第9章

文字数 9,322文字

 その週末の日曜日、話し合いの席を設けることになりました。

 藤田さん宅に集まったのは、ご主人を始め、入院中の藤田さんの代理として寿恵さんご夫婦、私たちメンバーからは代表で百合原さんと私、藤田さんから正式に依頼を受けた穂高弁護士、そして本人のたっての希望でひろみさんの7人です。

 妻の入院で警察から事情聴取を受け、妻の実家から離婚を付き付けられたご主人にとって、自分が予想もしなかった展開に、困惑が隠せない様子でした。

 自己愛性が強く、世間体を重視するご主人に、この現状を受け入れられるはずもなく、こうしてこの席に顔を出したのは、手始めに私たちを説得することが、自身の名誉の挽回と、現状を打破する足掛かりになると捉えたのでしょう。

 そして、ご主人から感じる不気味なオーラからは、目の前の全員を説得する自信がみなぎっているように感じられました。そう、彼も必死なのです。

 全員が揃い、緊張した空気が張り詰める中、皆の了解を得て、最初に口を開いたのは、ひろみさんでした。


「あのね、お兄ちゃん、落ち着いて聞いてほしいの」

「何だよ、あらたまって? 皆さんをお待たせして、失礼だろ、早く言えよ?」

「お母さん、認知症なんだって。それももう、随分進行してるらしいの」


 その言葉に、これ以上ないほど目を見開いて、妹の顔を見詰めるご主人。

『母の認知症』という予期せぬ現実に、何か言おうとしても言葉にならず、崩れ落ちるようにして床に座り込んだまま、これ以上ないほどショックを受けている兄に、ひろみさんはそっと手を差し出し、椅子に座らせました。

 藤田さんの転落事故について、警察署で話を聞かれていた義母でしたが、どうも言動がおかしいことに気づいた担当の警官によって、病院に移送され検査したところ、アルツハイマー型の認知症であるとの診断を受けたのだそうです。

 すでに、日常生活では色々な症状が出ていたはずですが、『誰かのお世話をしたい』という本人の強烈な願望だけが、あたかも正常であるかのように彼女を動かしていたと考えられました。

 おそらく、藤田さんを階段から突き飛ばしたことも、本人にその認識があったかすらよく分からず、時々に応じて、会話が成立したり、しなかったりというのが、現在の状態とのことでした。


「それで、今、お母様は?」

「この機会に、他の病気がないかを検査するために、入院させています。でも、何もなければ退院して、自宅での介護になると思います」


 百合原さんの問いに、力なく答えたひろみさん。アルツハイマー型に限らず、認知症の介護は大変なものです。

 特に、藤田さんの義母のように徘徊の症状がある場合、事故防止のために、それを家族が監視しなければならず、介護する側の肉体的、時間的、精神的負担は、ときとして事件に発展するほど、過酷になることもあるのですから。


「それとね、もう一つ、お兄ちゃんに聞いて貰いたいことがあるの。お母さんがあんなふうになった原因、って言えばいいのかな?」

「え…?」

「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは再婚で、お祖父ちゃんは3回結婚してたって知ってた?」

「いや、全然知らなかった…」

「私も、初耳だったよ。ちょっとややこしいんだけど、お母さんは、お祖父ちゃんの最初の奥さんの子供で、私たちが知ってるお祖母ちゃんは、三番目の奥さんなの。お母さんの姉弟にはもうひとり、二番目の奥さんの連れ子で、お母さんとは血が繋がらない『お姉さん』がいたそうなの」



     **********



 義母の名前は『和子』ちゃん。

 和子ちゃんの両親が再婚したのは、彼女がまだ7歳の時のこと。母親と死別後、父親と再婚した継母には、一つ年上の連れ子『紀子』ちゃんがいました。色白で、パッチリとした瞳の、お人形のように可愛らしい女の子です。

 その後、再婚した両親の間には、続けて弟妹が誕生し、周囲からは、一見とても仲の良い幸せな家族に映っていましたが、ひとりだけ継母とは血の繋がらない和子ちゃんは、陰で陰湿ないじめを受けていたのです。

 それでも、継姉の紀子ちゃんとは、年齢が近いこともあって、本当の姉妹のように仲が良く、和子ちゃんの食事だけが粗末なものだと、紀子ちゃんは自分のものを分け与える優しい性格で、彼女の存在は心のよりどころでした。

 ところが、紀子ちゃんが11歳のとき、突然の病に襲われます。病名は『結核』、当時は『国民病』『亡国病』と恐れられ、有効と言われる薬は、一般市民に手の届く価格ではなく、大半の患者は自宅で療養するしかありませんでした。

 結核が伝染病ということもあり、ご近所への世間体や、体力のない幼い弟妹への感染を防ぐため、紀子ちゃんは庭の物置小屋に設えられた寝床に隔離され、和子ちゃんは学校へ行くことすらせず、その閉ざされた小屋の中で、一日中看病を続けていました。

 そんな和子ちゃんに向かって、継母が放った言葉は、


「おまえが病気になればよかったのに!」


 当時『不治の病』といわれた愛娘の発病に、母親として辛い気持ちは分かりますが、いくら血の繋がらない継娘とはいえ、あまりにも酷い言葉です。

 それでも、継母からのいじめなどどこ吹く風、和子ちゃんは、誠心誠意紀子ちゃんのお世話に邁進。少しでも紀子ちゃんが快復することが、和子ちゃんにとって、一番の願いでした。

 病床の中、力ない声で、それでも精一杯の謝意を伝える紀子ちゃん。この先、自分の命さえ分からない不安な状況で、いつも側にいてくれる継妹の存在は、心のよりどころであり、いつしか二人の間には、血の繋がりを超えた強い絆が育まれていたのです。

 当時の住宅事情といえば、柱と壁のみで、プライバシーなどほぼ皆無といって良い構造、家の中の会話など、ほぼ外に筒抜けでした。

 それまでも、継母の和子ちゃんに対するいじめは、周知の事実でしたが、献身的に介護する彼女に対して、なおエスカレートする継母の言動を、周囲の人々は眉をひそめながらも、しっかり見ていました。


 やがて、発症からおよそ1年半、和子ちゃんの献身的な介護と願いも虚しく、あと少しで13歳という若さで、紀子ちゃんは帰らぬ人となりました。


 誰よりも辛かったのは、和子ちゃん。一緒にいた時間は、ふたりにとってかけがえのない絆であり、紀子ちゃんがいたから、継母の仕打ちにも堪えられたといっても過言ではなく、紀子ちゃんの役に立てることは、和子ちゃんの何よりの喜びとなっていたのです。

 親戚やご近所の方々が集まったお通夜の席でのこと。親族席に座り、お焼香の方々にお辞儀をしてご挨拶する和子ちゃんに、継母はいきなりその腕を引っ張って、廊下へ連れ出し、


「紀子が死んだのは、おまえのせいだ! おまえが死ねばよかったのに!」


 そう言って、あろうことか、和子ちゃんに対し、その場で殴る蹴るの暴行を始めたのです。

 それに対し、一切の抵抗をせず、されるがままに堪えていた和子ちゃん。その様子に気づいた列席者たちが慌てて止めに入り、継母に対して激しく叱責しました。

 いくら継娘が可愛くないからといって、言って良いことと悪いことがある、まして、彼女がどれだけ実娘のために尽くしていたか、母親なら御礼の一言でもあって然るべきところ、それでも人の親か、人間か、と。

 辛さを逃れるためなのか、お酒を飲んでいた継母は、その場にいた大人たちによって、表へ連れ出されて行きました。そんな実母の姿を、紀子ちゃんがどんな気持ちで見ていたかと思うと、いたたまれなくなります。

 冷たくなって、棺の中で眠る継姉、紀子ちゃんの頬を撫でながら、ぽつりとつぶやいた和子ちゃん。


「ごめんね、紀子ちゃん。お継母さんの言う通り、私が死ねばよかったね」


 その言葉に、大人たちは彼女を抱きしめました。そして、どれほど彼女が頑張っていたのか、みんな知っているからと、労い、慰め、賞賛したのです。

 物心ついた時には、愛情で包んでくれる母親はすでに他界しており、父親の後添いとなった継母からはいじめ抜かれ、そんな風に褒められたことなどなかった和子ちゃんにとって、その言葉は、生まれて初めて感じる喜びで満たしてくれました。

 しかし、葬儀が終わってしばらくすると、何もなかったように、またいつもの生活に戻り、和子ちゃんの心には、ぽっかりと穴が開いたように、虚無感に襲われていました。

 ところが、不幸は続き、ある朝、突然倒れた継母。娘を失った悲しさから、過度なお酒の摂取で脳の血管が切れたらしく、そのまま寝たきりの状態に陥ったのです。

 散々、和子ちゃんをいじめていた継母でしたが、その介護を買って出たのは、和子ちゃん自身でした。これまでも、紀子ちゃんの看護で、長い間学校へ行っておらず、復学する気持ちも萎えていた彼女にとって、それは自然な流れでした。

 ですが、あれだけ酷いことをされた相手を、献身的に介護する彼女の姿に、周囲が黙っているはずもなく、誰かに会えば称賛の嵐。当の継母までが、彼女に懺悔し、感謝する日々。それは、彼女にとってまさに至福の時でした。

 一年間、継母を介護した後、彼女も他界。間もなくして、父は3回目の結婚をし、すぐに子供が生まれました。前妻(継母)が残した幼い子供たちや、新たな継母が産んだばかりの赤ん坊のお世話にお手伝いにと、和子ちゃんは忙しい毎日に充実していました。

 彼女には、看護師のような職業が適性だと思われましたが、件の理由から学校へ通っていなかったことや、本人に復学の意欲がなかったため、そうした資格を取得することが出来ず、ヘルパーさん的な形で、ご近所で介護を必要としているお宅のお手伝いをする日々。

 報酬は、僅かばかりの御礼と、相手からの感謝。ですが、その丁寧な仕事ぶりは評判が良く、ベビーシッターから老病介護まで、ひっきりなしに依頼があり、誰もが『あれは良い嫁、良い母親になる』と噂していました。



 そんな彼女でしたが、なかなか縁談に恵まれず、知り合いの伝手でお見合いをし、ようやく結婚したのは20代後半、当時としては晩婚でした。

 結婚後は二男一女を儲けたのですが、末っ子の次男は、生まれた時から身体が弱く、生後間もなく入院を余儀なくされました。上ふたりの幼い子供たちを抱え、生まれたばかりの次男の看護は大変で、それでも泣き言一つ漏らさずに頑張る彼女を、周囲は賞賛したのです。

 不意に、和子ちゃんの中に、忘れかけていたあの快感が蘇ったのでしょう。看護をしている間は、多くの人たちから賞賛や感謝を受けるのに、それがなくなると、まるで見向きもされなくなることを、経験から学んでいた彼女。

 いけないと思いつつ、退院した次男をもう一度入院させるために、『一度だけ』と薬を飲ませ、再びその快楽を享受したことで、『もう一度だけ』『あともう一度だけ』と、まるで麻薬のように制御出来なくなくなり、常態化していったのです。

 やがてそれは、次男に対して取り返しのつかない結果を招くことになるのですが、すでにコントロール不能になっていた彼女は、悪魔の触手を長男や長女、さらには年老いた祖母や両親たちにまで伸ばして行きました。

 そして、その歪んだ愛情の一番の被害者であり、理解者でもあったのが、藤田さんのご主人でした。


「あなたは、故意にお母さんに骨折させられたんですよね? 弟妹が飲まされていた薬のことを誰かに言えば、お母さんは警察に捕まるかもしれない。でも、このままだと、妹もどうなるかわからない。二人とも守るために、あえてお母さんの気持ちを自分に向けることで、分散しようとした」

「お兄ちゃん…?」

「俺は…」

「虐待を受けてる子供なら、それくらいの年齢になれば、分かるもの。私もそうだったから」


 ぽろぽろと涙を零しながら、兄にしがみ付くひろみさんの背中をそっと撫でると、ご主人の瞳からも、涙が溢れました。


「ずっと一人で抱え込んで、誰にも話せずに、辛かったよね。もう大丈夫だから、みんな、あなたは何も悪くないって、分かってるから。だからもう、重い荷物を下ろそう」

「ごめんね、お兄ちゃん。私、何も知らなくて。これからは、私がお兄ちゃんの力になるから…」


 私とひろみさんで、そっと耳元でそう囁くと、ご主人は深く深く息を吐き出し、目を閉じたまま、囁くような声で言いました。


「すみません、今は頭が混乱していて、どう話して良いのか…。皆さんにも、大変ご迷惑を掛けてしまって…、それに…」

「無理しないでください」

「いえ、大丈夫です。それに、一番迷惑を掛けたのは、幸恵ですよね…」


 予想だにしていなかった彼のその言葉に、驚きと疑いの表情で固まる、寿恵さん夫妻と穂高弁護士。まだ彼が何か企んでいるのかも知れないという疑惑を拭えないでいました。

 でも、私と百合原さんには、彼のその反応がこれまでのような偽りからくるものではないという、確かな手応えを感じていたのです。

 この数日間、一人で自宅にいる間に、ご主人には藤田さんが撮り溜めた、ご主人自身のモラハラの様子を撮影したビデオを見てもらっていました。

 おそらく、それを見たところで自分の何が悪いのか理解出来るはずもなく、むしろその性格から考えても、自分の正当性を主張する文言ばかりを、山のように用意していたはずです。

 ところが、母親が幼少期に体験した出来事や、現在置かれている『認知症』という現実は想定をはるかに超えた事実通告だっただけに、彼の鉄壁の心の擁壁は、内側から亀裂を生じさせたのです。

 誰にも心開かず、その対人関係のほとんどを、自分に都合の良い嘘や偽りで固めてきたのも、すべては苛烈な虐待によって構築された『加害者』と『被害者』という母親との関係性によって生じたトラウマから、自分の心を守るため。

 傷つくことを恐れるあまり、現実から目を背けてきたことで、心はナイーブなまま強くなることが出来ず、それを守るためには頑丈な鎧が必要でした。

 ですが、いくら外壁が強固であっても、一旦それが内側から崩壊した後は脆いもの。剥き出しになり、鷲掴みにされた彼の心は、もはや抵抗する術を失っていました。

 もし、彼が心の擁壁ではなく、心自体を強くしていれば、こんなふうにはならなかったはず。結果、表面的な関係性しか築けなかったことで、彼が人生で失ったものの代償は、決して小さくはないのです。

 今彼の心の状態を表現するなら、どうやっても自分の要求が受け入れられず、その現実が揺るがないことを知ったときの幼い子供の気持ちと似ているかも知れません。


「寿恵さんのほうからあれば、どうぞ」

「え? でも…」


 百合原さんに促され、寿恵さんは、まだ義兄を信用する気持ちには至らないまでも、『大丈夫だから』という言葉に頷き、話しはじめました。


「すでに、姉の意思はお伝えしてある通り、離婚という方向で固まっています」

「そう、ですよね…」

「今日、こちらに伺ったのは、もしお義兄さんから何か言いたいことがあるなら、訊いてきてほしいと、姉から頼まれたものですから」


 すると、ご主人は少しの沈黙の後、小さく首を横に振りました。


「正直、色んな言い訳を考えていました。出来れば今まで通りに戻れるよう、ここにいる全員を、言葉は悪いですけど懐柔するつもりでいましたし、その自信もありました。でも、もう自分でもよく分からなくなって…」

「それは、奥さんの意思を受け入れる方向と考えて宜しいですか?」


 穂高弁護士の言葉に、再び少しの沈黙を交え、虚空を見つめながら、


「自分が拒否したところで、多分そうなるだろうと思っています。でも、少しだけ時間を貰えませんか? ちゃんと自分を納得させたいんです」

「それは構いませんが」

「ありがとうございます」

「では、以後の連絡等は、奥さんや奥さんのご実家ではなく、私のほうへお願いします」

「それと、私から、もう一ついいですか?」


 そう言うと、寿恵さんは義兄をじっと見つめて、言いました。


「結婚して、別々の家庭になっても、私にとって姉は、幼い頃からずっと大切な家族です。お義兄さんや、お義母さんが、どんなに辛い思いをされたか、私には想像することしか出来ません」

「はい…」

「だから、軽々しいことを、と思われるかも知れませんが、家族の絆を取り戻して欲しいなって思うんです。今ならまだ、間に合うことを願って」

「私も、そう思います」


 そう言ったのは、ひろみさんでした。彼女は寿恵さんに深々とお辞儀をして、兄に向かって、大きく頷きました。



 虐待の加害者と被害者である親子の確執が、そう簡単に解消できるものではないことは確かですし、家族としての絆を取り戻すことで、必ずしも関係が改善されるとは限らず、むしろ逆効果になるリスクも多々あります。

 というのも、毒親の多くは自分が加害者の立場であることが理解出来ず、上辺だけの反省や謝罪によって、子供の『許せない』という気持ちに罪悪感を与えることで、自分の支配下から抜け出せないよう拘束しようとする傾向があるからです。

 もともと歪なパワーバランスで成り立っているのですから、先ずは加害者側がそれをしっかりと認識した上で、自らの強い意志で自分自身を変えようとしない限り、良好な関係を再構築出来る可能性は限りなく低いのも事実。

 被害者側からすれば、そもそもの信頼関係が構築されていないうえに、肉体的、精神的暴力によるトラウマを抱えた状態で無理に受け入れようとすれば、心が崩壊する危険性もあるため、その場合は『逃げる』という選択が、最も正解に近い手段となり得るのです。

 が、そうではなく、もし真正面から加害者である親と対峙して、その支配下から解放されたいと願うのであれば、それが出来るのは、お互いにその認識や記憶がある間だけに限られてしまいます。

 認知症を発症している今の母親に、どこまで彼の気持ちが通じるのかは分かりませんが、もし後者を選択するのであれば、残された時間が少ないことも事実。ならばせめて、その後悔だけはせずに済むことを、そこにいた誰もが願ってやみませんでした。



     **********



 話し合いを終え、兄妹はその足で和子さんの入院している病院へ向かうことになりました。私たちも帰宅の準備をしていたところ、ひろみさんからの強い希望で、私と百合原さんも同行することになりました。

 到着した病室の中から聞こえてきたのは、和子さんの大きな声。驚いて覗き込むと、数人の医師と看護師で暴れている彼女を必死で押さえながら、何かを説得しているようでした。

 どうやら意識が混濁しているらしく、自分が看護している誰かのところへ戻ると言って聞かない様子です。慌てて飛んで行き、一緒になって母親を押さえ付け、説得に加わるひろみさん。


「お母さん、しっかりして! もう、誰も看護なんてしてないでしょ!?」

「ね、藤田さん、とにかく落ち着いて、一度横になりましょう」

「何言ってんの! 待ってるんだから! 私が行かなきゃ!」


 何人もの人の腕を、今にも振り解きそうな勢いで、看護への執着心を露わにする彼女には、鬼気迫るものがありました。が、そっとひろみさんの肩を叩き、小さく頷いて、暴れている彼女に向かい、


「そうだよ、和子ちゃん。早く戻ってあげないとね」


 そう言った私の言葉に、その場にいた全員が驚いて振り返ったと同時に、それまで手に負えなかった彼女の動きが止まりました。

 そして、嬉しそうに私だけを見つめ、誇らしげな顔で笑って見せました。


「和子ちゃんのこと、すごく感謝してたよ。だから、また看病して欲しいって」

「うふ、うふふふ…」

「すみません、お騒がせしました。もう、大丈夫ですから」


 ひろみさんは、手伝ってくれていた医師や看護師に謝罪し、その言葉に、押さえていた手を、ひとりひとりゆっくりと離して行く間も、彼女が暴れることはなく、嬉しそうに私の言葉に聞き入っていました。


「でも、ずっと看病し続けで、寝てないよね? 和子ちゃんが倒れたら元も子もないんだから、少しだけ横になって休みましょ、ね?」

「うん、分かった。でも、どうして私が寝てないこと、知っているの?」

「だって、そう言ってたから」

「誰が?」

「の…」

「紀子ちゃんだよ」


 私の言葉に被せるようにそう言ったのは、藤田さんのご主人…もとい、長男の克明さんでした。

 和子さんは、満面の笑みを浮かべると、そこにいた全員の顔を一人一人見つめ、満足したように自分から横になり、すやすやと眠り始めました。

 その様子を見て、医師たちは簡単に容態をチェックし、異常がないことを確認すると元の持ち場に戻って行き、病室には眠っている和子さんと、私たち四人が残されました。

 ふと見ると、立ち尽くしたまま、じっと母親の顔を見つめている克明さんの姿。瞳には、涙をいっぱい溜めていました。


「あなたなら、分かりますよね? 相手がどんな言葉を望んでいるか。そして、行動をコントロールする術も」

「・・・」

「確執を忘れろとは言いません。私も、あなたと同類だから、それがどんなものかは、理解しているつもりですから」

「そう…ですね…」

「彼女には、もう何も出来ません。でも、あなたには、彼女を喜ばせることも、苦しめることも可能です。勿論、お母さんだけじゃない」

「はい…」

「人と関わるということを、逃げずに考えてみてください。自分の持ってる恐怖や執着が何なのか、そうする意味や、そうしてしまう衝動や」

「きついですよね…」

「ええ、きついですね。まともに他人のストレスを受け止めていたら、こちらが潰れてしまいます。でも、それをプラスに変換する力も、あなたにはあるはずですから」


 かつて、私が母から逃避するために、心の中に生み出したもう一人の自分。それによって、同時に生み出されたのが、心の中に君臨し支配し続ける親の虚像『インナーペアレント』でした。

 同様に、克明さんの中にも存在するであろう彼のインナーペアレントと、彼がどう向き合って行くのかは彼次第ですが、現実に目の前にいるのは、加齢と認知症ですっかり衰えてしまった姿の母親です。

 力で捻じ伏せることは容易でも、そうしたところで、自分の中の虚像が君臨し続ける限り、永久にその呪縛から解き放たれることはありません。


「聞いて良いですか? あなたは、どうやってそれを?」

「私もまだ、道半ばですから。それが出来たら、是非教えて頂きたいですね」

「そうですか…、そうですね。わかりました」

「お互いに、頑張りましょう」


 そう言って、お辞儀をし、私たちは病室を後にしました。



 エントランスに続く廊下を並行して歩く百合原さんは、横顔で小さく微笑み、私に言葉を掛けました。


「ミッション終了。ご苦労さまでした」


 声には出さず、私も小さく微笑みながら頷いた瞬間、それまで全身に走っていた鳥肌が、波が引くように消えて行きました。

 同時に、瞳から無意識に溢れ出した涙を、無言でハンカチで拭ってくれた後は一言も発しないまま、涙が止まるまでの間、ずっと横に寄り添ってくれていたのでした。


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