第10話

文字数 1,532文字

 あまりにも伸び行くその才能が恐ろしかったと彼は言う。
 時代にとり残されて行く恐怖はいつだってあった。
 いつだって最先端にいなければ忘れられることは容易いと、しかしそれでも彼は、『雲雀群童』は『雲雀群童』であり続けたかった。

 ***

 利き手を使わないで生活をすることは意外と不便なものだと潤一郎は実感している。箸すら思うように使えなくて、それを見かねたいとが手助けをしようとするも、潤一郎は断った。

「慣れておかないと不便なままだからね」
「先生……」

 雲雀の去った静かな家、荷物はそのままだったが多分もう取りに来ることはないだろう。水無月静潤の身に起きた不幸はすぐにメディアに知れ渡ることとなる。加害者となった雲雀群童の動機は本人にしかわからない。雲雀はひと言『怖い』と言って、あとは沈黙を守り続けている。
 きつく包帯で巻かれた潤一郎の左腕は、感覚すらなくもう絵筆は握ることは叶わなかった。右手で鉛筆を持ってはみたものの、思うような描線は描けない。そんな潤一郎の背中を見て、いとはただ涙する。こうして水無月静潤は皆月潤一郎に戻っていった。

「いと、君はこれからどうする? 俺の元にいても手間をかけるしお金も困る。俺は君に幸せになって欲しいんだ。まだ二十歳にもなっていないんだから、これからの人生は君自身のものだよ」
「わ、私は先生と一緒にいたいんです」
「残念ながらもう俺は先生ではないんだ。知識はあれど、描くことは出来ない。なに、自分のことは自分でするよ。俺の世話で君の一生を終えさせるつもりはない。お金なら少しあるから、これで君が新たな人生を送る初期費用にしなさい」
「先生……」

 いとは声を震わせて泣きながら潤一郎の背中に抱きついた。いとのすすり泣く声が家中に広がる。本当に泣きたいのは潤一郎の方だったが、潤一郎の分までいとが泣いてしまうから泣けやしないと彼は笑う。時は静かに過ぎて行った、心の中に穴は空きっぱな
し、悲しみはいつだってそこにあった。

 ***

 深夜、眠れない潤一郎は縁側に出て月を見る。かつて雲雀と夜空を見ながら過ごした日々が懐かしい。芸術家、雲雀群童……彼も人間だったのだと今更実感してももう遅い。芸術を極める中での彼の苦しみ、もう少し早く気付いてやればよかったと潤一郎は後悔をしている。どんな結果になったとしても、皆月潤一郎は雲雀群童に助けられた人生だったのだから。

「雲雀先生、あなたは幸せでしたか?」

 静かな夜に、思い出しても悲しみは絶えない。雲雀は潤一郎を失い、いとは水無月静潤を失い、潤一郎は全てを失った。右手でドアを開けたのはあの日以来入っていないアトリエだ。そこには未だ未完成なままのいとを描いたキャンバスが。薄明かりの中で見たいとの顔は血の涙を流しているようだった。それは全てを失った潤一郎を嘆くかのように。

「……君を失いたかったわけじゃない。怖かっただけだ、君が僕から離れることが」

 どこからか低く掠れた声が聞こえる。潤一郎の背後に影が差す。潤一郎は少し笑い、あえて振り向くことはしなかった。

「俺が雲雀先生から離れるわけがないじゃないですか、いまだってここにいるのもあなたがいたからなのに。俺に元から才能なんかありません、先生は幽霊でも見たのでしょう」

 彼はそっと指で触れて潤一郎の背中にすがる、泣いているのかもしれない。全くらしくない、……もしくはこれが本当の彼だ。

「戻ってきてください、この家は静かだから。いとだけじゃなく俺だって雲雀先生がいないと寂しいんですよ」
「潤一郎……」

 影は揺るがない。雲雀群童、幽霊になってしまったのは彼の方なのか。月明かりに潤一郎はその名を呼び、ゆっくりと後ろを振り向いた。

「おかえりなさい、雲雀先生」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み