二日目 その1

文字数 6,244文字

朝五時。
目が覚めた。こんな時間に目が覚める事はないのだが、目が覚めた。
前日、散々フェリーで寝ていた所為だ。
この半日に限って言えば、ほぼ寝ていたのだから、十代の旺盛な睡眠力を行使しても瞼はもう下がりはしなかった。
ならば、もう寝る必要はない、と僕はジーンズにロングスリーブを引っ掛け、外へ出た。
空を見上げる。青くなりそうだ。
路面も濡れていない。天気を気にする、なんてジジ臭い。
散歩なんて趣味は持ち合わせてはいなかったが、旅の空だ。
いつもと違う事をして何が悪い。前の通りの坂を下り、運河へ出た。観光雑誌で見た風景だ。
朝一番、誰もいない。朝靄は雰囲気を出してはいたが、石組みが続くだけ。
歴史的価値を解説する学術員でも居れば、違ったかもしれないが、僕の感性ではそれ以上は見出だせなかった。
当然、店はまだ開いていない。食べ歩きでも出来れば良かったのだが、それもままならない。
結局、辺りをぐるりと一周廻って、開いていたコンビニで朝食に、と北海道限定とシールの貼られていたパンとジュースを買い、部屋に戻った。
狭い部屋。朝飯を食らわば、する事はない。
単車旅に来たのだ。走らないでどうする。と自分自身に拍車をかけ、僕は街が起きる前に出発することにした。
午前六時。エンジンに火を入れる。
やはり爆音。前の通りを、始発バスが駅へと登ってゆく。
エンジンは途切れることもなく快調。
暖機も何も走り出しゃ暖まる。と後ろに載せたバッグが邪魔な為、横合いから蹴り込む様に単車に跨った僕は、放り出した左足を軸にターンを掛け、前の通りへ愛車を繰り出した。坂道を登る。暖機不足が心配になりローを長めにとったが、回転数が3300くらいの所で二速に上げ、アクセルをブンッと振り、すぐさま三速まで放り上げた。
そもそも400でも小振りな方の軽い車体だ。パワーフィルターを付けて性能を上げたエンジンは、坂道をヒラヒラと小気味良く駆け上がった。
前方に始発バス。重い尻を揺らし、坂を駅へと上がる。
バックミラーを覗き込んだあと、追い越し車線に躍り出て、アクセルを開け、バスを抜きにかかった。だが思いのほか加速がつかない。 
さしたる急坂でもあるまいに。
しょうがなく追い越し車線上で二速に落とし、馬力をかけ再度、アクセルをこじ開けた。
せり上がるように愛車は坂を駆け上がり、バスの腹の地元の専門学校の広告を横目に抜き去った。
そしてバスの前に出て車線を戻すと、駅前の信号に引っかかった。
交差する道の向こう、坂のドンつきには小樽駅。
自分の真後ろには始発バスが鼻息荒く追い付いた。
抜いた意味は無かった。この信号でバスの左脇を抜け、前に出ても同じ結果だった。
だが、坂道で車線をはみ出し、バスを抜く。これが良かった。
心地いい。結果は同じでも停まっているものを抜くのと、走っているものを抜くのでは段違いだ。
無駄、だが。
無駄、無理、無茶。単車乗りの三大要素だ。きっと四つ目も五つ目もある。
鉄道旅ではないので駅には用はない。
交差する道の頭上にかかる青標識によると、札幌へは左に曲がるようだ。
ウインターを出し、駅に向かう始発バスに知らせる。俺は駅には行かない。旅に向かうのだ、と。
信号が青になった。
単車を倒し、左の道へ。
バックミラーを見やった。バスはそのまま直進。駅へと入ってゆく。
日常と非日常。
思いを馳せてみた。きっとクラスメイトたちは今頃、いつものように自分の部屋で起きて、学校へ行く支度を始めている頃だろう。熱心な野球部や陸上部の者たちは、もうグランドを走り始めているかもしれない。
ジュンは寝ぼすけだから、まだ寝ているか…。
この旅に一番反対したのはジュンだった。手前勝手に夏休みを延長するのだから反対するのは当然なのだが、呆れる両親とは違い、彼女は涙ぐんでまで止めた。こういうのを愛されているというのか、とも思ったが実際のところ、よく分からない。
 彼女に悪いな、という感情もさして湧かず、ただ自分の趣くままに旅に出た。
自分の旅だ。誰に許可もいらない。
広い道に出た。
国道5号とある。二車線を持て余す疎らな車列に乗り、スピードを上げ、港街を置き去りにする。
さあ北海道の始まりだ。
雄大な自然。原野の中の一本道。
僕の頭の中に浮かんだ風景はこれだった。
だが愛車の走る国道5号は何故か高度を上げた。そして曲がりくねり出した。
路面は綺麗だが、眺望は開けない。只の山道だ。
途端に朝を急ぐ小樽市民の車に追抜きを掛けられた。
此方も朝の一番から時速80キロは出しているのだが、乗用車達は次々と後ろから現れては抜き去っていった。
なんだ、この車速は?
京都の街の中とは、丸で速度が違う。
山道では単車の方がイニシアチブを取っているはずである。なのに狩る側ではなく狩られる側になってしまっている。
確かに急な登り坂だ。馬力では負けてはいたが、これでは格好がつかない。
アクセルを、スナップの効くギリギリまで捻り上げた。
タコメーターの半分も速度計は跳ね上がらなかった。ブルブルと震え、90より先には意固地に行こうとしない。
よく考えれば幾星霜もの風を越えた爺さんバイクだ。
右手を深く持ち替え、全開まで捻り上げてやろうかと思ったが、止めておいた。
これを敗退的行為と取るなかれ。
道路交通法を遵守したわけでもない。そんなものはクソほどにも思ってもいなかった。
まだ一点の反則も取られた事も無かったし、取られる奴は只の間抜けだ、とすら思っていた。
愛車を労わった。自分をそう落とし込んだ。
峠の頂上と思われるトンネルが口を開き、飛び込む僕と愛車を飲み込んだ。
平行へと戻ってゆく路面を徐々にスピードを上げ、抜けてゆく。
煤けたコンクリート壁に左右二本の線のように流れるオレンジ色のランプが、大きくなっては後ろに消えていった。
ランプの線に導かれるように進む。白い明かりが見えてきた。
アクセルの量だけ徐々に大きく、青くなってゆく。
上半身に受ける風の量が違ってきた。
耳朶には風の音しか入らない。
視線を落とし速度計を見やった。意識的に加速したわけではなかったが、先程までは頑なに拒んでいた90の目盛を超えていた。
トンネルの中なのでよく分からなかったが、路面も前傾しているようだ。
櫛形に切り取られた前面の青が、思いのほか早く近づく。
尻をボストンバッグとのほんの少しの隙間を潰せる所まで目一杯後ろにずらし、アップ気味のハンドルの陰に上半身を畳み込んだ。
これで受ける風は少しましになった。
愛車はスピードに乗った。そして、僕は青の中に飛び込んだ。
視界が開ける。
何の事はない只の下り道。眺望もない。ただ片側二車線の太いアスファルトが、麓に向けて折れ下っているだけだ。
惰性とも言うべき加速で下りだした僕は、大きなカーブに体を外へと持って行かれそうになり、慌てて車体を内側に倒れ込ませた。
足を置いていたステップが路面を噛み、一度、カリッと鳴った。普段はここまで倒しこんだりはしない。アクセルを戻し、エンジンブレーキを効かせてユラユラと下るのが常だ。
スピードを増し過ぎたのだ。
だがカーブの出口が近づくとアクセルをもう一度捻り、加速と共に車体を立て直した。
減速ではなく加速して次のカーブに向かった。そして車体を倒しこむ。
ガリガリガリ。今度は左足のステップがアスファルトを噛んだ。しかもカーブの入口から出口まで。
やってみると案外できるものだ。勿論これ以上倒しこむと、すっ転ぶ。それを知らせるためにステップの先には突起が付いていた。
この摩擦音はその突起が路面に擦れて鳴く音だ。ガリっと鳴り、足に振動が伝わった。
ブーツが踏むステップのその下は、硬いアスファルト。触れるな危険。ってやつだ。
カーブを三つほどこなすと、トンネルの手前で僕を置き去りにした4WDに追いついた。
別に張り合ってもいなかったが、追い越し車線の4WDを走行車線から抜き去った。
下りでは馬力よりも転回力がモノを言う。だから上り坂での仇を下り坂で取ったというわけでもなかった。
ただ乗り物の特性がそうさせただけだったし、僕も4WDの運転手もどうのこうのは無いはずだし、無かった。
坂を下り終えると、疎らな建物が現れた。
郊外の国道沿いによくある風景。大きな駐車場を要するドラッグストアや安物靴屋、パチンコ屋。ファストフードのチェーンがその隙間を埋める。
どこも同じだ。北海道でも見る羽目になった。
この頃になると僕も単車も調子が出てきて、かなりのスピードが出せるようになってきた。
他の車と同じ流れか、それ以上の速度を出せるようになっていた。慣れとは怖いものだ。もう体が速度に追いついてしまった。
起きだした郊外の平凡国道は、道自体は寝ぼけた道で、国道と冠するくらいだから小樽と札幌を繋ぐメインストリートなのだろう。ただし本州とは何も変わらない道だった。
旺盛なフェリーの同乗者達が夜のうちに札幌の先まで抜けるんだ、と言った意味がなんとなく理解できた。
この道なら、夜の闇の中で抜けたって勿体無くはない。太陽の下で見る必要もない。
やがて高架道路まで眼前に現れた。
自然とは程遠い人工物だ。
車線が割れる。国道はここで二手に分かれるようだ。
真っすぐはR5。札幌、手稲。
左にR337。留萌、石狩。
青標識がそう告げる。
街には用はない。迷わず左にウインカーを出した。
国道337号に入る。小樽からの車は皆、まっすぐ進み、札幌へ向かった。
こちらの道に入ったのは僕だけだった。
のっぺりした直線道。走っているのは僕の単車一台。誰に気兼ねもない。速度標識など関係なしに自分の心地よい速度で邪魔されずに走った。
まだ九月の始めだ。朝起きて、少し肌寒いと思ったが京都ならTシャツ一枚で走れる季節だ。
だからロングスリーブの上に革ジャンを羽織って走っていた。
羽織っていた革ジャンはアメリカ製のダブルのライダースだ。両肩には星型のピンバッジが付いている代物で、白黒映画でマーロン・ブランドが着ていた物のレプリカだ。
叔父に教えられるまでピンナップに映るレザージャケットの若者が、ゴッドファーザーのボスと同じ人物だということに気付かなかったのは、ご愛嬌。
兎に角、オートバイに乗ってきましたって感じの主張の強い上着だったので中々、普段街中で着られるものではなかった。だからこの機会に、と勇んで着てきたのだ。
これだけで十分。というより仰々しすぎる、とまで思っていたのだが、スピードに乗り、風を受けると汗をかくどころか、寒い。
このまま一日走り続けるのは到底無理だ、と判断して愛車を路肩に停めた。
風が無くなれば何ともないのだが、もう既に体は冷えだしていて、背中が悪寒と言うには大層だがブルっと小さく震え、出発前にしたはずなのに小便がしたくなった。
周りを見る。防風だか何だか林に囲まれ、誰もいない。誰も走っていない。
立ち小便をしても誰も咎めない。してもいい場所だ。
だが、暫し逡巡して、しないと決めた。別に紳士ぶったわけではない。家の近くにある競輪場に通うオヤジ共の様な背中を見せたくない、と思ったからだ。彼らは学校から帰る子供たちなどお構いなしに、壁際に虹をかけ、一物を仕舞い込む既に、ブルっと背中を震わす。
嫌だ。あれはしたくない。
ただ防寒だけはしておかなくてはならない。
ツーリングネットをずらして後ろのボストンバッグからトレーナーを引っ張り出し、ロングスリーブの上に着込んだ。そして皮ジャンを羽織って、窮屈になったジッパーを一番上まで閉めた。真冬の格好だ。
一番上まで締め切るのもマーロン・ブランドの着こなしだ。これで胸元からの風の侵入も防げるし、そしてスマートだ。季節感は無いが。
これでよし、と単車に跨った僕はキックペダルを踏み下ろした。
もう十分エンジンは暖機されている。一発でトリプルマフラーは咆哮した。
そして後方を確認して車線に躍り出た。考えると停車していたこの間、一台の車も通過しなかった。
寂しげな道だ。外れとはいえ札幌市内のはずだ。300番台とはいえ国道で、広い高規格道だ。だが走るのは自分一人。忘れ去られた気になってくる。
五速まで跳ね上げたエンジンは、4000回転あたりで速度を三桁に乗せた。
誰も邪魔しない直線道。京都を走っている時より二割増の速度だ。
街中ではこんなスピードでは走れないし、速度狂でもないから走らなかった。だが此処では走れるし、この速度が心地よかった。
また分岐が現れた。
今度は真っ直ぐだとR337。札幌、茨戸。
左にR231。留萌、手稲、浜益、花川。とある。
また札幌行きの標識だ。僕は思った。そこまで誘いたいのか?
僕は本線から外れ、北へ向かう国道231号に入る側道に単車を寄せた。
広く淋しげな道は、このまま真っ直ぐ、徐々に車の数を増やしてゆき札幌の市街地へと注ぎ込むのであろう。
僕はその大河に抗った。大した思想があったわけではない。街を走りに来たわけではなく、大地を走りに来た。ただそれだけの理由だ。
国道231号は暫し、337号と同じような走行車の少ない寂しげな道を僕に提供し、大きな川に橋を架けた。石狩川。聞いたことのある川だ。北海道一の大河でなかったか…地理の授業でそう習ったように思う。
地理と歴史は得意科目の少ない僕が、去年の年末に年賀はがき仕分けのバイトの折に書いた履歴書に得意であると明記した科目であった。
地理が得意と書いておいた方が時給のいい配達業務を請け負えるぞ、と郵便局のバイトに誘い込み、僕の年末を無色に変えた張本人である同級生の村上のアドバイスに従ったのだが、結局、クリスマスを含む年末の一週間を全日でひよこの牡牝判別の様な、はがき仕分けに費やさせられてしまった。
これなら、いつものピザの配達の方が時給も数段高かったくらいだ。バイト仲間の子安君などはクリスマス前後の稼ぎ時に荒稼ぎをし、九州への里帰り費用をこの間に集めてしまったという。だから真冬に単車で帰ると言っていたのに往復とも飛行機で賄い、土産によくわからない饅頭まで買ってきてくれさえした。
ジュンにも彼女の為にクリスマスにシフトを外して貰ったというのに、村上の甘言の所為で不興を買ってしまい、三学期が始まって学校でクラスメイトとして顔を合わすまで会ってすら貰えなかった。
だからかなり前から一緒に行こう、と言っていた初詣にも行けなかった。
村上に話すと、俺が一緒に行ってやる、と請け負ってきたが、それは唾吐くように辞退した。
石狩挽歌。
一つも歌えないが、そんな唄もあった気がする。
川を越えると道の両脇に自然が現れ始めた。
その何たるか、を完全に理解していたわけではないが、挽歌って風景。本州の田舎道とは違う。北海道の自然だ。建物の屋根に瓦が乗っかっていないからそう思うのか…建物自体が集落だ、共同体だ、という感じで集結せず疎らだからそう思うのか…
否、それよりも拓けきっていない感じのする広がる草原が、異世界を感じさせたのだ、と高い木が無いことに気づいた僕は得心した。
道の両側には草原が広がり出した。
青くなく浅黄。
まだ九月だというのに秋色に近かった。

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