第3章

文字数 6,720文字

 藤田さんのご実家では、幸せな結婚生活を送っているとばかり思っていた長女からの唐突なカミングアウトによって、にわかには信じられないその内容に、誰もが混乱していました。

 彼女が実家の家族に見せたのは、自身が撮り溜め、見る人が分かりやすいように編集した動画や音声でした。その中には、百合原さんと私が訪問した日のものもあり、その変貌ぶりが顕著に分かります。


「これ、ホントにお義兄さん…?」

「まるで、別人みたいな変わりようだよね。人間って、人によってこんなに態度が変われるものなの?」


 思わずそう言ったのは、藤田さんの妹夫婦でした。

 いつも穏やかで、優しい印象しかなかった義兄の変貌もそうですが、幼い頃から姉本来の明るい性格を見てきただけに、藤田さんの痛め付けられ、憔悴しきった様子には、驚きを隠せません。

 中でも、その人柄に全幅の信頼を寄せていた娘婿に、すっかり騙された形の母親は、自分の認識とのギャップに、現実を受け止めきれない様子で、藤田さんを問い詰めるように尋ねるばかり。

 逆に、愛娘がこれほど辛い目に遭わされていたことに、腸をえぐられるような思いの父親は、『一言、娘婿に物申す』と怒り心頭でしたが、一先ずぐっと堪えるように言う藤田さんの言葉に従うことに。



 当初は、離婚するか、このまま結婚を継続するかを迷っていた藤田さんでしたが、冷静になるにつれ、到底この人と生涯を共にすることは無理という結論に達し、離婚の決意を固めていました。

 それを踏まえた上で、この先、実家家族の協力が必要になる場面は必ず出て来ますから、感情に任せて独断で行動されるのは非常に困ります。

 何しろ、全員がコロッと騙されたほど、表と裏で真逆の顔を使い分ける達人。安易に接触して話を聞こうものなら、口八丁であちらのペースに乗せられ、『ああ、なるほど、そういうことだったのか~。それなら、あなたの言い分が正しいよね~』などと、洗脳されかねません。

 自分の本性がバレたと知れば、自己保身のためには、それこそ全力で巻き返そうと、何を置いても、藤田さんの周囲の人間を取り込む手段に出るでしょうから。


「でも、どうしてこんなことされて、ずっと我慢してたの? もっと早く言ってくれれば良かったのに」

「そうだよ。お義姉さんらしくないよね?」

「私も、言いたかったよ。でも、言えなかった…」


 裏では際限なく罵声を浴びせ、人格を否定し、表の顔で周囲の人たちとの信頼関係を築き、孤立感を深めるように仕向けられれば、人はどうなるか。

 事実、藤田さんの実家でも、誰一人、ご主人の裏の顔に気づくことはなく、まんまとその術中に嵌り、今この瞬間まで、彼女の心の叫びが届くことはありませんでした。

 経験のない人には、なかなか理解されにくいモラルハラスメントの被害者が陥る心理状況を、予め、私たちと一緒に考えて準備しておいた内容で、先ほどの映像を交えながら、両親と妹夫婦に説明した藤田さん。

 すぐには理解してもらうのは難しいだろうと覚悟していたのですが、思った以上に、実際の映像や音声には説得力があり、そうした状況に想像を馳せたとき、我が娘の身に降り懸かった、あまりにも理不尽な仕打ちに、両親は目を潤ませ、妹夫婦も怒りが込み上げます。


「何か、思い知らせてやりたいわよね」

「でも、まともにやり合ったところで、勝てるような相手じゃないんじゃ?」

「それなら、大丈夫。彼みたいな人間にとって、他人様からの評価はすごく大事らしいから、今こうして本性を知ってもらっただけでも、8割方はこちらの勝利だから」

「後の2割は?」

「再び騙されたり、取り込まれたりしないこと、かな」

「そんなモンスターみたいな人間相手に、お姉ちゃん、よく反撃出来たよね?」

「私独りじゃ、絶対無理だったよ。彼に完全にコントロールされてた私に気づいて、手を差し伸べてくれた、ご近所の皆さんがいたから…」


 思わず涙声になる藤田さんに、母と妹はそっと肩を抱き寄せ、優しく髪を撫でながら、


「新興住宅地なんて、人間関係が希薄だと思ってたけど、そういう人たちもいるのね」

「ってか、むしろ古い住宅街の、固定観念に縛られた相関図の中にいるほうが、逆に気付いて貰えなかった可能性もあるよね?」

「声を掛けてくれた人たちの中にね、立場は違うけど、経験者が2人もいたから、ホント、救われてるんだよね、私」

「お義姉さんは、周囲の人たちに恵まれたってことだよね」

「幸恵が、取り返しのつかないことになる前に気が付いて貰えて…本当にみなさんには感謝しないとね」

「もういいから、すぐにでも家に帰って来い」


 必死で感情を押し殺しながらそういった父親の言葉に、大きく頷く母親と妹夫婦。

 ですが、藤田さんはにっこり微笑むと、一人一人の顔を見ながら答えました。


「ありがと。でも、その前に、まだやることがあるから」

「あなた一人で、大丈夫なの? お母さんも一緒に行こうか?」

「気持ちはありがたいけど、準備か完了するまでは、内密に事を進めないといけないの。それに、力になってくれる皆さんもいてくれるから、大丈夫」


 両親や、妹夫婦を安心させるように、力強くそう言うと、藤田さんは夫と住む自宅に戻り、早速、離婚に向けての本格的な準備作業に入りました。



 基本的にやることは、資産・家財の整理、今後の住居、親族への理解の取り付け、さらには、後々、裁判や離婚調停になった際、必要に応じて弁護士さんへの相談、そしてそれらを着実に進めるための計画と、心の準備といったところです。

 親族の理解に関しては、ひとまずOKです。司法関係も、ご近所の穂高さんのご主人が、そうした分野に明るい弁護士さんで、すでにお話は通してありました。

 残る問題は、資産の分割をどうするのか、ということ。自宅は持ち家で、住宅ローンが残っており、購入時の内訳は、頭金の1500万円が藤田さんの貯金とご実家からの援助で、残りはご主人名義のローン、土地と建物の名義も二人の共有になっています。

 結婚以前の資産は、それぞれの所有となりますが、結婚後に得た財産は、財産分与の対象になりますので、土壇場になって揉めないように、整理しておく必要がありました。家電や生活用品も同様。

 さらに、新たに生活するうえで、どこに住むのかや、その後の生計をどうするかをはっきりさせておくことは、とても重要です。藤田さんの場合、差し当たっては実家に住むことが可能ですが、妹夫婦が同居しており、ゆくゆくは独立を考えていました。

 結婚したときに、ご主人の希望で、新卒で入社し長年務めていた会社を退職し、専業主婦になった藤田さん。自活するためには、社会復帰する必要がありますので、就職活動もしなければなりません。

 とはいっても、現時点では極秘裏に動いているものですから、専ら情報収集に重きを置いての行動です。



     **********



 平日の昼間、自宅で自己資産の内訳のリストを作成していると、不意に玄関のドアが開く音がし、突然ご主人が帰宅しました。


「お帰り。どうしたの、急に? 会社は?」

「何で? 俺が帰ってきたら、何か不都合なことでもあるの?」


 すごく剣のある言い方で、パソコン作業をしていた藤田さんを訝しげに見ながらそう言ったご主人。


「そうじゃなくて、体調でも悪いのかと思って」

「別に悪くないよ。今日は仕事が早く終わったから、そのまま直帰しただけだけど。それより、パソコンで何見てたの?」

「あ、これは…」


 藤田さんが説明するより早く、彼女を押し退けるようにして、パソコンを覗き込んだご主人。

 モニターに表示されていたのは、たくさんの人の氏名と年齢が一覧表になったもので、タイトルには『高齢者だけの世帯』とありました。

 さらに名前の部分をクリックすると、別のページが開き、そこには詳細な個人情報らしきものが記載されています。


「見ても良いけど、内容は絶対に口外しないでね」

「何、これ?」

「百合原さんに頼まれて、委員会の書類を作ってたの」

「あの民生委員の百合原さんから?」

「そう、あの百合原さん。町内の高齢者だけで住んでいる世帯と、その人たちの個人情報で、万が一の時の連絡先のリストだって」

「それって個人情報だから、一部の人間しか閲覧出来ないやつじゃないの?」

「そうなの。機密書類だから、お願いね」

「おう、分かった」


 相変わらず、自己愛性の強いご主人。大好物の『特別』『特権』的な待遇に、上機嫌になる様子が、あからさまに伝わります。

 勿論、これは私たちが用意した、架空の書類。藤田さんがしている、離婚準備のための調べ物や書類などが、ご主人にバレないためのカムフラージュです。

 今起こったように、モラハラ人間の多くが、余計な勘が働く傾向が強く、普段なら絶対にあり得ないような場所、時間、タイミングで、隠し事や秘密の場所などを、的確に探し当てることがあります。

 中には、ストーカー的に、盗聴・盗撮をして様子を伺っているパターンもありますが、そうではなく、『あんたはエスパーなのか?』と言いたくなるような、神憑り的な偶然が、どういうわけか度々起こるのです。

 もしかすると、本人さえ気づかないうちに、ターゲットが発するわずかなシグナルを、本能的に感じ取っているのかも知れませんが、いずれにしても、そんなことで計画に支障が出ては困ります。

 その予防対策として、『委員会の書類作成』というカムフラージュの仕事を用意して、作業中はすぐにその画面に差し替えられるようスタンバイしての、周到な作業を徹底していました。

 そして、カムフラージュに選んだ内容にも、意味があります。


「町内でも、高齢者だけで住んでるお宅って、結構多いみたい」

「へえ」

「理由も、人それぞれらしくてね」


 書類自体は架空のものですが、実際に高齢者だけでお住まいの世帯は、年々増加しているのは事実です。

 その理由も様々で、子供が独立し、会社や嫁ぎ先などが遠方のため、物理的に同居が難しいケース、そもそも子供がいない(死別含む)というケース、親世帯、子世帯のいずれか、あるいは両方が、同居することを拒否するケースなど。

 特に、拒否するケースでは、核家族化が進み、親子であっても気を使うのが苦痛だという理由を上げる人が、子世帯のみならず、親世帯にも増えているのだとか。

 確かに、実の親子でも気を遣うこのご時世。お嫁さんやお婿さんとの同居となると、実際にそうした苦労をされた人にしてみれば、自身が舅姑になってまで、他人に気を使いたくないと思う方も多いのかも知れません。

 それとは対照的に、全く苦労していなかったり、自身が苦労したからこそ、今度は自分が優遇される番とばかり、強く同居を望む方がいらっしゃるのも事実。

 さらに、この少子化時代、お孫ちゃんとの同居は、何物にも代え難い喜びであり、幸せの象徴というステータスをお持ちの方も少なくありません。

 お互いに、大人の気遣いが出来、良識的な感覚で対等に意見を言い合い、適度な距離を保てる関係が構築出来れば、大方の問題はクリアするのでしょうが、現実はなかなか難しいというもの。

 太古の昔から、世界中のあらゆる国や地域で、永久不滅の難題、それが『嫁姑問題』なのです。


「中にはね、ご両親が強く同居を希望しているのに、どうしてもお嫁さんが嫌がって、離婚問題にまで発展したケースもあるんだって」

「そう」

「そういう点では、うちは本当に恵まれてるよね。あなたは長男なのに、お義母さんのほうから『面倒を掛けるつもりはないから』って、独立して家を建てるように勧めてくださったわけだし、うちの実家も、妹夫婦が親と同居してるから、そういう悩みを抱えることもないんだものね」


 すると、ご主人はそれまで見ていたパソコンの画面から目を逸らせ、着替えるからと、リビングを後にしました。

 すぐさま、彼が閲覧していた画面の内容をチェックした藤田さん。履歴には、ランダムに閲覧した形跡が残されていましたが、その中に、何度も繰り返し開いたページがありました。

 それは、白木さんというお宅のデータ(勿論、架空)。夫(70歳)妻(68歳)の二人暮らしで、子供は長男と長女、共に結婚して別居。夫妻は長男夫婦との同居を強く希望しているが、長男本人がそれを強く拒否。長女には同居する意思があるものの、逆に夫妻が拒否。というもの。

 着替えをして、リビングに戻ったご主人に、藤田さんが続きを話しかけます。


「でもね、今はまだ大丈夫でも、今後歳を取って行けば、いずれは介護とか必要になるでしょ? その時のことも、考えておかないとね」


 すると、それまで普通にしていたご主人は、突然声を荒げ、食って掛かるように藤田さんに言いました。


「そんなこと、今考える必要ないだろ! だいたい、おまえなんか、うちの親と同居なんて、絶対無理だから!」

「そうかもね~。でも、お義母さんの意志で、そうおっしゃってくださってるんだから、こっちも甘えてばかりじゃなく、感謝や恩返ししたいよね」

「だから、何で今、親の話するんだよ!? 関係ないだろ!?」

「え~? だって、そういう書類を見てた流れでしょ? あなたこそ、何をそんなにムキになってるの?」


 その言葉に、図星といった表情で、顔を真っ赤にしたご主人。妻の指摘に、ようやく自分でもそのことを自覚したようで、バツが悪そうに、


「ちょっと散歩に行ってくる!」


 とだけ言って、家を出て行きました。



     **********



 翌日、その画像を拝見して、あることを確信した私は、藤田さんに尋ねました。


「お話では、お義母さんのほうから同居を拒否してるようだけど、それは事実?」

「私は、旦那から間接的に聞いてるだけで、特に話し合いをしたことはないんだよね」

「自宅新築の時に、何か言われなかった?」

「うん。口も出さないけど、お金も出さないって感じで、うちの親からは援助をして貰ったけど、残りは旦那がローンを組んだのね。それでチャラってことで、以後この件に関しては、一切触れちゃいけない空気になってるの」

「なるほどね」

「何か分かった?」


 一つの可能性として、同居を拒否しているのは、義母ではなく、ご主人かも知れないということ。

 以前、義妹との接触を拒んでいるように感じると言っていましたが、様々なシチュエーションで、義両親との接触も拒んでいる感が、強く感じられました。むしろ、妻である藤田さんに対し、両親と距離を置くように仕向けている、といいますか。

 ご主人が見ていた架空の資料の中には、色々なパターンの家族構成と、同居しない理由のケースを作っておいたのですが、ご主人を引き付けたのは、実家の家族構成と同じものでした。

 そして、同様の家族構成がいくつもあった中で、短時間の間に何度も閲覧していたページは、両親が長男と同居希望、長男が同居拒否、長女の同居希望に対し両親が拒否、という状況。


「普通、自分の親の心配をされれば、嬉しいものだよね。でも、ムキなるくらいキレてるわけだから、相当接触するのが嫌なんだと思う」

「それって、つまり?」

「閲覧履歴から考えても、おそらく同居を拒否してるのは、ご主人のほうだと思う。むしろ、義両親は同居を希望してるから、それを知られないために、藤田さんと、あちらの家族を接触させたくないのかも」


 やはり、藤田さんには思い当たる節があるようで、夫婦で義実家へ行った際、彼女と義家族だけになるシチュエーションを絶対に作らないためなのか、滞在時間が毎回数十分と、異常に短いのです。

 ご主人に支配されていた状態では、それがおかしいと感じる余裕はなく、自宅の外では別人のように穏やかな人格になるので、個人的には、もう少し長居したいという希望があっても、帰宅すると言うご主人に逆らうことは出来ませんでした。

 しかし、このところの藤田さんの変化に戸惑い、危機感を感じ始めたご主人。こうして探りを入れて来たことからも、本人的に、かなり焦りが生じていると想像が出来ます。

 すると、百合原さんが大きく頷き、


「そろそろ、動き出すかも知れないわね」


 その言葉に、私たちも頷きました。一通りの準備は整っていましたので、後はご主人からのアクションを待つことになります。

 藤田さん本人は勿論、かつてモラハラ男に大切な友人を死に追いやられた百合原さん、おそらく意識して対峙することは初めてとなるだろう他のメンバーたち、そして、実の母親からの被害者である私。

 それぞれが、何度も頭の中でシミュレーションを繰り返しながら、その時に備えました。


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