you now,
Can稚 touch you now, can稚 touch you now
Because the night belongs to lovers ...

With love we sleep
With doubt the vicious circle
Turn and burns
Without you I cannot live
Forgive, the yearning burning
I believe it痴 time, too real to feel
So touch me now, touch me now, touch me now
Because the night belongs to lovers ...

Because tonight there are two lovers
If we believe in the night we trust
Because tonight there are two lovers ...
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