第1話

文字数 3,414文字

 皆月潤一郎(みなづきじゅんいちろう)宛に雲雀群童(ひばりぐんどう)から電話があったのは三月も終わりの夜のことだった。吉祥寺の桜の散る住宅街を抜けて、馴染みの屋敷は薄暗い街灯の光でさえも眩しくしかし哀しく目に染みている。

「こんばんは、皆月です」

 骨張った手のひらが無造作に伸ばされた長い黒髪をかきあげた。彼がこの屋敷に来たのは三ヶ月ぶりのことだった。かつて潤一郎はここで雲雀と暮らしていたこともあるが、画家としてある程度稼げるようになったいまでは生まれ育った鎌倉に戻り一人ささやかに過ごしている。
 正面玄関で応対した家政婦に土産を渡し、リビングまでの廊下には潤一郎が先日雲雀に頼まれて描いた桜の絵が飾ってある。報酬は高額で生活的には助かったがまだ細かいあらが見えて、機会があれば描き直したいと潤一郎は常々思っていた。

「やあ、久しぶりだね。水無月静潤(みなづきせいじゅん)先生」
「その呼び方はやめてください。潤一郎ですよ」
「いい名前じゃないか。もう、せっかくボクがつけてあげたのに」

 リビングのソファでは雲雀が一人、大きな赤いソファに腰掛けて外国の煙草に火をつけた。その煙に思わず潤一郎は咳き込んだ。

「ゴホッ! ケホンッ……」
「ああ、そうだったね。君は呼吸器が弱いんだっけ、煙草は消すよ。向かいのソファに座りなさい」
「……ゲホッ、ケホ……すみません……」

 独特の香りが広い吹き抜けのリビングに漂った。雲雀は真っ赤でウエーブをかけた長い髪と派手なスーツ。男だというのに派手なメイクを施して、高級なブランデーを嗜んでいる。潤一郎が酒に弱いからと、家政婦にはオレンジジュースを持ってくるように命じた。

「雲雀先生、俺はそこまで子供じゃないです」
「その大きな図体にオレンジジュースなんて、可愛らしいじゃあないか! ハハッ!」

 旧式のレコードプレーヤーからはジャズ音楽がかかっていて、今日の雲雀はご機嫌だということがわかる。この家で共に暮らしていた頃、機嫌の悪い夜はクラシック音楽と決まっていた。機嫌の悪い雲雀は扱いづらく、その日の潤一郎に良い思い出はない。 
 雲雀群童と言えば画家、音楽家、パフォーマーであり……いわゆるエキセントリックな芸術家として世間に知られていた。派手な容姿に年齢すら不詳な彼は何を考えているのかもわからない。
 家政婦が潤一郎の前に高級なグラスに入れたオレンジジュースを置いてリビングから出てゆく。二人きりのリビングで、雲雀は笑顔で彼を見る。何かある、こんな表情をした雲雀はいつも決まって何かと面倒なことを言い出すのだ。

「今日はなんですか、雲雀先生」
「頼みごとがあってね?」
「ああ……」

 ほらやっぱり、ため息をついて下を向いた潤一郎を雲雀は声を立てて笑う。

「そんな嫌がることはないだろう、面白いことを思いついたんだ」
「何が面白いんですか……」
「なんだと思う? おい、いと! 出てこないか」
「いと?」

 誰かを呼ぶ雲雀、いと、だなんて愛玩動物の類だろうか。しばらく無言が続く中、静かに二階の客間の扉が開く。螺旋階段をゆっくりと降りてくるロングドレスの女性。肩まで切りそろえられた髪に花をあしらったアクセサリーが似合っていて、化粧気はないものの素顔でも彼女は十分に美しい。

「紹介しよう、いと。こちらは水無月静潤先生。君もよく知っているだろう? 画集を飽きることなく見ていたね」
「……初めまして」

 その声で潤一郎は気がついた。目の前にいるのは彼女ではない、彼であると。

「遠藤いとです、どうぞお見知り置きを」
「あ、ああ……」

 全く雲雀は何を考えているのか。見る限り十代半ばの少年にこんな女装をさせて。

「拾ったんだよ、新宿でね。あれは新年会のあった夜だった、ここ三ヶ月、君が来ない間にいいものを見つけてしまったのだよ。もう、君もさっさと遊びに来れば良かったのに」
「それは仕事が忙しくて……いや、この子はどこの子なんですか。この家に置いている場合じゃなく早々に自宅に帰すべきでしょう」
「自宅はないって」
「ない……?」

 いとは俯いて何も語らなかった。調子に乗った雲雀はケラケラと笑い、ブランデーを一気に飲み干す。

「連れて帰ると良い、潤一郎」
「え……」
「君の描いたいとが見たい」

 いとはやはり何も言う様子はない、連れて帰るも何もこれは最悪誘拐事件にも相当する。自宅がないのならせめて然るべきところに、しかし潤一郎の視線を感じたいとは静かに眉を寄せて顔を上げた。

「水無月先生、どうかお側に」
「は、何を……」
「モデルでも下働きでも構いません。どうか私を使ってください」

 ***

「近々遊びに行くよ! それまでに数枚ラフでも描いて見ると良い。いとは良いモデルになるだろう」

 手を振って見送る雲雀、ハイヤーの中で荷物はトランク一つ。フリルのシャツに着替えたいとと困った顔した潤一郎は自宅のある鎌倉へ向かう。また雲雀はいつもとんでもないことを……しかし今度は誘拐だなんて。このままでは潤一郎まで警察に捕まってもおかしくない。後部座席の隣ではいとが夜景をじっと見ている。

「ああ……雲雀先生の言うことは気にしないで良い。自宅か親しい人の元へ帰りなさい。このまま車を使って良いから、きっとご両親や親族の方も心配しているだろう」

 潤一郎の言葉に静かにいとは顔を向けて首を振るった。悲しげな表情はどこか孤独の背景が浮かんでくる。

「本当に帰るところはないのです。あの日新宿にいたのもただ夜を明かす場所を探していて……東京は恐ろしいところですね。お願いします、どうか私を先生のお家に置いてください」

 こうして潤一郎もいとの震える声に深々と頭を下げられてはもう連れて帰るしかない。仕方がないと覚悟を決めて、車は静かに鎌倉の自宅へと向かった。

 ***

 築半世紀は経った木造家屋平屋建て。駅から離れ人数の少ない街の外れに、皆月潤一郎は一人で暮らしている。造りが古く雨漏りや軋む廊下に困る時もあるものの、圧倒的に静かな環境で創作活動できると潤一郎は気に入っていた。建て付けの悪い引き戸を開けてようやく帰宅したのはもう午前一時も過ぎた頃だ。いとはものめずらしそうに辺りを見渡している。ヒビの入った砂壁は流石に雲雀の屋敷にはなかったか。

「物置がわりに使っていた部屋があって、少しカビ臭いかもしれないけれど……」
「私にお部屋を貸してくださるのですか?」
「古いからね。雲雀先生のお屋敷とは比べてはいけないよ」
「いいえ、そんな……」

 小さな庭の見える縁側を通って潤一郎の部屋の隣、いくつかの穴の空いた障子の目立つ暗い部屋の明かりを点ける。本棚とそこに入りきらない資料の積み重なった六畳ほどのその部屋だった。

「資料は廊下に出してしまって構わない。客用の布団を持って来よう、荷物は好きなところに置いて」

 トランクを置いたいとは興味深そうに大きな本棚を眺めている。自作の画集や絵を描くための資料、主に風景写真や芸術文化について。潤一郎の描く絵は人物画よりも風景画が多かったため資料はすぐに溢れてしまう。そんな中、雲雀は潤一郎の描く人物画にこだわった。自分で描いたほうが好き勝手出来て楽しいのではないのだろうか、雲雀の方が潤一郎よりも圧倒的に才能も画力においても勝っていると言うのだから。
 潤一郎の部屋の押入れから使っていない布団を持って来れば、いとが一冊の画集を夢中になってめくっていた。

「そんな画集、楽しいかい?」
「え、あっ……失礼しました、勝手に」
「いや、そう言う意味じゃなくて」

 それは初めて潤一郎の出した画集だ。新人のものとしては部数は出たが、大ヒットとまではいかなかった。過去の作品は納得の行くものがない、けれどこうして形になってしまえば嫌でも何かとそれを目にすることになってしまう。

「この画集、雲雀先生のもとで見せていただきました……好きなんです、先生の描く絵が」
「古い絵だよ、画力も劣る」
「そんな、素敵ですよ。私は好きです」

 その時初めていとは笑った。美しい陶器のような肌に大きな目が細く瞬き、長いまつげが揺れている。自分の絵を見てこうして表情をかえるものを間近で見たとき、潤一郎の心の何かが震えた。いとのそれは雲雀のような悪ふざけではなく……。

「先生?」
「いや、なんでもない……その……」

 潤一郎がどうしても言えなかった言葉、ありがとう。
 そして三人の運命は動き始めた。
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